舞踏会(2)
様々な危険を孕みながらの舞踏会が、王宮の大広間にて始まった。
ジェパニへの理解を深める為にという名目で、挨拶の形式をジェパニの慣習に則った頭を下げ合うものに統一する旨の説明があった。
怪我を負った手で貴族達と握手するのを避けるための措置である。
これで皇子の怪我が露見する確率はグンと低くなったと、アナベルは胸をなで下ろした。
やがてファーストダンスが始まる。
スズのパートナーは、王太子妃が妊娠中でダンスを見合わせている事もあり、ルイスの兄君である王太子が務めた。
スズはダンスデビューという事もあり、緊張していたようだが、王太子の安定したリードで次第に笑顔が零れるようになった。
そんな様子を親善大使一行の後ろで待機しつつ見守っていると、ナギが振り返ってアナベルに話しかけてきた。
『やはりスズと一緒にダンスを習えば良かったなぁ……。そうすれば君と踊れたのにね?』
『……。ごめんなさい? ヨクキコエマセンデシタ』
(今の私はジェパニ語が出来ない十歳のターニャなのよ)
という訳で反応に困る問いかけは聞こえなかった事にした。
ナギはお手上げとばかりに苦笑して、幼子にも分かるようにゆっくりと『何でもないよ』と言うと、またホールへ視線を向けた。
ホールではルイスとキャロルも仲睦まじいダンスを披露している。
自然と半年前の王子妃選考会の舞踏会が思い出されて、ついナギのそばで警護に立つランスロットを見てしまう。
あの日ランスロットがプロポーズしてくれた事は、今でも夢だったのではないかと思う時がある。
その度にブレスレットの存在を確かめてこっそり幸せに浸る。
スズ達が来てから、お互い忙しくて全然会えていない事が淋しいけれど、それをランスロットに言っていいものか迷っていた。
(忙しいのに会いたいだなんて言って、重たい女だと思われたくないもの……)
そんな事を考えているうちにファーストダンスが終わり、会場からおこる割れんばかりの拍手に、アナベルは我に返った。
二曲目からは招待客もホールに出て本格的な舞踏会が始まる。
今度は国王と踊り始めるスズ。
ルイスとキャロルはそのまま二曲目へ突入。仲睦まじい様子を、これでもかとアピールして、婚約に横槍を入れさせない為の作戦でもあった。
踊らない人々は、各々が酒で喉を潤したり、知人を見つけては挨拶を始めたり、会場は一気に人の動きが激しくなった。
それは直ぐにジェパニ側の席にも押し寄せる。
「皇子殿下にご挨拶をさせて頂いてもよろしいですかな?」
今回の主賓であるナギと言葉を交わすために、多くの貴族が集まってきた。
冒頭で説明があったように、握手ではなくお辞儀をして挨拶を述べる貴族達に、スオウの通訳を通して答えるナギ。
そうして順調に挨拶をこなして、とある伯爵の番になった。
「お初にお目にかかります! ジェパニの高貴なる第三皇子殿下にこうしてご挨拶出来る事を光栄に思います! 以後お見知り置きください!」
オーバーリアクションで挨拶を始めたとある伯爵──ミリオン卿は、開宴の説明を聞いていなかったのか、ナギに対して握手を求めた。
「初めましテ。私もお会い出来て嬉シイですよ」
割って入るべきか躊躇っていると、ナギは微笑みを浮かべ、片言の大陸公用語で挨拶し、手を差し出した。
伯爵は興奮気味に話しかけながら、両手を使ってこれでもかとナギの手を握っている。
強く握りこまれてやはり痛かったようで、一瞬ナギが顔を顰めた。
「おや!? 皇子殿下どうかなさいましたか!? そんなに強く握ったつもりはないのですが、もしやお怪我をされているのでは……!?」
開宴からそう時間が経っていないにもかかわらず、大分酒が回っているのか、この騒がしい会場の中でも良く聞こえるような大きな声でナギを心配する伯爵に、周囲の視線が集まる。
『いえ、貴方の熱烈な歓迎に驚いてしまっただけですよ』
ナギはそう言うと伯爵の手を握り直し、その麗しい顔を近づけて悩ましげに微笑む。
『聞いていた通り、大陸の方々は本当に情熱的ですね? スキンシップに慣れていない私達は、男性同士のこんな僅かな触れ合いだけでも胸が高鳴ってしまいます……』
その艶やかな笑顔にミリオン卿は固まり、周囲からは感嘆の溜め息が漏れる。
スオウが通訳し、「伯爵の熱烈なアプローチに、皇子はとても照れておられます」と、機転を利かせて付け加えると、周囲からドッと笑いが起きる。
そうしてその場のやりとりは有耶無耶になり、ナギは何事もない様子で次の貴族とにこやかに挨拶を始めた。
(良かった……。うまく切り抜けられた……)
後方から見守りながらホッと胸を撫で下ろす。
「確かにミリオン伯爵の歓迎はやけに熱烈でしたなぁ」
「彼の領地の特産品の一部は、ジェパニからの交易品と被っているそうだから、つい意識して力が入ってしまったのだろう」
そんな囁きも和やかな雰囲気に紛れて聞こえてくる。
どうやらミリオン伯爵はジェパニとの国交で不利益を被るかもしれない立場のようだ。
あの握手は偶然だったのだろうか?
(もしかして、皇子の怪我を知っていてワザと……?)
ふとそんな疑念が湧く。
しかし、皇子が怪我を負ったのは昨日で、それを知る人間もごく僅か。それをミリオンが知り得るわけがない。きっと気の所為だろう。
けれど、この会場にナギ達を陥れようとする敵がいるかもしれない。
そう思うと全てが疑わしく見えてしまい胃のあたりが痛む。
(あぁ……早く日常生活に戻りたい……)
思わず遠い目をしてしまったアナベルが、慌ててスズを目で追うと、少し離れた所でちょうど王兄メイナード公をパートナーとして三曲目が終わった所のようだった。
王族の男性陣と順番に踊り、次こそはルイスと踊りたいという期待を込めた視線をルイスに投げているが、ルイスは変わらずキャロルの手を取り四曲目の準備をしている。
それを見たスズは悲しそうにその場を離れて独りこちらの方に帰ってくる。
慌てて迎えに行こうとして、隣を風のようにすり抜けていく人影に驚く。
(ランス様……!?)
ランスロットの行く先を目で追うと、早足で歩くスズが何かに躓き体勢を崩すのが見えた。
長い髪がふわりと揺れ、ドレスの裾が僅かに翻る。
危ない! と思わず叫びそうになった所で、間一髪ランスロットが抱きとめて事なきを得た。
ランスロットを見上げ、頬を染めながらお礼を言うスズと、スズに優しく微笑むランスロット。
思わずアナベルは目を逸らした。
(ランス様はスズ様の護衛なのだから、転びそうになったら支えて差し上げて当然じゃない……)
ブレスレットを握りしめながら、こんな些細な事で嫉妬する自分に驚く。
(ランス様が女性とあれほど近くにいる光景を見るのは初めてだから、少し動揺してしまっただけ……。何が起こるか分からない非常事態である今こそ平常心でいなければ……)
とは思うものの、ランスロットとスズを直視出来ない。
そして視線をさ迷わせた先の異変に気づき、今度はアナベルが飛び出す事になった。
ナギの元へ集う人々の間を縫って、沢山のドリンクを運んできた給仕の男性が、何かに押されるように、背を向けているナギの方へ傾いたのだ。
ナギの側で立ち止まっていた事が幸いして、間一髪、アナベルはナギと給仕との間に体を滑り込ませて、飛んできたグラスやドリンクを身に浴びた。
慌てて後ろを振り返りナギを確認すると、ハヤテが更にナギと入れ替わるように前に立って庇ったようで、ナギに怪我や衣装の汚れは見当たらなかった。
(良かった!)
ナギに酒がかかったり、グラスの破片で怪我などしてしまえば、舞踏会で問題が起きたと鎖国派に騒ぎ立てられてしまう可能性が高かった。
更には、怪我した手を隠すための皇子の衣装は現在これ一着。
汚れてジェパニの衣装に着替える事になれば、怪我も隠せなくなる為、何が何でも守り通さなければいけないのだ。
『紫の君! 怪我はないかい!? びしょ濡れじゃないか!』
痛ましそうな顔で心配するナギの前に、アナベルはグラスを落とした給仕と共に膝をつき謝罪した。
「お騒がせを致しました事をお詫び申し上げます。皇子殿下がご無事で何よりでございます。給仕の無作法につきましては、何卒、寛容な御心でもってお許し頂けますと幸いでございます」
ナギはアナベルにハンカチを差し出し、鷹揚に頷いた。
『大丈夫、勇敢な女性に庇われてむしろ役得だったよ。私自身に何事も無かったのだから罪に問う必要もない』
いつの間にか出来た人だかりに向けて、スオウが通訳をしようとした時、人々をかき分けて声が上がった。
先程ナギに握手を求めたミリオン伯爵だった。
「これは大問題ですぞ!? 一歩間違えれば皇子殿下がお怪我を負う危険がありました! 厳罰に処すべきです!」
唾を飛ばしながら主張するミリオン伯爵に周囲がざわめく。
――あんたさっきから何なの!? 引っ込んでなさいよぉぉ!
脳内で怒り狂うキャロルにアナベルは深く頷く。
(ここまでくると、ミリオン伯爵には何か思惑があるとしか思えない……)
この場をどう収めたらいいか必死で考えるアナベルの耳に、お腹の黒い天の助けの声が聞こえた。
「皆、静粛に」
騒ぎを聞きつけてダンスホールから駆けつけたルイスが、ナギの側に立った。
ナギが眉をひそめてルイスに耳打ちをする。そして頷き合うと、ルイスが話し始めた。
「第三皇子殿下は、御身が無事なのだから罪に問う必要はないと仰っている。勇敢な女性に庇われむしろ役得だったとも」
ルイスはミリオン伯爵をひたと見据える。
(その笑顔が怖い。背後に黒薔薇が見える……)
アナベルは思わず身震いした。
「そして、このような些事で両国の友好が揺るぐ事は有り得ないと仰られている。僕も同意見だ」
そう言うと、ナギとルイスは笑顔で握手を交す。
どこからともなく拍手が起き、気まずくなったミリオン伯爵は群衆をかき分けて姿を消した。
(良かった。何とか丸く収まった……)
胸を撫でおろすアナベルに、ナギが手を差し伸べた。
『君のお陰で事なきを得た。ありがとう。さぁ、風邪を引いてはいけないから着替えておいで』
『ありがとうございます』
ナギの手を取ろうとして、今更ながらに手が震えているのを知った。
それを見たナギは、優しく労わるようにアナベルの手を取り、支えるようにして立ち上がらせた。
アナベルのドレスは、淡い色だった事もあり、お腹から裾まで見事に各種ドリンクの色で染まっていた。
「ベル! 大丈夫!?」
キャロルがそばに来て自分のハンカチでアナベルのドレスを拭いた。
「ベル、王妃様が休憩室に着替えと手伝いの侍女を呼んでくれるそうだから、すぐに行ってちょうだい。皇女様の事は任せて!」
(そうだ、スズ様……。スズ様はご無事かしら)
少し離れた所にいるスズの方を見ると、ランスロットに支えられながら、驚いた様子でこちらを見ていた。
ランスロットは周囲を警戒しているのか、辺りに視線をさ迷わせている。これだけ立て続けにトラブルが起こったのだから警戒を強めて当然だ。
女官としてのアナベルは冷静にその事実を捉える。でも、ランスロットの婚約者としてのアナベルは違った。
(そばにいて欲しい。大丈夫だったかと心配して欲しい……)
そんな事を思う自分に驚く。
(私はいつの間にかこんなに欲深くなって、ランス様に色んな事を期待するようになってしまっている……)
このままここにいたら、なんだか泣いてしまいそうな気がして、アナベルは慌てて濡れたドレスを引き摺って休憩室を目指した。