39.エフとアズミは既婚者・前編
買い物を終えたルリ達がエフの家へ着いた頃。
ようやく次の目処が立ち始めて全員が安堵する中、アカネだけ一目で分かるほど不服そうな顔をしていた。
普段は穏やかで呑気な心境を保つ少女が、ここまで不機嫌な気持ちを露わにするのは珍しい。
ただ、その不満の原因は彼女の胸についてだ。
少し前まで偽りの巨乳を得て満足気だったのに、今は出かける前と同じ控えめの胸に戻っている。
そして栄光の装飾を失った当人は物足りない目つきを浮かべ、自分の足元へ視線を落としながら愚痴をこぼした。
「うぅー、良い買い物をしたと思ったのに取り上げられちったよー。おかげさまで見通しが良いなー」
「残念でしたね、アカネママ。ミャーペリコも装着して、母乳を出してみたかったです」
ミャーペリコは遊戯感覚で応えるものの、アカネの母乳噴出によって出た被害は笑い話にならないものだった。
なぜなら空へ散った母乳はスーパーマーケットにまで降り注ぎ、一部の商品が取り扱い困難な品質になってしまったからだ。
それで問い詰めてきた店長に対し、アズミが威勢よく「むしろ付加価値が付きましたよ!」と下手なフォローをしていたが、結局は店舗側の裁量に委ねられる。
それからの結果は現状に至る通りで、今回は他者の介入が無かったから彼女達が反省する他なかった。
またルリからすれば赤ちゃんプレイに付き合わされずに済むため、これで良かったと内心思っている。
「ほらほら、気持ちを切り替えて。これから赤ちゃんの世話の仕方を教えるから。エフちゃんもお腹がペコペコでちゅよね~?」
彼女はエフをあやしながら問いかける。
当然、これは意思疎通しようとして話しかけたわけでは無い。
そのはずなのだが、赤ん坊であるエフは彼女の顔を見据えながら答えてきた。
「そうね。朝から何も食べて無いもの」
「ちょっ、ぶっ……!!?」
いきなり淀みなく返事された事に驚き、ルリは思わず噴き出してエフの顔に唾をかけてしまう。
さすがにエフは少し舌足らずな発音で喋っていたが、それでも通常時と変わらない反応を返せるなんて予想外だ。
だからアズミ達も同じく驚き戸惑う中、ルリが真っ先に焦り声をあげた。
「エフちゃん喋れたの!?いつから!?ってか、性格がいつもと変わらないし!」
「ばぶぅ~、ばぶばぶ~。何のことばぶかしら~?」
「いや、そんなベタな喋り方をする赤ちゃんなんて見た事ないから。急に喋っておいて誤魔化さないで」
「……まぁ何でもいいじゃない。赤ちゃんプレイ、けっこう楽しめたわ。まだ続行しても構わないのだけれど、ちょっと休憩したくなったのよね」
「つまり最初から体は赤ん坊、頭脳は変態ってこと?酷くない?」
ルリがどれに対して酷いと言ったのか曖昧なところだ。
赤ん坊なのに変態度が健在なことか、はたまた皆を騙していたことなのか。
何にしても、そのどちらにも正しく意味が通るだろう。
実際エフは赤ん坊の姿である事にも関わらず、性癖全開放で言い返してしまう。
「リアリティある本気の赤ちゃんプレイの方が楽しいでしょ?でも、このままだと看過できない問題があるのも事実なのよね。とにかくリビングへ連れて行ってちょうだい」
「自分で歩けないってことは、身体能力は赤ん坊のままなんだ」
「当然じゃない。だってみんなが知っている通り、私は至って普通の女の子でしょう。この体で自力歩行なんて到底無理よ」
「これで普通の女の子なら、もうこの世界には普通の人しか居ないでしょ」
ルリは的確にツッコミを入れながら、ひとまず彼女の指示を聞き入れて全員リビングへ移動する。
そしてテーブルを囲って腰を据えた後、エフは引き続きルリに抱えながら事情説明するのだった。
「先に言っておくけど、私が赤ん坊になったのは錬金術で作った試薬の効果ばぶよ。そして赤ちゃんプレイが楽しめるよう、意識や思考力はそのままであるよう作ったばぶの」
「もう一々ばぶばぶ言わなくていいから。それより、どうやったら元に戻るの。時間経過?それとも別の薬で中和とか必要なの?」
「今のところ、事前のデータ同じ通りに効果が表れているから時間経過で戻るはずよ。ただ、人体実験はこれが初めてなのよね。だから経過レポートを作成したいわ」
「その姿だと手足を動かす事すら難しいでしょ」
「えぇ、そうよ。つまり今こそ世話役の出番になるわけね」
「へっ?あぁ、私が記せってこと?いやぁ、うん……農業の研究して貰っているからレポート作製くらい協力するけどさ」
遠回しながらもエフに協力を求められ、ルリはそれほど渋らずに引き受ける。
唯一気掛かりなのは、この様子だとエフの性癖レポートになりそうなこと。
そのため最初は気乗りしなかったが、いざ始めてしまえば心から楽しんで盛り上がるのが彼女達の性分だ。
しかもエフ自ら数々の挑戦を始めていき、遊びや食事など日常生活の所作、知育と運動テスト、更に記憶力テストなど多くの実験を重ねる。
もちろん、免疫や生理的現象のチェックも欠かさない。
それから彼女を寝かしつける際には絵本読み大会が始まり、エフが赤ん坊らしい寝顔を見せたときは一同が興奮していた。
そうして全員がエフの家で一泊して、賑やかに一晩を明かした翌朝のこと。
まだ多くの人々が寝静まっている時間帯なのに、熟睡しているアズミを誰かが揺すり起こそうとしていた。
「あーちゃん、起きなさい」
彼女を起こそうとする声は、アズミが幼い頃によく聞いたものだった。
力強くて活力に満ちた声調。
とても懐かしくありながらも、しっくりくる感覚だ。
それに寝起きということも相まって、起こされたアズミは昔の頃へ戻った錯覚に陥っていた。
「ふぇ?あぁ……マル坊、もう見回りと配達の時間ですかぁ?」
アズミは寝ぼけ眼のまま体を起こす。
そんな彼女に対し、声をかけた人物は呆れた言葉を口にするのだった。
「いつもより早起きとは言え、なに寝ぼけているのよ。昔の夢でも見ているつもり?」
「あれ?んー……エフちゃん、ですよね?」
アズミは少しずつ現実感を取り戻すものの、目の前の状況が理解できなくて何度も目の周りを擦る。
このとき、エフの姿は既に赤ん坊では無かった。
だが、本来の姿へ戻ったというわけでも無く、手足のみならず体全体がまだ小さい状態だ。
また彼女の髪が活発さを感じさせるショートヘアで、服装のコーディネートも少年っぽさを感じさせられた。
おそらく今のエフの体格は6歳くらいであって、赤ん坊時と比較すると急激な成長を遂げている。
幼児退行に続き、もはや変身と言っていいほど変わってしまったわけだ。
そんな目まぐるしい身体変化が起きているというのに、エフ本人は何も気にしない様子でアズミに答えた。
「あっという間に赤ん坊になってしまったように、元々の年齢まで一気に成長していくのよ。この様子だと、遅くとも明日にはいつもの姿へ戻っていると思うわ」
「何とも無いなら良かったです。ふぁ……。それにしても、そのエフちゃんの姿は懐かしいですね。本当、昔の頃のままですよ」
「昔は昔で楽しかったわよね。せっかくの機会だし、あの頃のように男勝りな雰囲気で振る舞った方が嬉しいかしら?」
「それは……、あまりして欲しくないです」
いつものアズミなら、エフの提案に対して乗り気な返事をするはず。
それなのに、その提案自体が好ましくないという態度が分かりやすく出ていた。
更に彼女は自信無さげな雰囲気で真っ直ぐ見据え始めるから、エフは目を逸らしながら応えた。
「あら、残念。男勝りな私は苦手だったのね」
「そうじゃないです。ただ、あの頃のエフちゃんは苦しんでいたじゃないですか……。無理にリーダーシップを出すことで、難しい気持ちを押し殺していた。そして領主らしく振る舞おうとして、自分らしさを捨てていた」
アズミは苦々しい思い出を語るかのように、当時に感じたことをそのまま口に出す。
しかし、アズミが苦手意識を覚えていても相手が同じ認識を持っているとは限らない。
実際エフからすれば気にする程でも無い過去話だったようで、重々しい声色で語る親友を見て笑ってしまう。
「ふふっ。あーちゃんったら、やっぱりまだ気にしていたのね。私の両親が苦手だと、事情を知らないルリちゃんに自分から喋っちゃうくらいだったし」
「うっ……、恥ずかしいですね。聞かれていましたか。だとしても、あの頃のように怒らないで下さいよ?もう私のエゴに過ぎないって、充分に分かっていますから」
「本当かしら。とにかく、ちょっと外で話しましょうか。あの頃みたいに、2人で一緒に村のパトロールをしながらでもね」
エフに誘われて、アズミは短い言葉で了承しながら布団から出る。
そして2人で軽く身だしなみを整えた後、エフは家内の倉庫から子どもに似合う短めの木刀を取り出した。
古ぼけていて、刀身が傷だらけの木刀。
少し独特な臭いを放つようになってしまったが、それ以外は馴染みある感覚だ。
ただ久しぶりのあまり、こんなに軽かったかなとエフは木刀を眺めながら思った。
「当時は、まだ使用人関係だったアズミと特訓したものね。さて……、行こうかしら」
エフは木刀を携え、アズミと2人っきりで早朝の村へ出かけた。