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 おれのこととは別に、小沼サユリにはもう一つ頭痛のタネがあった。それは彼女の直属上司に当たる篠原のことだ。普段日ごろから、篠原の自分勝手でわがままで、自己中心的な態度や言動に振り回されていた彼女はある日のこと、一つの考えが思い浮かんだ。その考えとは、一言で言えば篠原の裏をかいて利用する、ということだ。それはもしも、その考え通りに実行すれば、篠原は彼女の思うつぼとなり、尋常の精神状態では無くなることは間違いなかった。彼女はそのことを思うと、思わずゾッとした。そのやり方と待ち受ける結果は、とても彼女一人の力では始末に負えなかった。彼女は思った。

「原爆で百万人死ぬことよりも、もっと恐ろしい…。こんなこと、あたしはやってはいけない。やらない方がいいどころの騒ぎじゃないわ。やってはいけない。そうよ。やってはいけないんだ。神様でも悪魔でもこんなことはやらない。この世の全ての力を超越している…」

 そこで彼女は決意した。「今夜一晩寝たら、明日の朝にでも郵便局で篠原に言ってやる。あたしにこんなことやらせないでって大騒ぎしてやる」

 その翌朝になると彼女はちょうど早番で、午前中から仕事があった。彼女は電車と徒歩で通勤して、郵便局の中で篠原の顔をみるなり激昂して、こう言い放った。

 「篠原さん!言いたいことがあれば、あたしに言って!あたしにこんなことやらせないで。無くなっちゃうんだよ。良いの?それでも?良い訳ないでしょ。知らないよ。笑い話じゃ済まないんだよ。それから、あたしに言いたいことが無いのなら、あたしには近づかないで!」

 篠原は彼女が言っていることと、何をそんなに激昂しているのか、何のことやら見当もつかず、ただ唖然としていた。


 その後、彼女は午後になると、朝方の様子とはうって変わり、一見すると落ち着いているようだった。しかし彼女は一人で相当落ち込んでいた。「こんなことをしたら、宇宙まで無くなってしまう」という自分自身の力のあまりの大きさに驚きもしたし、恐怖感にも駆られていた。

同僚の郵便局員がそんな彼女を見て心配して言った。

 「小沼サン、さっきはどうしたの?」

 「今は何も話したくないの」と、彼女はシュンとして言った。

 おれはそんな彼女の様子を遠巻きに見ていたが、おめでたくも何にも分かっていなかった。彼女が篠原に言い放った言葉が持つ意味と、その重大性におれ自身が気づいて、その数年後には彼女と全く同じ経験することになるとは、その時は考えにも及ばなかった。

 その日の郵便局での出来事は、それでお終いだった。

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