苦痛にて
失態は、どこまでも付き纏うものである。
証人は、私だ。
ああ。
雄一郎さんに、この事実を告げる時が、やってきた。
まあ。
もう既に雄一郎さんは解っているのだ。
何も、恐ろしい事はない。
さあ。言おう。
「簡単に言うとね。えっと、貴方の推察の通り、体調が悪化して、その、入院してた」
そう。
入院である。
私は、病院に入り療養生活を送っていたのだ。
「はい?」
すると雄一郎さんは、素っ頓狂な声を上げて、目を見開いたである。
え?
なぜ。驚くのだ?
「知らなかったの?だって、あんな素晴らしい笑顔で聞いてきたものだから、知っていると思ってたんだけど」
「知りませんよ。そんな事」
あ。
墓穴を、掘った。埋まりたい。
「うそ、でしょ」
「うそ、ではありませんよ」
「なら、私は自分で自分の首を」
絞めた、とそういう事になるのか。
「残念ながら、そのようですね」
誰か、嘘だと言ってくれ。
今すぐに。
「そんな、怒られると思って、必死にお腹痛くなりながら、散々予防策を張ってたのに」
「ああ、なるほど。貴方の勘違いでしたか」
そして雄一郎さんは、一瞬、惚けたような表情をしていたが、直ぐに納得したように頷いたのだ。
そして、
「僕は、何も知りませんよ。なので、貴方が先程言った、入院について、詳しく聞かせてくださいね」
と、言ったのである。
背後に、般若が見えた気がした。
「あ、うん。解った。いや、解りました。白状します。でも、入院したのは少しの間だけだよ」
「そうですか。良くありませんが、良かったです。それで、貴方の身に何があったのですか?」
それは、言わなければ、駄目なやつだろうか。
出来れば、言いたくないのだが。
ああ。
だが、その瞬間だった。
雄一郎さんは、私の心を見透かすように
「言いなさい」
と、言って、口を噤んでしまったのである。
ああ。恐い。
般若を背負った雄一郎さんを見た事はなかったから、余計に恐い。
だが、そんな恐ろしい状態の友人にも言えない秘密が、私にはある。
それは、入院した切っ掛けだ。
その理由は、好奇心と恐怖掻き乱された
「あの夢」
が一因として関係しているからである。
そう。
あの夢で見たくろいなにかが、常に私の脳裏を横切り、恐怖心を植え付けてくるのだ。
ああ。
やはり、これは雄一郎さんには、言えない。
恥ずかしい事だが、視界に一瞬でもくろいものが写ると、足が竦み、歯が震えてしまうのだ。
それが烏であっても、目の錯覚であっても、同じ事である。
それに、私はここで変な軋轢を生みたくなかったのだ。
ただでさえ、雄一郎さんはあの夢を良く思っていないのである。
これ以上は、流石に不味いだろう。
それに、私のつまらない心境など、告げる意味もない。
このような感傷など、思考の隅に捨てた方が良いのだから、当然である。
しかし、あの一件のおかげで、私はくろが苦手になってしまった事は、事実だった。
そう。
くろがこわい。
暗闇がこわい。
こわい、怖い、恐い、畏い。
私の思考は、常にくろに奪われ続けたのだ。
特に、夜は辛い。
辺り一面が闇に包まれ、くろが追いかけてくるような気がするからである。
ああ。
あまりの恐怖から、八時間とっていた睡眠が三時間になり、寝不足になった事を思いだした。
これは、心的外傷だ。
こうして、私の精神は酷く蝕まれ、肉体にも影響を及ぼしたのである。
そして私の体調は、あの二週間とは比べる事が出来ない程には、悪化した。
「えっと、どこから説明しようかな。最初は一種の睡眠障害のような状態だったんだよ」
「睡眠障害、ですか?」
「ああ。くろが恐くなってしまってね」
「くろ、ですか?」
「正確には、くろいものだね。だから、夜とかに瞼を閉じるのが恐くなってしまって、眠れなくなってしまったんだ」
自分でも、このような自白をしたくはなかったが、これ以上事実を隠す事も出来ないと理解していた。
なぜなら、雄一郎さんの目が、獲物を見つけた狩人のように冴えているからである。
「おやおや」
そして恐ろしい事に、彼の口調は、罪人を許す神父のように穏やかなのである。
これは、全てを暴露して楽になろう。そう、思った。
「それでね。日を置く毎に恐怖が増してくるから、とても困ってしまって」
「それは、そうでしょう。ですが、暗闇が恐いとは。なにか心当たりはあるのですか?」
「ある。けど、言いたくは、ないかな」
本心だ。あの一件が原因の一つだ、と言う気力など私は持ち合わせていない。
まず、そのような気力があったのなら、このような卑屈で気難しい性格をしていない。
「そうですか、解りました。ですが、眠りたい時に、眠れない事は立派な精神的苦痛ですからね。それで、入院を?」
「いいや、入院した理由は別だよ。けど、精神的苦痛は原因の一つだね。後から病院の先生にも言われたよ」
「そうですか」
「そうだよ。それでね、この時の私は、まだ入院せずに家にいたんだ。でも、あの時の選択は、我ながら愚かだったね」
今、思い返してみても自己嫌悪に浸れるくらいには、愚かだった。
「愚か、ですか?」
雄一郎さんの、疑問が私の耳を打つ。
「そうさ。恐い物は恐いから眠りたくないって、変に無駄な意地をはって無理矢理にでも起きてやろうと、何日も徹夜をしたんだ」
結果、私の体は高熱に魘され、食欲は落ち、寝たきりの生活を送り、大学にも行けなくなった。
私は最初、あの二週間の事があり、季節外れの風邪が悪化しただけだと思って、安静にしていれば大丈夫だ、と薬も飲まず、寝て過ごしていた。
しかし、それが、駄目だったのだ。
そのような生活を送っていると、次第に食欲がなくなるのだ。
ずっと食べていた蒟蒻飲料すらも食べられなくなった時は驚いた。
そして、ある事実に気がついた。
「本当に、突然の事だったよ。飲まず食わずに活動するのが、健康に悪い事だと身に染みて解ったね」
「おやおや」
「でも、あの時は本当に驚いたよ。体を起き上がらせる事が、出来なかったからね」
「そのような、他人事のような口調で言わないでください。貴方の体なのですよ」
雄一郎さんは、咎めるような口調で言った。反論出来ない、見事な正論だ。
けれど、あの時の私は、まるで映画を見ているような感覚だったのだ。
疲れていたのだろう。
そうでなければ
「ああ、私は今あの夢の再現を実体験しているのだ」
と判断しながら、放置しない。
少なからず、諦めも入っていたのだろう。
ただでさえ、くろいなにかに追われて、精神的に憔悴しきっていたのだ。
現実逃避の一つや二つしたくなる。
それに起き上がれなくなるのは、今回で二度目だった。今回は見える景色が違うだけ。
些事だ。
このような状態が、少なくとも三日は続いた。
「貴方の言葉を否定したくないけれど、あの時の私はとても疲れていたから。なにも、考えたくなかったんだよ」
「それが、命に関わる事であっても、ですか」
「そうだね。あの時の私は、少なからずそうだったよ」
「そう、ですか。解りたくはありませんが、理解はしました」
「なら、良かった」
「ですが、聞きましょう。なぜです?なぜ、僕を呼ばなかったのです。少なくとも、僕に連絡の一つでも入れてくれれば、そのような事には」
糾弾とは、違う。
怒りとは、違う。
雄一郎さんの声の色は、純粋に心配を示していた。
だから、苦しい。
これから私は、貴方を傷つける言葉を、吐かなければならないのである。
だが、これは変わる事のない私の意志。だから、出来る限りの笑顔で応えた。
「貴方の、迷惑になりたくなかったから」
雄一郎さんは、その言葉を聞いて、唇を噛みながら、苦し気な表情で、口を閉ざした。
事実。
私は雄一郎さんに様々な迷惑をかけてきた。
これ以上、迷惑はかけたくなかった。
だから、両親や雄一郎さんに助けを乞う事は出来なかった。
すると、私の心境を知らない雄一郎さんは、怒りを顕わにしながら、言った。
「次、そのような事があったら、僕を呼んでください」
「え?」
「貴方の言う迷惑など、可愛いものです。ですから、必ず、僕を呼んでください。いいですね」
静かに震える、懇願の声だった。
沸々と湧き出る、憤怒の声だった。
「わ、解った。約束するよ。両親にも散々怒られた後だからね。後悔も、反省もしているから」
「おや。それは良い事です。僕が言うより、何倍も良い」
先程の怒りは表面上では、なりを潜めていたが、目の奥で渦巻いているのが解った。
けれど、その事実を指摘するのは藪をつついて蛇を出すだけだろう。私はその視線に気付かないようにしながら、話を続けた。
「それは、そうだね。今回私が助かったのも、両親が私を病院まで連れて行ってくれたからだし」
二人共、焦った事だろう。
一週間という長い出張から疲労混倍で帰ってきたら、倒れている私を発見したのだ。
私が起きた時には、病院に担ぎ込まれ、点滴をしていた後だったので、詳細は解らなかったが迷惑をかけた事に変わりないだろう。
「本当に、両親には感謝の言葉しか出てこないよ」
「貴方のご両親は、素晴らしい人格者なのですね」
「そうだね。貴方の言う通り、私には過ぎた人達だよ。話を戻そうか。入院した後、倒れた原因が解ったんだ。栄養失調だった」
「それは」
「それでね、病院で体力を元に戻そうって話になったんだ」
わざと、雄一郎さんの言葉を遮るように言った。
雄一郎さんは片眉を上げたが、何も言ってこなかった。
「それは、療養生活という物ですかね」
「そう、なるのかな」
結局、体力が回復し、自由に歩けるようになったと思った時には、月が三回も周っていた。
これが、私の入院騒動である。
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