舞踏会(3)
幸いにもナギを庇って汚れたのはドレスだけで、メイクや髪型の崩れなどは無かった。
駆けつけた侍女に手伝ってもらい、新しいドレスに着替えてアナベルは会場に戻った。
着替えの手配にかなり時間がかかった事もあり、舞踏会はもう終わりに近づいていた。
会場の入口からスズを探すと、来賓席に座りキャロルと話をしていた。
周囲にはランスロットの他にも護衛が立っていて、これ以上何か起きる事はないように思えた。
(良かった……)
ホッとしたものの、なんだかとても疲れてしまって足が前に進まなかった。
早くスズの傍に戻らないといけないのに体が動かない。
『いついかなる時も動じず淑女たれ』
女官になりたての頃に受けた、尊敬する女官長からの教え。
仕事をする上での指針にしてきたその言葉を何度も心の中で呟く。
(よし、頑張れる……)
アナベルは気合いを入れて、来賓席へと足を進めた。
「ベル……! 大丈夫だった!? 怪我とかしてなかった?」
心配そうに近寄ってきたキャロルが、怪我がないかあちこち点検を始めた。
「ご心配ありがとうございます。割れたグラスの破片などはドレスが弾いてくれたようで怪我は無かったです。……スズ様もお傍を離れてしまい申し訳ありませんでした。転びそうになっていらっしゃいましたが、お怪我はありませんでしたか?」
ナギの件があってドタバタになってしまったが、スズも危うく転びそうになっていたから心配していたのだ。
アナベルはジェパニ語が話せない事になっているので、キャロルが通訳をする。
『お兄様を庇ってくれて本当にありがとう。私も怪我は無かったわ。何かに躓いてしまったのだけど、ランスロットが助けてくれたから……』
そう言ってスズがランスロットを見て微笑むと、ランスロットは胸に手を当てて恭しく礼を返した。
(……平常心。勤務中。公私混同ダメ、ゼッタイ)
とにかくスズにも怪我が無くて良かったと、アナベルは心を落ち着かせた。
『ていうか、キャロル先輩がいつまでもルイス様と踊ってるからいけないんですよ! 先輩は婚約破棄達成の布石にする為に、《スズにダンスパートナーを譲る》っていう選択肢を選ばないといけなかったのに!』
周囲に聞こえないぐらいの小声で、頬を膨らませたスズがキャロルに文句を言い始めた。
『私とルイス様が踊っていたら、ジェパニ皇女との政略結婚の方が国益になるって話題になって、婚約破棄されやすくなるハズだったのに……!』
『だから、婚約破棄なんてする気はないって言ったでしょ……?』
周囲に不審に思われないように笑顔を貼り付けながら応じるキャロルだったが、スズの次の言葉で表情が固まってしまった。
『さっきのお兄様の事故だって、ホントはキャロル先輩が庇ってお兄様の好感度がアップするイベントだったのに……』
『え……? イベントだったの!? 分かってるなら起こる前に教えてよ!』
思わず強い口調になるキャロルに、スズはぷいとそっぽを向く。
『ヤですよ! 教えたら阻止されちゃうじゃないですか! それにシナリオだとハヤテがちゃんと庇って先輩も大丈夫になるハズだったんです……!』
(王子妃選考会当初はキャロル様も【キミ薔薇】のイベントとやらにこだわっていたわよね……。おそらくスズ様もそういう状態なんだわ……)
アナベルが感じたことをキャロルも思ったのか、声のトーンを落としてスズに言い聞かせるようにゆっくり喋った。
『スズ……ここは現実世界なの。何でもシナリオ通りになるわけじゃないのよ……? 今回は幸い怪我もなくて済んだけど、ベルのドレスは汚れてしまった。これからは危ないイベントが起こりそうな時は事前に教えてほしいの……』
スズはちらっとアナベルを見て気まずそうな顔をすると、渋々といった風に頷いた。
『紫の君、大丈夫だったかい?』
後ろから声がしてアナベルが振り返ると、ルイスと会場を回っていたらしいナギが戻ってきた所だった。
形の良い眉が垂れ下がっていて、本当に心配してくれているのが分かり、心が温かくなった。
『大丈夫です。ありがとう、ございます?』
たどたどしいジェパニ語で返すと、ナギはアナベルの手を取り、キスを贈った。
『さっきルイス殿下に教わったんだ。こちらの国の女性にはこうやって敬愛を表すんだって。先程は庇ってくれて本当にありがとう。心からの感謝を君に』
そう言って自身の胸に手を当てて、我が国風のお辞儀をする。
夜会服を見事に着こなし、遥か異国から来た人とは思えない程に優雅な所作。艶やかに微笑むナギの様子は周囲の女性達の甘い溜め息を誘った。
『貴女のように勇敢で心優しい女性に今まで会った事はない。どうかこの滞在中にもっと君と親しくなれる機会をくれないかな?』
切れ長の瞳を悩ましげに細めてこちらを見つめてくるナギ。婚約者がいる身でそんな事を言われても困る上に、ジェパニ語が分からない設定なので、今この場でどんな反応をすべきか分からず、アナベルは大いに焦った。
すると、キャロルがアナベルの横に立ち、ナギに発言の許可を求めた。
『畏れながら申し上げます。アナベル・ガードナー嬢には既に相思相愛の婚約者がおり、結婚式の日取りも決まっております。職務上必要な範囲以上の親交をお求めになれば、彼女の名誉を傷つける事になりかねませんので、何卒ご容赦ください』
キャロルはにこやかな顔でそう言って、百点満点と言ってもいいほど綺麗なカーテシーを披露した。
ジェパニ語が分からない周囲の人々は、おそらくキャロルがナギに挨拶をしたのだと思った事だろう。
『我が国では婚約した時にブレスレットを贈る習慣があるので、腕にブレスレットをしている者は、婚約者や特別な相手がいる事が多いのですよ。ブレスレットをしていないご令嬢へのお声掛けであれば誰もが頬を染めて喜ぶでしょう』
傍にいたルイスも蜂蜜スマイルで親しげに話しかける。
『おっと、そうでしたか……! 申し訳ない、綺麗な女性を見るとつい……。今後はまずブレスレットの有無を確認するようにしますよ』
ナギはそう言って、今度はキャロルの手を取りキスを贈る。
『挨拶と称して合法的に女性の手に触れられる貴国の素晴らしい慣習を、是非とも我が国に持ち帰りたいものです』
ナギ皇子は軽い調子でそう言うと、スオウとハヤテを引き連れて、近くの女性達に挨拶をしに行った。
その様子を見送って、アナベルは知らぬ間に入っていた肩の力を抜いた。
(ナギ殿下の態度から変な噂になったらどうしようかと思ったけれど、キャロル様の機転のお陰で助かった……)
「……キャロル様ありがとうございました」
「どういたしまして! 結婚前に変な噂にでもなったら大変だもの! ……それに嫉妬したランスロットが《ヤンデレ》になったらヤバいし……」
後半独り言のように呟くキャロル。
《ヤンデレ》とは何かと聞くと、この場では言いにくかったのか、後で教えるねとキャロルは言葉を濁した。
語尾のデレという言葉が《ツンデレ》や《クーデレ》と類似している事から、おそらく同系統の言葉だと推測出来るが、ヤンは何だろう……。新出単語が気になってあれこれ考えていると、キャロルがスズに小声で話しかける。
『それにしても、ナギ皇子ってあんなキャラなのね……! メインヒーローが遊び人属性か……。テンプレだと実は暗い過去があって、軟派に見せかけて本気で好きになったら超一途とかだけど、実際どうなの?』
『気になるなら是非攻略してみてくださいよ先輩!』
スズが期待に満ちた目でキャロルを見つめる。
『イヤよ! 絶対攻略なんてしないんだから!!』
『またそんな事言って! ヒロインなんだからちゃんと仕事してくださいよぉ〜!』
表面上にこやかに取り繕いながら、喧嘩を始める二人。
ジェパニ語が分からない事になっているので、アナベルは間に入る事も出来ない。周囲の目があるのでヒートアップしない事を祈りながら、アナベルはちらとランスロットを見た。
スズの後ろに立って周囲を警戒していた彼と目が合うが、すぐに逸らされてしまう。勤務中だから当たり前なのだが、淋しいと感じてしまう自分を叱る。
予期せぬトラブルがあって、いつも以上に疲れているからこんな風に甘えたくなってしまうに違いないとアナベルは思った。
(今日は早く寝よう!)
そう心に決めて、言い合いが白熱して段々声が大きくなってきた二人を、それとなく止めに入ろうとした時――。
「……これ見よがしにジェパニ語を使って皇子様達と仲良くしたって、身分が釣り合ってないのよ」
「本当よね……。いっそ皇女様がお妃になった方が、外交的にも利益があっていいんじゃないかしら……?」
近くから聞こえてくる令嬢達の忍び笑いに、アナベルはまたかと、足を止めた。
男爵令嬢であるキャロルが王子妃に決まった事が納得できず、どんなにルイスとキャロルが仲睦まじそうにしていても、こうして隙をついてキャロルを傷つけようと心無い言葉を聞かせてくる令嬢が現れるのだ。
アナベルがキャロルを庇うように立ち、令嬢達をじっと見据えると、令嬢達はそそくさと散っていく。
この件に関してはルイスにも報告をあげているが、事を荒立てないで欲しいというキャロルの希望を叶える形で、ルイスも報復を我慢している。しかし、誰が何を言ったかはきちんと把握している為、いずれ恐ろしい仕返しがあるだろうと、アナベルは令嬢達に怒りを覚えると同時に憐れんでもいた。
逃げるように去って行った令嬢達のことを不思議に思ったらしいスズが、こてんと首を傾げた。
『先輩、今の人達なんて言ったんですか?』
『私が男爵令嬢だからルイス様と身分が釣り合ってないって、ご丁寧に何度も教えてくれてるのよ』
キャロルがうんざりしたように言うと、スズは我が意を得たりとばかりに笑った。
『ほら~! だからやっぱりお兄様とのハピエン目指してサクッと婚約破棄しちゃいましょうよ~! ルイス様は私が幸せにしますからっ!』
『だから、攻略はしないって言ってるでしょ!?』
またしても始まった言い合いに、今度こそアナベルは止めに入ったのだった。