月夜の狩り
「……お、二人目も来たぞ」
南門の見張り塔の最上階から、噴水周辺を見下ろしていたアレックスが呟いた。その声を聞いて、アリスティドは隣に並ぶ。
王宮の南門前の広場には中央に大きな噴水があり、そこを中心として様々な店が軒を連ね、日が暮れた現在も多くの人で賑わっている。
その噴水の縁に先程から腰掛け、相棒が現れるのを待っている獲物一号は、先程アリスティドが追跡した時、先に逃げていった男……らしい。
というのも、店の灯りである程度は明るいものの、ここからでは顔も薄ぼんやりとしか見えず、特定の人間を探し出す事はアリスティドのような常人には困難なのだ。
……そう、常人には。
「今来た獲物二号の身なりは濃い緑色のハンチング帽とズボン。それから口元を覆う同色のマフラー。焦げ茶色のコートと肩掛けの鞄。噴水の西側の食堂の前で、店のメニューを見るふりをしながらチラチラ周辺を確認しているが、流石にこんな上から監視されているとは思わないようだな」
メガネをクイと上げて、言われた場所に目を凝らしてみるが、例のごとくアリスティドには全く見えなかった。もう長い付き合いだからいちいち驚きはしないが、この男の体がどんな構造になっているのか毎度不思議に思う。
――いや、この男だけではない。
アリスティドは今アレックスから聞いた情報を、広場に向けて軍用のハンドサインで示す。月明かりだけが光源のここはとても暗くて、仮に誰かがこちらを見たとしても、人が立っている位しか分からないはずなのだが──。
「お、シリルからOKサインがきたぞ」
アレックスに勝るとも劣らない視力の持ち主であるアレックスの実弟シリルが、ハンドサインを解読して周辺にちらばる団員に情報を共有する。じわりじわりと獲物を取り囲んでいく団員達。
このまま捕縛してもいいのだが、裏で糸引く黒幕を特定するために、あえて泳がせる手筈になっている。
暫くすると、用心深く辺りを警戒していた獲物二号が、獲物一号と合流し歩き出す。
「獲物二匹合流したぞ。さて……狩りの時間だ」
月明かりを受けて炯々と光る金の瞳。アレックスの実家である東の辺境伯家の先祖は古の狩猟民族だったというが、こういう時のアレックスを見ていると確かにそうなのかもしれないと実感する。
そして、標的になった獲物を僅かに憐れむ。
この男が狩りで獲物を逃がした事は、ただの一度もないのだから――。
****
噴水広場から伸びる大通りを歩きながら、獲物二号は周囲を気にしていた。僅かにだが、視線を感じるのだ。
そう思って周囲を見渡しても、それらしい人物はいない。
「まだ気にしてるのか? 変装もしてるし大丈夫だろ。北の方に逃げたと見せかけたから、今頃はあっちを捜索してるハズさ」
一方の、獲物一号はそう言って呑気に笑う。
確かに北の方に捜索部隊が派遣されていたのは確認した。それに先程噴水に着いて暫く一号を囮にして周囲を警戒していたが、特に何事もなくこうして歩いている。
顔を見られたのは第一騎士団の赤毛とメガネの二名のみ。
逃げる時に後ろからもう一名に追いかけられ、何かを投げつけられたが振り返らずに逃げた。
後から確認すると、後頭部から背中にかけて濡れていた。ペイント弾かと思ったが色はなく、劇薬などでもなく皮膚は正常。
香水のような、何か独特な匂いが染み付いただけだった。
変装の為に着ていた王宮の使用人の服を捨て、今の格好に着替える時に念入りに体を濯いだが、今も匂いが残っているような気がするのも、何だか無性に気になっていた。
「待ち合わせ場所は街の外れだろ? 人気がないから、尾行されてたら一発で分かるさ」
「……そうだな」
今までそれなりの修羅場はくぐってきた。気配を察知したら直ぐに離脱すれば問題ない。
そう思うのだが、まるで猟犬にじわじわと追い込まれる狐にでもなったかのような焦燥感が拭えなかった。
だんだん人通りも少なくなり、街をぬけて見渡す限り畑ばかりの地帯に来た頃には、辺りに人影はなかった。周囲に人が隠れる場所もない事から、やはり神経過敏になりすぎていたようだと、獲物二号は胸をなでおろした。
そこから更に歩いて到着した待ち合わせ場所には、質素な馬車が一台停まっていた。傍に立っているおそらく護衛だろう男の一人に合言葉を告げると、馬車に乗るよう指示を受けた。
車内にはこの計画の指示役の男と、怪しげな仮面を付けた貴族風の太った男が座っていた。
「……皇女はどうした?」
「申し訳ありません。あと一歩の所で邪魔が入り計画を断念しました」
「失敗しただと!? 何をやっとるんだ貴様ら!! せっかくこの私が怯える皇女を見学しに来てやったというのに!!」
獲物二号が指示役の男の質問に答えると、何故か仮面の男が怒り出す。
「舞踏会ではナギ皇子に恥をかかされたから、皇女を脅して憂さ晴らししてやろうと思ったのに、無駄足になったじゃないか!!」
おそらくこの国での協力者なのだろうが、うるさいし唾も飛んでくるし、今すぐ車外へ蹴り出したい程に邪魔だ。
「閣下、落ち着いてください。目的は皇女の誘拐ではなく、騒ぎを起こす事ですから。連れ出す所まで出来たなら、あとは皇女のそばに配置した者が上手く煽るはずです」
「あと少しで敷地外へ運び出せそうだった所で、第一騎士団所属という黒い軍服の騎士達に気づかれました。呼び笛を使って応援も呼んでいたのでそれなりに大事にはなっているかと……」
「何……!? 黒い軍服!? 第一騎士団だと!?」
それを聞いた途端、仮面の男が焦り出す。
「陛下の猟犬どもにかぎつけられたのか!? それはマズイぞ!!」
「陛下の猟犬……?」
「知らんのか!? アイツらは犯罪者検挙のスペシャリストだ! 一度狙いを定めたら、地の果てまで追いかけて捕まえて、必ず陛下の元へ引きずり出すんだ!」
いつもは大陸の東の方で仕事をしている獲物達は、そんな話は聞いた事がなかった。
「まさか赤毛の大男じゃないだろうな!?」
「……赤毛の大男と、神経質そうなメガネの男でしたが」
「よりにもよって団長と副団長じゃないか!? いかん! わ、私は帰るっ! お前達今すぐに降りろ!」
そう叫ぶと仮面の男は同乗者達をグイグイと押し出そうとする。
何だか分からないが、こんな狭い馬車内で男同士で押し合いするのも嫌なので、獲物二号は馬車のドアを開けた。
「こんばんは。いい月夜だな?」
ドアを開けるとすぐ目の前に、今話題にのぼっていた赤毛の大男──第一騎士団長アレックスと、メガネの神経質そうな男、副団長アリスティドが立っていて、獲物達は固まった。
(何故ここに……!)
「おやぁ? そこにいらっしゃるのはミリオン伯爵殿ではないですか! 奇遇ですね? 国王陛下とルイス殿下が、是非色々と話を聞きたいとお待ちですよ?」
メガネをクイと指で上げながら馬車の中を覗き見たアリスティドが、仮面の男に微笑むと、仮面の男──ミリオン伯爵は肥えた体をブルブルと震わせてへたり込んだ。
それを見たアレックスはニッカリと笑う。
「また逃げられると面倒だから大人しく座っててくれよ? 全員まとめて、このまま俺達と王宮まで月夜のドライブといこうか」
獲物二号は何とか隙をついて逃げられないものかと、さりげなく周囲に視線を走らせるが、いつの間にか十人程の男達に囲まれており、馬車の護衛と御者は捕縛されていた。
指示役の男がドアと反対側の窓から逃げようとカーテンを開けるが、弓を構える男達に囲まれているのを見て舌打ちをする。
(おかしい。こんな短時間で包囲されるはずがない……)
「なぜここが分かったんだ? つけられてはいなかったハズだ……!」
逃走は無理と判断した獲物二号は、ヤケクソ気味に疑問を投げかけた。
裏稼業で長年生きてきた者として、尾行に気付かないはずはなかった。それなのに、どうやって追い詰められたのか、捕まる前に知っておきたかった。
簡単な話だ。と、アレックスはニッカリ笑った。
「逃げる時にお前らが投げつけられたのは、追跡用の匂い玉だ。俺達はその匂いを追ってきただけだ」
「バカな! そんなに遠くから匂うハズがない……!」
獲物二号はアレックスがウソをついていると思った。
街を抜けてから長い間、目視できる範囲には誰も居なかったし、匂いだってよくよく気にしなければ分からない程度のもの。そんな与太話、到底信じられる訳がない。
獲物二号が胡乱な目付きでアレックスを睨みつけると、隣に立っていたアリスティドが、メガネを指先で上げながら話し始める。
「おっしゃる通り、常人なら無理なんですけどねぇ……。ご存知ですか? 我が国、東の辺境伯家の先祖は古の狩猟民族で、その名残りか、五感が異常に発達している、いわゆる『先祖返り』がたまに生まれるんですよ……」
月明かりに反射して光るメガネの奥の瞳が少しも笑っていない事に、獲物二号はゴクリと生唾を飲んだ。
東の辺境伯家とやらの事は知らないが、その昔、大陸中央の大草原を支配していたという古の狩猟民族の話は聞いた事があった。
彼らは空を飛ぶ鳥の羽根の数まで正確に数えられる優れた目を持ち、三里先の匂いまで嗅ぎ分ける。そして一度狙った獲物は、三日三晩走り通しても疲れないその強靭な体躯で、地の果てまで追いかけて必ず仕留めたという……。
「お前は念入りに体を洗ったようだから、匂いは少し薄くなってはいたが、後ろの相棒の方は匂いがプンプンしてるから、分かりやすかったぜ?」
そう言って、炯々と光る金の瞳を細めて、愉しそうに笑うアレックス。
体を洗った事まで言い当てられて、獲物二号は今聞いた話を信じざるを得なくなった。
「ちっ! 邪魔だ! どけ!」
突然、獲物二号は後ろから突き飛ばされた。
獲物一号がアレックスとアリスティドの注意を逸らして馬車から飛び降り、逃走を図ったのだ。
「やれやれ……。往生際が悪いですね」
アリスティドはそう呟くと、腰に備えていた何かを手に取った。
獲物一号は得意の逃げ足を活かし、森に駆け込もうとしていた。
目の前に騎士達が立ちはだかろうとしたが、何故かその場に留まったまま逃走者を見つめている。
(何だ? 何故追ってこない?)
獲物一号が訝しく思っていると、耳元で風切り音が聞こえて、次の瞬間、息が詰まり後ろに引き倒された。
苦しさのあまり首に手をやると、いつの間にか、輪っか状のロープが首にかかっていて、そのロープを遥か後方でアリスティドが引っ張っていた。
「くそ! あんな遠くからどうやって!」
ロープを外そうともがいている獲物一号に、すぐさま騎士達が群がって取り押さえ、逃走劇は呆気なく幕を閉じた。
「薔薇園では木が邪魔で縄を投げられませんでしたから、ここが開けた場所で助かりました」
アリスティドは眼鏡をクイと上げながら呟いた。
「……あんたも先祖返りなのか?」
突き飛ばされてそのまま大人しく拘束された獲物二号は、その様子を見て、アリスティドに聞いた。
恐ろしく長いロープを的確に操り、逃げる獲物に見事に引っ掛けるなんて、これも常人には到底出来ない事だと思ったからだ。
「いいえ、私は普通の人間です」
アリスティドは何故か、苦笑いと共に首を横に振った。
「子供の頃から、勉強が嫌で逃げようとする誰かさんを、ひたすら捕まえる役目をしていたら身についた、言わば努力の結晶というやつですかね」
そう言ってアリスティドは、片眉を上げてアレックスを軽く睨みつけた。
「……俺は昔から狩りは得意なんだが、逃げるのは下手なんだよな……」
アレックスは赤毛の頭を掻きながら気まずそうに呟いた。
この国に来たのは失敗だったと獲物二号は思った。
こんな化け物じみた猟犬がウロウロしている国で、後ろ暗い仕事なんて出来るわけがない。
もし娑婆に戻れる日が来たら、二度とこの国での仕事は受けないようにしようと、心に誓ったのだった。
そうして、第一騎士団との楽しい月夜のドライブを経て、ミリオン伯爵と誘拐事件の犯人達が捕縛された翌日──。
「ルイス殿下に申し上げます……! ミリオン伯爵のタウンハウスが全焼しました!」
突如飛び込んできた報告にルイスはその美しい眉を顰めた──。