08.あなたからの手紙と張り裂ける心
どうして――?
その手紙には〝君との婚約を破棄したい〟という趣旨の言葉が並べられていた。
理解できなかった。
なぜ?
昨日まではあんなに愛のある言葉をこの手紙で紡いでくれていたというのに、どうして急にここまで心変わりしたというの――?
「……」
感情が追いつかなくて、頭の中が真っ白になる。
……これは、きっと彼の意思ではない。
いや、この手紙を書いたのは彼ではない。
殴り書きで書かれたサインと文章の綴り方を見て、そう思った。
昨日までの丁寧なものとは違い、とても投げやりな印象を受けたから。
それでも、彼を騙ってこのようなものを送りつけてくる相手がいることに混乱し、いったい何が起きているのかと震える手で手紙を握りしめたとき、一つの疑問が浮かんだ。
「……」
なんとなく、この字体には見覚えがあったのだ。
それを確かめるべく、過去の手紙をすべて引っ張り出し、読み返していった。
そして私は、とても信じ難いことに気がついてしまった。
*
「こんにちは、ユリアーネ」
「……こんにちは、ルディさん」
その日も、ルディさんはいつもと変わらない笑顔でやってきた。
どうやらまだ、あのことは知らないらしい。
「ルディさん。申し訳ないのですが、キッチンの戸棚が壊れてしまって……見ていただけませんか?」
馬から下りるルディさんにそう言って、彼を邸内へと通した。
こうしてお願いでもしなければ、彼は家の中に入ってくれないだろうから。
私は嘘をついて、ルディさんを邸内へ招き入れた。
ルディさんに嘘を吐くのはとても心苦しいけれど、彼だって私に嘘を吐いている――。
「――壊れてしまった戸棚はどれだい?」
「……」
何も疑わずについてきてくれた彼を、私は椅子に座らせた。
「それは後で……。それより今日も手紙はありますか?」
「ああ」
少し疑問を抱いたような表情を見せつつも、ルディさんはいつものように胸の内ポケットから手紙を取り出した。
「……」
躊躇わずにルディさんの前で封を切り、広げて目を通す。
〝親愛なるユリアーネ
もうすぐ君に会えるね。
そう思うと私の胸はいっぱいになり、とても苦しい。
素敵な君に私は釣り合えるだろうかと、不安になったりもする。
でもこの手紙に綴ってきたことがすべてだ。
君を愛している。
この想いを直接君に伝えられたら、どんなに幸せだろう――。
カール・グレルマン〟
そこには、いつもと変わらない綺麗な文字で愛の言葉が綴られていた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚を覚える。
……ああ、やっぱり。
「ルディさん、この手紙はどなたからですか?」
「え? 何を言っているんだ。君の婚約者の、カール・グレルマンからに決まっているじゃないか」
「……本当のことを言ってください」
彼の正面に座り、静かに口を開いた。感情的にならないよう、冷静に。
「……どうしたんだ?」
けれど、どうやら白を切るつもりでいるらしいルディさんに、私はテーブルに置いていた箱の中から先ほど届いた手紙を取り出して、彼に広げて見せた。
「実は、手紙が届いたんです」
「え?」
「相手はカール様です。内容は、私との婚約を破棄したい。というものでした」
「――なに!?」
出された手紙と私の顔とを交互に見て、ルディさんはその綺麗なお顔を曇らせた。
「もう、ずっと前からカール様の気持ちは私にはなかったのですね」
「……」
「この手紙を書いてくれていたのは、あなたですか? ルディさん」
「……」
黙り込み、ぐっと奥歯を噛みしめるルディさんの表情が、肯定を意味していた。
覚悟はしていたのに、その表情にどんどん胸の奥が痛みだす。
「……答えてください」
それでも、直接聞きたかった。
彼の口から、真実を知りたかった。
だから少し、感情的に大きな声を出してしまった。
「……すまない。君を騙すつもりはなかったんだ」
「どうして……」
私の視線から逃げるように目を伏せてそれを認めるルディさんに、私の中で何かが嫌な音を立てて崩れた。
「彼からの手紙が途絶えたことがあっただろう? あのとき、君はとても悲しそうな顔をしていた。……だからつい、最初は君が元気になってくれればと、ほんの出来心で書いたんだ。彼の字体を真似して、ただ君に笑ってほしくて」
「……そんな」
本当はわかっていた。カール様からの手紙が途絶える前と後では、よく見ると文体が違う。似せようとしているけれど、字体も違う。
更にその文字は、日に日に書き手本来のものへと変わっていった。
毎日似せて書くということが難しくなったのか、これがカール様の字として私が受け入れる頃だと思ったのか。
そしてこの婚約破棄を申し出る手紙の文字は、最初の頃のカール様のそれと同じだった。
――そんなことができるのは、しようと考えるのは、ルディさんしかいない。
覚悟したようにまっすぐ私を見つめる青銀色の瞳に、胸の奥が抉られるような感覚になる。
「訓練に慣れればまたすぐに手紙を書き始めるだろうと、それまでの間だけ、俺が彼の代筆をと、最初はそう思っていた。だが彼は一向に手紙を書かなかった。それどころか……その、君のことを忘れてしまったようにも見えた」
「……」
ズキズキと痛む胸を押さえながら、黙って話を聞く。
「こんなことはいけない、君に本当のことを告げなければと、何度も思った。だが、言えなかった」
〝本当にすまない〟
彼はそう言って、深々と頭を下げた。
その銀髪を見つめていた私の目頭は熱くなり、じんわりと視界がぼやけていく。
ルディさんは悪くない。
すべて、私のためにやってくれたこと。
だから、責めてはいけない。それはわかってる。でも……。
「……すべて、嘘だったのですね。私は、一人で舞い上がって……あなたの嘘の手紙に、恋をして……、喜んで……、馬鹿みたい……ですね」
我慢し切れず、ぽたり、ぽたりと、熱い雫が膝を濡らしていく。
「ユリアーネ、違う、あの内容に決して嘘など――」
「今までありがとうございました」
ばっと顔を上げるルディさんから視線を逸らし、今度は私が頭を下げる。
「……ユリアーネ」
「すみません、どうか……今日はお帰りください……」
泣いている顔を見られたくなくて。
声が震えてしまったからもうばれているかもしれないけれど、私は頭を下げたまま、ただそう言った。
「……本当に、すまない」
「……」
上からその言葉が降ってきたのを最後に、ルディさんは静かにこの家を出ていった。
「う……っ、ふっ……」
きっともう、ルディさんに会えることはない。
どんな嫌がらせを受けても、どんなに傷つくことを言われても、ルディさんと短い会話を交わして、あの手紙を読めば元気が出た。
もう少しでこれを書いてくれている方の元へ行けると思えば、救われた。
いけないことだけど、手紙のお相手がルディさんだったらどんなに素敵なことだろうと、夢を見たこともあった。
それは現実だったけど、理由は私を悲しませないため。
あそこに綴られた愛の言葉だけが、私の生きる希望だったのに。
それは〝偽りの手紙〟だった。
あと少しで、あの手紙を綴っている方の元へ行けると、信じていたのに。
すべてなくなってしまった――。
「うう……っ、ひっ……ふ……っ」
母親を亡くした子供のように、一人ぼっちの邸内で、私は声を上げて泣いてしまった。