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花散りて尚輝くネオン

作者: みちのく丹

 「青い春」なんて書くのに、青春は春に終わるらしい。夏に始まって、春に終わる。少なくともこの恋愛はそうだった。


 人生で初めてできた彼女。一年も付き合っていなかったけれど、正直付き合ってから別れるまでずっと浮かれていた。すべての出来事が初めてで新鮮だったのだ。イベントも、恋人らしいことも。


「妥協だったのにへこんでんの?」


 近所の居酒屋のカウンターで、一ヶ月ぶりに親友と飲んでいた。大学以来の、元恋人との共通の友人だった。相手から昨日にでも報告を受けたのだろう。すぐに週末の予定を聞かれ、今日お酒を飲むことになったのだった。


「妥協じゃない」


「そうか?」


「結婚してもいいかな、って思ってたし」


「したい、じゃないんだ」


 棘のある言い方に少し顔を顰めれば、親友は目を反らし、肩を竦めた。


 そう、妥協ではないのだ。告白もこちらからした。


 大学四年生の夏、就職活動も無事に終わり、卒業論文を書くまでの余暇を楽しんでいたところに、同様に就職活動が終わって暇になっていた元恋人と花火大会に行ったのだった。


「……お前は妥協してないのかよ」


 もう何を言っても無駄だろう。そう判断して、もう妥協ということにした。


「まあ。現に恋人いないし」


「でも好きな奴とかいたっけか」


「お前の知らない奴」


「マジ? 高校とか?」


「まあそんな感じ」


 ジョッキを煽りながらこちらを見ずに彼が頷く。既に三杯目の生ビールも、もう傾ければ底が見える程に減っていた。


「……青春だなあ」


「そんなキラキラしたもんじゃないけど」


 大学から知り合った親友の高校時代を、俺は知らない。定期的にSNSで彼と友人が写っている写真を見ることはあるけれど、共通の知り合いの話題くらいしか、他人の話をしない人間だった。


 目の前のハイボールの中で、気泡が上がる。まだ一杯目のはずなのに全く減っていない。いつものことだけれど、ハイボールは炭酸が少し強い気がする。


 では頼まなければいいのではないか、と言われもするけれど、ビールは苦くて飲めないが一杯目から甘い酒を飲む気にもならない、となれば、ハイボールくらいしか頼むものがない、という気持ちでいつも頼んでしまうのだ。


 恐らく苦い顔をしながらハイボールを少しずつ飲んでいると、横では苦みを飲み干した親友が追加でビールを注文していた。


「……よくそんなにビール飲めるな」


「まあ、そろそろ夏だから」


「まだ四月下旬だぞ」


「桜が散ったら大体夏みたいなもの」


「いや、それはない」


 彼はいつでもビールを飲んでいる。夏はもちろん、春も秋も、冬ですら。


 ハイボールもビールも、居酒屋の色に同化する。木のテーブルにオレンジがかったライトの色、揚げ物だらけのつまみ。暖色だらけの空間で、目が開かなくなって俺は寝てしまったりする。


 大学生活、そんな飲み会ばかりを彼と繰り返していた。


「……時間、戻んないかな」


「……いつに戻すんだよ」


「それは、」


 改めて聞かれて答えに詰まった。戻すとしたら、いつに戻すだろう。


 それなりに楽しい大学生活を送ったと思う。彼女は四年生になるまでいなかったけれど、それだけが全てではないと思っていたし、なんなら部活を楽しんでいた。


「……お前が俺の立場だったら、どこに戻す?」


 一年生の初めから知り合いのこいつなら、自分にとって最適なタイミングが客観的に分かるかもしれない。そんな軽い気持ちで聞いた質問だったが、一瞬、彼の顔が曇ったように見えた。


「知らん」


「えー」


「強いて言うなら、一年生の冬とか」


「それ、お前が当時の彼女と別れた辺りじゃん」


 その頃のことで思い出せるのが、その出来事しかない程に彼がその彼女と別れたのは衝撃的だった。確か、高校三年生から付き合っていた彼女と別れたのだった。


 毎週のように週末にデートをしていたのを覚えている。写真を何度か見たことがあったが、本当に仲睦まじそうで、他の用事まで断って会っていたのにそんなことがあるのかと驚いた。


「やり直したい、ってこと?」


「え? ああ、いや、そうじゃないよ。そもそも俺の話じゃないじゃん」


「俺?」


「そう」


 その冬のことは、本当にその出来事しか思い出せない。


「なんかあったかな」


「何もなくて、幸せだっただろ」


 気付けば、彼の四杯目もそろそろなくなりかけている。彼はハイペースで飲んでも潰れたことがないが、今日だけは少し顔が赤くなっている気がする。


 彼の言葉は、裏を返せばその時期以外は何かしらがずっとあったということだ。


「……もし好きな子が、煙草吸ってたらどう思う?」


「え、」


 彼はいつの間にか店員を呼んで注文を済ませていたようで、自分たちの左後ろを親指で軽く指した。


 彼の指した方を見れば、大学生くらいの女子が二人でお酒を飲んでいて、どちらも煙草を口に咥えていた。


「んー、少し嫌かも」


「なんで」


「健康でいてほしいし、俺があんまり煙得意じゃないから」


「お前はまあそういうやつだよな」


 そう言って突如彼は笑い始めた。まともに酔ったところも見たことはなかったが、笑い上戸だったのだろうか。そこまで笑わなくてもいいのに、と思うほど楽しそうに笑っている。


「まあ煙草は例えだけど、その精神大事にした方がいいよ、本当」


「どれだよ」


「健康でいてほしいし、ってやつ」


「いや、当たり前だろ」


「基本、最初には出てこないよ」


 まあ酒も健康には害だけど、と彼は付け足した。そう言われて改めて目の前のグラスを見るが、泡を立てるだけで他には何もない。


 そういえばそうだ、なんてそのグラスを持って口をつけた。頭で分かっていても、皆が当たり前に飲んでいるこの酒というものも、実は人体に有害なのだ。


 そこでふと、先程の彼の言葉が甦る。


『したい、じゃないんだ』


 何か大事なものを見落としている気がし始めた。結婚ができると思うことが、好きの現れだと思っていたこと。そのことを疑い始めて、同じように当然に思っていたことが、疑ってすら来なかったことが、本当はそうではないのではないか、などと。


 妥協のつもりはなかったのだ。本当に好きで、好きだから付き合ったはずだ。横にいる親友のように、一途に誰かを想い続けて誰とも付き合わないなんて、むしろそちらの方が異常だろう。


「どうした」


「え、あ、いや」


 両想いなんて、そうそう起こることではないなんて分かっている。分かっているからこそ、その都度誰かを好きになって、諦めて、そうやって繰り返していく。それを「妥協」だなんて、言えるのか。


 いや、しかし。


「おい」


「ん」


「余計な事考えなくていい」


「……お前のせいだろ」


「それはそうだけど、そのままでいいよお前は」


 言いながら、左腕につけた時計が指さされた。時計の針は既に十一時半を指していて、この店の閉店時間だと少し考えて気付いた。


 結局、一杯も飲み切れないままその店を出た。彼の方も五杯目までは飲み切れなかったようで、半分ほど残ったジョッキとグラスがカウンターの上に残っていた。


「久々にこんな飲んだなあ」


「いつもよりは飲んでないだろ」


「時間的に、だよ」


 店を出て少し歩きながら彼は伸びをした。心底気持ちよさそうに夜風にあたる彼の体温は本当に高くなっているのだろう。自分はといえば、今夜の風にあたるには身体が温まりきっていなかった。酔いも足りなければ、大丈夫だろうと思って着てきた春服も薄い。


 少し前を歩く彼は少し暑そうに襟元を掴んでぱたぱたと仰いでいた。


「いつから」


「んー?」


「いつから、好きだったの」


 眠そうに少しだけこちらを見て微笑みながらまた彼は前を向いた。歩く速度は一定で、足の長さは違うのに、今日は酔っているからか速度が遅い。


「……一年、かな」


「え、じゃあやっぱり引きずってんじゃないの」


「いや、それはない。それだったらとっくにより戻してる」


「なんだその発言」


「結局、別の人が好きだって分かってたのに付き合ったから別れたんだよ」


 淡々と話す彼の四年間を想うと、微かに胸が震えた。


「ごめん」


「なにが」


「こんなことで悩んでて」


 一回の失恋ごときで落ち込んでいる俺を、こいつはどう見ているのだろう。彼のことだから、嘲笑などしないはずだと思いながら、それでもどこか遠い気持ちで見ていたのだと思うと、先程の店でのやり取りはとても滑稽なような、浅薄なもののような気がしてならなかった。


「……言っとくけど、お前だってそうなんじゃないの」


「どういうこと?」


「いただろ、好きな奴」


 少し考えて立ち止まった。そういった話で彼が知っている人なんて、一人しかいなかった。


「研究室の?」


「そうそう」


「まともに遊んだりした思い出もないのに、そんな引きずってないよ」


「そうか? なら俺の勘違い」


 たった三年間一緒の研究室にいただけの関係だった。恋愛感情というよりも憧れに近いその感情が膨らみ続けるには関わり合いが少なすぎた。


 遠くでネオンが光るのが見える。先ほどまでいた居酒屋は、繁華街の外れにあった。集団ででもない限り、彼は繁華街で飲みたがらない。自分も外がうるさくて歩くのすら億劫になる空間が苦手だった。その中心部のネオンが、今日はやけに鮮明に映る。


「……好きだったと、思う?」


 最早自分の感情すら分からない。疑い始めたら止まらなくて、消したつもりの感情が段々とまた生まれているような気がして不安になった。


「さぁ」


 少し間をおいてから、答えが返ってきた。不安が、その声すら冷たく響かせているようだった。あれが恋だったのか、もしそうなら、今回消えたものはなんだったのか。「お前が決めろ」と言われているようだ。


「冷たいな」


「この歳になってまで、『恋ってなんだろう』みたいな話をしたくない」


「まあ、それはそうか」


「……少なくとも、そう見えたよ。俺がそう見えてたってだけで、実際のところは分からないけど」


「そっか」


「あー、もう! 忘れろ!」


 痺れを切らしたように彼は振り返って俺の頭を軽く叩いた。


「明日は休み! 今日はもうこのまま別の店行くぞ」


「え」


「なんだよ」


「……いや、なんでもない。行こう」


 再び前に向って歩き出した彼の背を追って歩き始めた。肌寒い上に吹いてくる向かい風が煩わしかったけれど、足取りは少し軽くなっていた。


 次の店ではビールを飲んでみようか、なんて出来もしないことを考えながら歩いていたら、段々と鮮やかな光は大きくなっていた。


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