第二章 大震災
東京五輪から数年後の冬
首都圏を巨大地震が襲った
二〇二〇年夏、東京五輪が盛況の内に幕を閉じた。
例によって開催前は様々な問題が明るみに出て大会の運営に支障をきたすのではないかと懸念されたが、蓋を開けてみれば、そうした些末な問題は忘れ去られ、世界中がアスリートたちの熱い戦いと筋書きのないドラマに熱中した。
招致に纏わる裏金疑惑は、事情を知っていると思われる関係者が都合よく消えたことでうやむやになり、開会式と閉会式では、貧弱なパフォーマンスと安っぽい演出が世界中の失笑を買い、涼しいはずの札幌では気温が三十四度まで上昇し、競歩の女子選手が熱中症で死亡したため、閉会式で黙祷が捧げられ、新国立競技場では熱による小火が発生して陸上競技の進行がストップし、新型のドーピングによって失格とされたロシアの重量挙げ選手が帰国後に謎の死を遂げ、ボランティアの熱中症による死亡者が十名を超えているが、当局によって隠蔽され、遺族には口止め料が支払われているという都市伝説が生まれたが、パラリンピックの閉会式が終われば、何事もなかったかのように全て忘れ去られた。
そして大会が終わると、日本中が田舎の打ち上げ花火大会の後のような、不気味な静寂に包まれた。
それが日本の繁栄を彩る、巨大な花火の最後の一発になると誰もが思っていた。
株価は、不動産価格と共に既に下落を始めていた。その他のありとあらゆる経済指標もじりじりと悪化していた。政府は経済政策の効果を強調したが、国民も、そして当の政府関係者すら誰一人としてそんな戯言は信じちゃいなかった。
彼らは先の見えない緩やかで長い長い下り坂を、無駄な抵抗と知りながらも運命に抗うかのように、恐る恐る半歩ずつ踏み出し始めていた。
華やかなパーティの後に、とてつもなくでかい一発が待ち構えていることなど、国民は知る由もなかった。
数年度の冬。
都心では雪が舞っていた。
人々は一日の仕事を終え、帰宅の途についていた。駅のホームや電車内では、こぼれんばかりに人が溢れ返っていた。繁華街では、会社帰りの一杯を求める人々で賑わっていた。
その時だった。
最初は微かな横揺れだった。人々がその微かな震動に気付き始めた頃、地面が大きく動き始めた。
震源域は相模湾沖で、マグニチュードは九.二。一九二三年の関東大震災と同じく相模トラフでのプレート境界型巨大地震であった。
内閣府の中央防災会議に設置された『首都直下地震モデル検討会』において、まだ百年先だと考えられていた関東大震災型の巨大地震が、その日突如発生したのであった。
震源域に近い三浦半島、湘南から小田原、横須賀から横浜、房総半島南部、そして東京湾岸の中央区から江東区、皇居のある千代田区までもが、震度七の激震に見舞われた。
地震の最初の一撃で一部の建物が倒壊、ビル街にはガラスの破片が滝のように降り注いだ。東京湾の臨海部では、至る所で液状化が発生し、大地が厚さ数メートルほどの砂の海に沈んだ。浦安のテーマパークでも園内全域で液状化が発生し、シンデレラ城が崩壊した。豊洲では液状化によって、また武蔵小杉では手抜き工事によって、それぞれ巨大なタワーマンションが倒壊し、周囲の建物が巻き添えを喰った。
鉄道は地上でも地下でも、すし詰め状態のままで脱線、転覆した。高架では、電車が横倒しになって地上に転落した。地下鉄線路内では火災が発生し、煙が帰宅ラッシュの車内に襲い掛かった。高速道路は橋脚から崩れ落ち、渋滞中の車両を巻き込んで横倒しになった。
古い木造家屋が並ぶ住宅街では、最初の一撃で軒並み家屋が倒壊、火災が発生した。環状七号線の内側から山手線の間に広がる、木密地域と呼ばれる木造住宅密集地が炎上し、都心がドーナツ状に火災に囲まれた。各所で火災旋風が巻き起こり、人間が吹き飛ばされ、燃えさかる炎の中へと消えていった。
川崎のコンビナート、千葉の石油精製施設が炎上、港湾施設も破壊され、船の発着も不可能になった。
最初の地震から十分後、伊豆半島から相模湾一帯、三浦半島全域、そして房総半島南部までの太平洋沿岸部に津波が襲い掛かった。伊豆大島や伊東では高さ十五メートル、鎌倉では高さ六メートルに達し、市内全域が浸水、鎌倉の大仏は山の斜面まで押し流された。
津波は東京湾内部にも入り込んだ。横浜港、川崎の工業地帯、羽田空港から東京港一帯、浦安のテーマパークから千葉、木更津まで、最大五メートルの津波が沿岸部に押し寄せた。タンカーからは原油が流出して炎上、湾内は船舶と瓦礫、そして炎と黒煙で大混乱に陥った。
濁流は内陸部にまで入り込んだ。品川区、港区、中央区、千代田区、江東区、江戸川区から浦安市まで、沿岸部の広い範囲が水に浸かった。羽田空港とお台場周辺は完全に水没した。皇居周辺も海水に囲まれた。各国の大使館が立ち並ぶ麻布周辺も浸水し、外交官や避難してきた外国人たちが完全に孤立した。浦安のテーマパークは、文字通り全域が海に沈んだ。
最初の一撃を運良く生き残った人々は、避難を始めた。
倒壊したり、傾いたりしたマイホームから、人々は何とか脱出し避難所を目指し始めた。
しかし、建物の倒壊瓦礫と倒れた電柱が彼らの前に立ち塞がった。湾岸部では液状化が発生し、身動きも取れない状態だった。
避難所に辿り着いたとしても、安全ではなかった。絶え間なく余震が続き、火災が発生すれば、また新たな避難所を求めて移動を開始した。
情報が乏しく、噂だけを頼りに避難所を探し求め、定員オーバーで受け入れを拒否されると乱闘が起こり、それが原因で数十名が死亡したが、結局うやむやになった。当てずっぽうに避難する人々の列が、火災の中へと自ら飛び込んでいった。
すし詰め状態の避難所では、水と食料、その他ありとあらゆる生活物資が一瞬で底をついた。タイタニックの足りない救命ボートさながらだった。人々は水と食料を求め、近所の住宅に侵入し、やはり乱闘が起き、さらに数十名が死亡してうやむやになった。
本震直後から、懸命の救助作業が続いていた。
住民たちは協力して、倒壊した家屋から人々を救い出した。
全国から消防、警察、そして自衛隊が動員され、瓦礫と猛火へと立ち向かっていった。
消防隊がやっと火災を抑え込み、自衛隊が首都圏全域に展開し終えた頃、本震発生から四十八時間を迎えた。
まだ余震は続いていたが、救助活動が本格化し、物資も届き始めていた。
人々は取り敢えず安堵し、いつか再び元の生活に戻れる日を夢想し始めた。
ところが、そのような甘い幻想に水を差すように、不気味な報告が政府対策本部にもたらされた。
富士山に隈なく張り巡らされた地震計と傾斜計の観測網が、異常なデータを示し始めた。特に東側斜面で火山性微動と火山性地震が頻発していた。地震学者たちは首を捻った。
相模トラフで地震が発生し、富士山の火山活動に影響を与えることは、理論的に十分考えられる。しかし、突然噴火するなどあろう訳がない。誰もがそう思っていた。それが間違いだったことに気付くのに、そう時間はかからなかった。
最初、都内では微かな震動を感じた程度だった。この頃になると、人々は余震にも慣れっこになっていた。震動が収まると、人々は再び元の活動に戻った。今度は聞きなれない破壊音が聞こえた。最初は雷でも鳴っているのかと思った。
綺麗に晴れた日で、その様子は都内からもはっきりと見ることが出来た。
青い空をバックにして真っ白な雪を頂いた、なだらかで美しい山体の東側斜面が突如爆発した。
都内から見ると、ほぼ正面からの噴火だった。
オレンジ色のマグマが真っ黒な噴煙を伴って上空へと噴き上がった。
山体崩壊が発生し、岩なだれが時速百キロメートルで斜面を流れ下った。御殿場市、裾野市、富士市を呑みこみ、東名高速道路と東海道本線を寸断、三島市と沼津市を経て駿河湾に達するのに一時間とかからなかった。
大量の土砂が海に流入したことにより、再び津波が巻き起こり、駿河湾一帯に襲い掛かった。
噴煙と火山灰は上空一万メートルの成層圏にまで達した。すっきりとした冬晴れの空は、一瞬にして暗闇に閉ざされた。火山灰は偏西風に乗って、関東全域に降り注いだ。
小型の噴石は、神奈川全域から都心にまで到達した。建物に着弾すると、高温のガスを噴出した。
一度は食い止めた火災が、再び猛威を振るい始めた。
避難所でも、噴石が天井を突き破って被災者を直撃し、発火して火災を引き起こした。
焼け出された人々は、火山灰が降り積もる中を、再び当てもなく彷徨わなければならなかった。
ガラスや鉱物の微細な結晶である火山灰は、それだけで極めて危険な物質である。
人間が吸い込むと、呼吸器の奥底まで入り込み、気管支炎、肺気腫、喘息などの呼吸器疾患を引き起こす。既に屋外で呼吸するだけで、極めて危険な状態となっていた。呼吸器の弱い者は、すぐに異常を訴え始めた。
ヘリコプターなどの航空機も飛行不能となった。救助や消火活動にも使用出来なくなった
在日米軍は、地震発生直後から救助活動を開始していた。
横田基地と厚木基地に司令部が設置され、全国の基地で動員がかけられた。
米国大使館からは、ヘリコプターで在日米人が横田基地に搬送され、すぐに本国に向けて飛び立った。
基地と大使館周辺では、地上での救助活動に兵士たちが動員されていた。
沖縄でも海兵隊に出動命令が下され、揚陸艦が関東に向けて北上していた。
横須賀の海軍基地は、津波の被害を受けて機能不全に陥っていた。ドックは全て破壊されるか、地盤沈下により使用不能となっていた。吾妻倉庫群と浦郷倉庫群では、燃料庫と弾薬庫がそれぞれ爆発炎上していた。第七艦隊は演習に参加するためグアムに向かっていたが、停泊中の駆逐艦一隻が座礁、小型の艦艇も、軒並み市街地まで押し流された。たまたま寄港中のロサンゼルス級攻撃型原潜が津波の直撃を受けて行方不明になっていたが、数日後に発見されたという。艦内に残っていた当直士官が、地震発生直後に基地を脱出させて、津波が迫る中で緊急潜航して難を逃れたらしい。しかし、スクリューを破損していたため、自力では航行不能だった。後に曳航されて、本国に帰還したという。
グアムでの演習は、地震のために延期となった。
第七艦隊は地震発生の一報を受けると、すぐに横須賀に向けて針路を変えた。
ところが、噴火の一報を受けると、今度は針路を西に変えた。
横田と厚木の航空機も、蜘蛛の子を散らすように、一斉に岩国、沖縄、韓国、或いはハワイへと飛び去っていった。
航空機にとっても火山灰は大敵だった。最早、基地を維持することは不可能だった。フィリピンのスービック基地の二の舞だった。
この時点で、在留外国人が音を上げた。
各国の大使館、外資系企業は、早々と大阪への移転を決めた。
世界中からの圧力を受けて、政府は外交官や外国人の避難を優先させることとなった。
麻布周辺に、自衛隊や消防隊のボートが殺到した。
彼らは、海水で孤立した大使館から脱出し、火山灰が降り注ぐ中を、徒歩で北へと向かった。埼玉や千葉で車両を調達して、利根川を越えた。火山灰は止むことなく降り注ぎ、昼間でもヘッドライトが必要だった。
それらのニュースを聞くと、日本人とは違い行動力のある外国人や日系人たちも、火山灰の中へと飛び出していった。彼らは同郷人らと合流し、隊列を組んで北へと向かっていった。
しかし、家を失った現地住民には逃げる当てなどなかった。
行き場のない人々のストレスはピークに達していた。
足立区の避難所では、食料の奪い合いから乱闘になり、それが暴動に発展した。避難所が焼き討ちされ、焼き出された人々が若者たちの集団を惨殺した。都心部では放火が相次ぎ、南青山、有楽町から銀座一帯、六本木、田園調布、広尾、代官山、武蔵小杉などなど、数十か所が灰燼に帰した。
最早帰る場所もなく、被災地から脱出する手立てもなかった。
余震は続き、火山灰だけが雪のように降り積もった。水道が火山灰で汚染され、水道管も詰まった。電力の供給も止まり、余震のため暖房器具も使えなかった。食料やその他の物資も尽きようとしていた。
人々は閉ざされた避難所の中で、飢えと寒さに耐えながら、毛布にくるまって震えていることしか出来なかった。老人や病弱な者から、次々と力尽きていった。
考え得る限り最悪の状況だった。
しかし、これで終わりではなかった。
本震発生から六十時間余り、富士山の噴火から十時間余りが経過した頃、今度は東海トラフを震源域とする地震が発生した。震度は、静岡県で震度五、首都圏では四以下だった。
地震の巣である日本列島の住人たちは、震度五程度の揺れでは最早動じることはなかった。
むしろ、東海トラフでの地震がこの程度で済んでよかったと、安堵のため息を吐いた。
ところが、人間よりも先に原発が音を上げた。
静岡にある、中域電力の浜渦原子力発電所において、格納容器が地震で損傷を受けて制御不能に陥っているという報道が世界中を駆け巡った。
当初、政府は原発の事故報道を否定した。
しかし、三十数年前の醜態を忘れるにはまだ年月が足りなかった。政府と電力会社を信用する者は、被災地のみならず世界中で皆無だった。
被災地では動揺が広がった。
関東を脱出するのか、そこに留まるのか。彼らは選択を迫られた。
情報が錯綜する中で、動画投稿サイトに一本の動画がアップロードされると、それが瞬く間に拡散した。
それは、海自のホバークラフトが、海水で孤立した皇居に突入する映像だった。赤坂の方も同様だった。
皇族方は公務のため、たまたま皇居にも赤坂にもいなかった。ホバーは、宮内庁の職員や三種の神器などの物資を満載して脱出したと思われた。
反原発の市民団体が都心部で測定したところ、ガイガーカウンターの針が振り切れた。その様子も、動画配信サイトにアップロードされた。
政府から何の発表もないことに、住民は苛立ちを募らせた。メディアによる報道の方が先行した。
浜渦原発前の海岸に、米海兵隊のヘリコプターが飛来、重装備の兵員が上陸している映像がCNNによって流された。彼らは米海兵隊のCBIRF『Chemical-Biological Incident Response Force(化学生物兵器対応部隊)』であると報じられた。彼らが任務で日本に上陸するのは四十年ぶりだった。
彼らに遅れること一時間後、今度は自衛隊の中央特殊武器防護隊が、陸路で浜渦入りしたとのニュースが、日本のテレビ局によって報じられた。
事ここに至ってようやく政府は、浜渦原発の三号機が制御不能に陥っていると公式に発表した。
浜渦原発は、三一一での福島第一原発の事故を受けて、長期にわたって運転を停止していた。ところが東京五輪が終わると、どこからともなく運転再開案が持ち上がった。元々、運転停止は当時の政府の要請に中域電力が応じただけのもので、法的拘束力はなかった。政府と電力会社は、東京五輪が終わると、防潮堤の完成と各種の安全対策工事の完了を理由にして、運転再開を強行していた。
東海トラフでの地震発生時に、原子炉では自動的に緊急停止命令が発令された。
四号機と五号機は、プログラム通りに制御棒が挿入され、臨界がストップした。
ところが、何故か三号機だけ、制御棒の挿入が不完全だった。
後に判明したところでは、原子炉建屋直下の地中に活断層があったらしく、そいつがズレて、原子炉が微妙に傾いたことで、制御棒が最後まで挿入出来なかったようだ。
政府は収束可能であるとして、冷静な行動を被災地に呼びかけた。しかし、既に都心部で放射性物質が検出されているとの情報が、ネット上で拡散していた。各地の反原発団体などがガイガーカウンターで計測した結果を、SNSや動画投稿サイトにアップロードしていた。この時点で、他の地域では、まだガイガーカウンターは大人しくしていたが、それらが春のウグイスよろしく、メスを求めて鳴き出すのは時間の問題だと思われた。
放射能は、通常は目に見えない。しかし今回ばかりは違った。黒ずんだ火山灰という形で、人々の頭上に降り注いでいた。
最早、火山灰はただの火山灰ではなかった。
富士山の噴火までは、あくまで自然災害だった。しかし、原発事故は人災だった。ここまでは大人しく耐えることが出来た人々も、遂に堪忍袋の緒が切れた。
最初に動いたのは、民間企業だった。
既に外資系のIT企業や投資銀行は、大使館と共に首都圏を後にしていた。彼らに追随する形で、日系企業も次々と移転を決断した。自動車、商社、金融、保険、IT、医療、製薬、不動産、製造業、流通業、小売り、サービス業、食品その他ありとあらゆる分野のありとあらゆる企業が、関東圏からの脱出を始めた。彼らを駆り立てたのは、実害よりも風評被害に対する懸念だった。大企業の多くは、大阪の第二支社に移転先を定めたが、その他の大都市でも蒸発するかの如くに、一瞬にして不動産が干上がった。
オフィスビルのみならず、企業は社員たちの住居を確保するために奔走し始め、家賃と地価が高騰し、それは都市部のみならず、郊外にまで及んだ。言うまでもなく、対象は正社員のみで、非正規社員のことはすぐに忘れ去られた。
郊外に住んでいる社員たちは、家族と共にマイカーで住み慣れた家を後にした。都心部に住んでいた独身の社員らは、郊外まで歩いてから、会社が調達してくれたバスに乗り込んで、首都圏からの脱出を図った。
大企業とその社員たちが脱出を始めると、移住が可能な上級国民も、親戚や知り合いのツテを頼って、首都圏から脱出を始めた。
そして、北へと向かう道路の大渋滞を目の当たりにして、中流以下の国民たちも、つられるように脱出の列に加わった。中流未満の人々は、有力なツテも金もなく、移住先のことなど何一つ考えることなく家を飛び出した。
彼らはわずかな家財道具をリュックに詰めて、子供たちの手を引き、食料や寝る場所の当てもなく、火山灰と放射性物質が降り注ぐ真冬の極寒の中を、太陽を背にして歩き始めた。
最早、一度決壊したダムから流れ出す奔流を、誰にも止めることは出来なかった。
パニックに陥った人々は、政府の制止を無視して我先にと避難を始めた。北へ、或いは東北へと向かう人々の列が、都心部から利根川を越えて、数十キロにわたって続いた。太平洋岸の道路と鉄道網は、既に寸断されていた。おまけに西方には、未だに噴煙を上げ続ける富士山と、放射性物質を撒き散らし続ける原発があった。
その内に、都心から徒歩で移動する人々の列が、渋滞の車列を追い越し始めた。
自動車で移動する人々は痺れを切らし、ナビと勘だけを頼りに西へと針路を変えた。前の車両が左へ曲がると、後続の車両も次々と従った。
彼らは関東平野を抜けて山の奥深くへと入り込んでいった。
その内に、黒い火山灰が白くなり始めた。道路に積もった雪が固く凍り付いていた。
彼らは何の装備もなしに、雪の山中へと足を踏み入れていた。最早、引き返すことは不可能だった。スリップで事故が多発し、雪の峠で道路が完全に封鎖された。人々は街路灯もない山中の道路上で、ガソリンが尽き、動くことも出来ず、暖房が止まった酷寒の車内で穏やかに眠ったまま二度と目を覚まさなかった。
百年前に、製糸工場で働く十代の工女たちが徒歩で越えた真冬の峠を、文明の利器である自動車がとうとう越えることが出来なかった。
被災地では全てが崩壊していた。街も、秩序も、信頼も、全てが崩れ去った。残されたのは混沌と不信と虚無だけだった。
政府の発表など誰一人として信じず、ネット上では、噂や不確実な情報が駆け巡った。
誰もが疑心暗鬼に陥り、罵り合いと奪い合いが始まった。
考えられるのは、自身の生存だけだった。
住民に見放されたのを知ってか知らずか、ここに来てようやく、政府は原発からの放射能漏れを認め、首都移転を決断した。
大阪では既に、首都移転を見越して不動産の争奪戦が始まっていた。
ところが、大方の国民の予想に反して、首都の移転先は福岡の博多と発表された。
一説によると、決断の裏には米国の圧力があったとされている。
彼らは横田、厚木、横須賀と、極東の重要な拠点を一気に三つも失っていた。自軍の拠点に少しでも近い場所に、我が国の首都を望んだとしても何ら不思議ではなかった。
大阪では、跳ね上がった不動産価格が一日も経たずに急降下した。不動産に全財産をつぎ込んだ山師たちが、何名も自殺に追い込まれた。
その代わりに、福岡のみならず、九州全域の不動産価格が急騰した。
首都圏では、東京、神奈川、千葉、埼玉、山梨の全域、そして茨城の南半分と静岡の大部分が避難指定地域となった。西は天竜川から南アルプス、八ヶ岳を経て、利根川を下り、茨城を横断して太平洋に至るまで、一本の見えないラインが引かれた。
地元自治体は、住民たちの避難に着手し始めた。しかし、どう見積もっても車両が足りなかった。避難先の目途もつかなかった。脱出路はほぼ全てが塞がれていた。
東京だけで一千四百万人、その他の県も合わせると四千万人以上、日本の人口の三割を超す人間が、一斉に首都圏を脱出しなければならなかった。
自動車を持っている者は、自力での避難が求められた。しかし、既に道路は大渋滞で身動きも取れず、北関東のスタンドではガソリンが尽きた。自家用車がない者のために用意された車両も同様だった。路上に降り積もった火山灰が舞い上がり、視界はほぼゼロだった。路上の表示も見えず、急ブレーキによるスリップで事故が多発した。信号機も火山灰によって故障し、交差点は大混乱に陥った。古い車は、エンジンに入り込んだ火山灰によってエンジンブローを起こし、やはり路上に放置され、それらが更なる渋滞を引き起こした。
国道上の至る所で、優先順位とガソリンをめぐって乱闘がおき、それが殺し合いに発展した。誰かが車両に火を放つと、車列が次々に爆発炎上した。
人々は車両が動けなくなると、自力で歩き始めた。動けない老人や病人たちは放置された。屋外に出ると、健康な人々もすぐに呼吸器に異常を訴え始めた。
利根川を越えると、人々は安堵した。やっと水と食料、そして暖かい寝床にありつけるものと期待した。しかし、そのような甘い期待は一瞬にして裏切られた。
避難所はどこも定員オーバーで、受け入れを拒否された。デスマーチは終わらなかった。人々は安息の地を求めて、更に北へと向かった。
こうして大部分の住民は、避難指定区域の外へと脱出した。
地震や噴火での被害よりも、避難の途上で命を落とした者の方が多いという説も存在するが、詳細は今もって不明である。
まだ判断力のある老人たちは、せめて自宅で死にたいと避難勧告を拒否した。判断力を失った老人や、自力で動けない障害者が、どさくさに紛れて放置された。自治体や周囲からも見過ごされるか、黙認されるかした。自己責任という名の責任放棄だった。
身寄りもなく、住まいや仕事の当てがない一部の下級国民も、被災地に留まることを選んだ。
その数は、二十万とも五十万とも言われているが、正確なところは未だにわかっていない。
こうして、繁栄を極めた巨大都市東京は、火山灰と放射性物質で汚染され、古代ローマのポンペイよろしく、歴史の彼方に消え去るかと思われた。