忍耐にて
待ち望んだ結果を目の前にして、本心を隠せる者は、どれだけ存在するのだろうか?
私?
私は、無理だ。
なにせ、勝利の言葉を告げられた瞬間に、歓喜の声をあげてしまったのだから。
いや。
一応、出来る限り緩んだ口元を手で隠したが、それでも感動は隠せなかったのだ。
証拠が、これだ。
「その言葉を聞けて、とても嬉しいよ。代わりと言っては何だけど、さっきの私の言動の全てを、綺麗さっぱり忘れてほしいね」
しかし、自分で言っていながら、先程の記憶違いは一体何だったのか、ふと気になった。
恐らくは、聴覚情報が視覚情報に惑わされてしまった故の産物だったのだろうと思ったが、それではないような気もしたのだ。
けれど、もう終わった事なのだ。態々、蒸し返される事もないだろう。
すると、そんな私の顔を見て、雄一郎さんが首をすくめながら、静かに
「貴方に言われずとも、忘れますよ。では、僕の思い出話に移りましょうかね」
と、こう言ったのである。
ああ。
「ようやくだ」
「ですが、今回の話は先程申し上げた通り、何の変哲もない、お付の老紳士に品位が何なのかを教わっただけの話ですよ」
「それはそうだけど、気になるのさ」
「まったく。貴方の記憶力が正しかった事は嬉しいですがね。第一、暴力的な話になる内容をしていないではないですか。もう少し、老人を労ってください」
良かった。
その姿は、先程の私を揶揄う姿とは、かけ離れていた。
「呆れているところ悪いけど、話し相手が貴方じゃなかったら、信じられたよ」
「おやおや」
「春の時の事を思い出してほしいね。それにしても、本当に貴方が品位が何たるかを理解していなかった時があったのかい?品位が服着て歩いてるような、貴方だよ?」
そう。
今でも到底、信じられない事なのだ。
雄一郎さんの事を知っていれば知っている程、何かが減っていくような感覚が拭えない。
まるで、小遣い稼ぎだ。
あれは、仕事をすればする程、精神がすり減っていく。
出勤しようと家を出た瞬間に、豪雨のような涙が止まらなくなった時の意味の解らない涙が、新しい雄一郎さん一面を知った時の何とも言えない感情にそっくりだ。
違いはあるが、両方、理解出来ないのだから、似ている事には変わりないだろう。
すると、雄一郎さんが不機嫌そうな声で言った。
「品位が服を、ですか」
「ああ」
「おやおや。貴方は一体、僕の事を何だと思っているのですか?前にも、言ったでしょう」
「何を?」
「僕の子供時代の事です。幼少の頃の僕は水溜りに足を突っ込んで泥だらけになり、野を這いずり回って傷だらけになるような子供だったのです。そんな子供が品位を理解している訳がないでしょう」
恐らく、雄一郎さんは不服なのだ。自分の子供時代を美化されているように感じているのだろう。
「いや、泥だらけになってた子供の時でも、品位が備わっていたと思ってたんだよ」
しかし、美化して話せる話題があるだけで尊敬に値する事を雄一郎さんは知らないのだ。
私には、話す相手も内容も存在しないのである。しかし、これでは理想を押し付ける信者の方が聞き分けがあるだろう。
その時だった。
「貴方、赤ん坊が生まれた時から、両足歩行が出来ると思っているので?」
雄一郎さんの、鋭い声だった。
言葉の刃が、的確に私の精神に突き刺さった瞬間である。
「いや、そうは思っていないけど。ああ、そういう事か、訂正するよ。貴方は、成長したんだね」
それなら、不機嫌になる理由も解る。
努力して勉強した事を、意味がなかったと、元々の才能であったと言われたようなものだ。
不機嫌にならない訳がないだろう。
「ご理解感謝します。ええ、確かに僕は成長しましたよ。天才も努力をしなければ、凡才になるとは、良く言うでしょう?」
そう言った時の雄一郎さんは、少し得意げな様子だった。
恐らく、雄一郎さんは自身の成長を、誇りに思っているのだろう。
声の形が刃のような鋭さから、花のような柔らかさに変わっていた。
「残念ながら、私はその言葉を聞いた事がないから、何とも言えないんだ。でも、随分と、貴方にとっては重要な言葉みたいだね?」
「ええ。もちろん」
「そして、それは貴重な成長だったみたいだ。なにせ、その成長がなければ、私と出会っていなかったかもしれないんだ。そう思うだろう?」
人生は、一期一会なのである。
「そうですね。人生の縁に感謝しなければいけません。勿論、一等の感謝を示す相手は決まっていますが、ね」
「そのお相手は?」
態々聞く必要のない事を、決まっているような事実を尋ねた。
万が一の事がある可能性を考慮したのである。
「素敵な老紳士に。なにせ、この成長は彼のお陰ですから」
「貴方の、ご友人じゃないのか」
ほら。
万が一の事があった。
私の予想が、大きく外れた瞬間である。
確かに、話の内容から推測すると、違う事が解るが、それでも感謝を送る相手が想像していた人物と違っていた事には、驚いた。
その時だった。雄一郎さんの表情が曇った。
「彼には、感謝よりも先に、謝罪を伝えなければなりませんから」
懺悔を、悔恨を告げるようなそんな言い方だった。
それに、謝罪と口にした友人の表情は、故人を見つめ嘆くような、そんな顔だったのだ。
ああ。
これ以上踏み込んでは、いけない。そう、思った。
「そう、なんだ。でも、その件の老紳士は、そんなに素晴らしい人格者だったのかい?いや、疑う訳じゃないけど」
だから、話題を変えた。
これ以上踏み込めば、なにかに、喰われると思ったからである。
すると、この判断が功を成した。
雄一郎さんの雰囲気が、先程の不穏な雰囲気から、穏やかな雰囲気に一変したからである。
「おや。それでは断言しましょうか。彼は、人格者ですよ」
「その理由は?」
「彼が、様々な事を知っていたからです。ええ。その知識が、彼を人格者足らしめていたのでしょう」
「それは、納得だ」
反論の余地もないだろう。
「ええ。あ、貴方に必要な、上手な人との付き合い方も友人と一緒に教えて頂きましたよ」
何?
「それは、教わりたいな。悪人と縁を結ばないようにする方法とか、人に嫌われない方法とか、ね」
これは、私にとっては、とても重要な事である。
特に後半部分。
特に友人、知人関係は重要だ。今までの人生において、あまり友人がいなかった事実が私の胸を圧迫してくるからである。
まあ。
前半部分は、おまけだ。
「おやおや。悪人、ですか」
しかし、雄一郎さんが興味は、私が巫山戯て呟やいた言葉の方に向いたのだ。
「え?何か、変な事を言ったかい?」
考えていなかった方に舵を切られたからだろう。
私は、少し不安になったのである。
「いえ。彼の教えの中に善悪で人を判断するな、というものがあったのを思い出しましてね」
彼、というのは件のご老人の事だろう。
それにしても、それは、随分と独創的な考え方である。
「不思議な教えだね。ひょっとして、その人は、聖人の類なのかな?」
少し前に読んだ本に、似たような事が書かれていたのを思い出したのだ。少し表記は異なるが、似たような事だろう。
確か、この喫茶店の店主も似たような考えを持っていた筈だ。
しかし、そんな考えは一瞬で覆された。
「残念ながら、聖人ではなく、紳士ですね」
雄一郎さんが、強い口調で、そう言ったからである。
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