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それにしても、おれを取り巻く状況は相変わらずクソだった。メシは食えるモノが限られていて、やがておれの体はガリガリに痩せ細ってきた。保護室の中にいても、今日はちょっと調子が良いな、音楽でも聴こうかな、と思っても部屋の中にはラジカセ一台すら置いてないことにハッと気づいて、おれは悲しかったし、退屈な思いを強いられた。
その上、注射も一日に一回は毎日必ず打たれた。
ある日のこと、宇都美と松田先生が立ち合いの元で、いつものように看護室で注射を打たれた。おれはここに来た当初に幻覚症状があったことを、言ってやろうと思った。
「この注射の成分は何が入っているんですか?」
「これはね、セレネースやタスモリンという精神薬だよ」と、松田先生が言った。
「おれがこの前、注射を打たれたあと、ヒドく不快な気分になりましたよ」
おれがそう言うと宇都美は、しまった、というような顔をした。
「あんな最低な気分になったのは初めてですよ」と、おれ。
「それはおかしいな」と、松田先生が言いながらおれに注射した。
それが終わると、おれはタバコを吸って、一服してから再び保護室へと戻された。戻ったあとも、この前みたいな幻覚症状が起こる訳でもなく、その日は穏便に過ごすことができた。
考えてみれば、味方であるハズの松田先生が、おかしな注射を打つ訳がなかった。やっぱり宇都美の奴がおかしい。おれはそう思った。
ちなみに宇都美という医者は、自分の言いなりになる患者や従順な患者には甘かったが、少しでも反抗的な態度をとったり、批判したりすると手のひらを返したように、強力なクスリや注射で患者を黙らせた。院内の先生の間でも、そんなやり方に反感を持つ先生は多かった。岩井先生や松田先生も当然そうだった。おれみたいな患者は宇都美にとっては目の上のたんこぶだった。だからおれは宇都美と闘う決心をした。
その次の日、おれは投薬される為、看護室まで呼ばれた。クスリを看護婦さんから手渡されたクスリはいつもおれが服薬しているのとは、色が違っていた。
「これ、いつものクスリとは違いますよね」おれは看護婦さんに言った。
「変ですねえ。松田先生に訊いてみたら?」看護婦さんにそう言われて、看護室の壁側に背を向けて立っていた松田先生のところまで行った。
「先生、これは…」おれが言おうとして、ふと、看護室の中にある面会室に目をやると、おれの親父てお袋が並んでイスに座っている姿があった。おれは思わず声を出して、アハハと笑ってしまった。
「なあんだ、こういうことだったのか」おれは笑いながらそう思った。
おれはまだ笑いが止まらず、クスクス笑いながら面会室に入って、机を挟んで親父とお袋の目の前に座った。
「どうだ?調子は」親父が言った。
「まあまあだよ」と、おれ。
その後、親父とお袋に雑談程度の会話をしたが、おれが目覚めてから思いついたことを言ってやった。
「たとえ100人中99人が良い人でも1人でもおかしな奴がいると、そいつのせいでみんなが迷惑する。だから100人がかりでそいつをやっつけないといけないんだ」
おれがそう言うと、親父もお袋も黙って固まってしまった。
「なるほど、完全に目が覚めている」親父はそう思った。
一通り話が済んで、おれが面会室を出て行こうとしたら、お袋が思わず啜り泣いた。
「泣くな」親父が一言、お袋に言った。
おれはさとちゃんが、大河ではなく、橋本と言う名前になったことを知っていたので、言ってやった。
「橋本さん、お袋が泣いていたよ。こんなバカ息子を産んでってね」
さとちゃんは面会室での様子を別室のモニターで観ていたので、たった今どんなやり取りがあったかを知っていた。
だからおれの冗談も分かった様子で「うん、そうだねえ」と、笑顔で応えた。




