後編
翌日の夜。
雲ひとつないほど晴れ渡った、月のきれいな空の下。
私は、彼女のアパートへと赴いた。近づくと、窓から漏れる部屋の灯りで、彼女の在室が確認できる。
チャイムやインターホンのようなものは見当たらなかったので、トントン、と扉をノック。すると中から「はーい!」という声と、バタバタとした足音が聞こえてきて……。
「あら、こんばんは。昨晩は、どうも」
ドアを開けて顔を覗かせた彼女は、おそらく、もう部屋でくつろいでいたのだろう。完全に化粧を落としており、前日のOLらしさは、すっかり消えていた。
まるで、田舎から出てきたばかりの、純朴な女子大生に見える。それは地味な可愛らしさであり、むしろ私には、好ましく思えた。特に、彼女の手料理を食べた後だけに、いかにもあの味付けに相応しい、と感じたのだ。
「いえいえ、こちらこそ、ありがとうございます。とても美味しかったですよ」
と言いながら、私は空のタッパーを差し出す。
私の訪問目的は、容器の返却だった。同時に、何かお礼をしなければ、という気持ちもあったのだが……。
それを私が口にするよりも早く。
「まあ! 喜んでいただけたのでしたら、私も嬉しいですわ! 自分の作ったものを『美味しい』って言って食べてくれる人がいるのって、本当に幸せですもの!」
満面の笑みで空容器を受け取った彼女は、
「すいません、ちょっと待っててくださいね!」
と言い残して、また部屋の中へ。
少し既視感があるな、と私が思う間に、彼女は戻ってきた。
「これ! どうぞ召し上がってください!」
彼女が嬉しそうに渡してきたのは、ピンク色の蓋をしたタッパー。パッと見た感じでは、やはり野菜料理らしい。
「……」
断ろうか受け取ろうか、一瞬だけ迷ってしまったが。
これは彼女の「食べてもらって嬉しい」という気持ちなのだから、素直にいただいた方が、彼女を喜ばせることにもなるはずだ。
そう思って、また、ご馳走になるのだった。
家に帰って開けてみると、今度のメニューは中華風の野菜炒め。もやしとキャベツがメインで、人参とピーマン、豚肉も入っている。
シャキシャキとした歯ごたえが素晴らしく、やはり御飯に合う一品だった。この日は、弁当ではなく、自分で米を炊いておいたのだが……。
もしかすると、そう用意した時点で、私の中にも「また彼女の料理をいただけるかもしれない」という期待があったのだろうか。
――――――――――――
二度あることは三度ある、という言葉があるように。
容器を返しにいって、代わりに新しく一品もらってくる、というのは、毎晩の恒例行事になってしまった。
彼女は楽しいのだとしても、私の方では「これでは世話になりっぱなしだ」という気持ちも生まれてしまう。
だから、金曜日の夜。
「いつもいつも、ありがとうございます。つかぬ事をお尋ねしますが、週末って忙しいですか?」
「……え?」
「もし時間があれば、毎日ご馳走になっているお礼として、食事を奢らせてもらいたいのですが……。いや、お礼の食事といっても、高級レストランではなくて、どこか庶民的なお店で……」
思い切って、彼女を誘ってみた。
もう学生ではないし、これくらいの提案は簡単。そう思っていたのだが、いざ口にしてみると、心臓がバクバクだった。改めて考えてみると、大学卒業後、女性を誘うのはこれが初めてなのだから、緊張するのも当然の話だろう。
「あら、まあ、そんな……。どうしましょう。別に私、見返りを求めていたわけじゃないのに……」
唇に手を当てた彼女の、遠慮がちなセリフ。しかし、その幸せそうな笑顔を見れば、もはや返事はわかりきっていた。
「……でも、嬉しいですわ! あなたからデートに誘われるなんて! はい、喜んでお受けします!」
彼女が『デート』と言い表したように。
これが、私たちの初デートとなった。
――――――――――――
少し蛇足になるかもしれないが。
その後、彼女と初めて結ばれた夜のこと。事後の気だるい幸せに包まれながら、ベッドの上で抱き合っていると……。
「実は、私……」
彼女が、ちょっとした告白を口にし始めた。
そもそも彼女は、以前から私のことを、通勤電車の中で何度も見かけていたのだという。
そして、言葉を交わす機会もない私に対して、なんとなく好意を抱いていたそうだ。いわゆる一目惚れというやつだろうか。
「それでね。知り合いになるきっかけを作りたくて……」
あの日、コンビニに入っていく私を目にした彼女は、後を追うように入店した。傘立てのビニール傘の位置を、少し動かした上で。
私が「これは自分の傘ではないのかもしれない」と悩み、彼女と相合傘をすることになった、あの出来事。あれは全て、彼女が仕組んだ計略だったのだ!
あのビニール傘は本当に私の傘であり、彼女の傘は、あそこにあったコウモリ傘の一つ。それは、次の日に回収したという。
「ごめんね。こんな策を弄するような女……。嫌いになった?」
「そんなわけないだろ。それだけ強く想ってくれていた、ってことじゃないか。むしろ嬉しいよ。可愛いなあ」
そう言って、彼女の頭を撫でる私。
やわらかな黒髪の感触を楽しみながら、ふと考えてしまうのだった。
ああ、私の心は、もうすっかり彼女の虜になっているのだな、と。
(「傘も心も盗まれて」完)