当主
青く澄んだ空。辺りには広大な緑が拡がっている。
鳴り響くのは信也の背中が地面に擦れる音だけだ。
「おいジジイ。いい加減離しやがれ」
信也は何故か水姫の父親に引きずり回されていた。
小柄な体格からは想像できないような膂力で、58.75kgある信也の体を依とも容易く引っ張り続ける。
「ふむ。ここいらでいいじゃろう」
気付いたら開けた場所に出ていた。水姫の父親は、そこで信也の襟首を引っ張り上げ、立たせた。
「ジイさん、いったい何がしてぇんだよ」
問いかけるも、会話のキャッチボールは成立せず。水姫の父親は、信也の反応を待たずして話を進める。
「そうじゃのう。どこから話したものか…。あれは、ワシがまだ十字軍に参加していた頃の話しじゃ。青龍の討伐に向かい、大護とは、そこで初めて共闘したのじゃ」
認知症の進んだ、水姫の父親は既に、現実と妄想の区別がつかなくなっている。
頭の中ではどうやってこの場から逃げ出そうか算段を立てていた。そんな中でも、水姫の父親の口は動き続けている。
「…だから、その時の恩を返さねばなるまい。まずは、お主のその奇っ怪な身体の謎を解き明かそうかの」
…奇っ怪?
その言葉が指し示すものは、信也の体の異常に水姫の父親が気付いているということだ。
地面を引きずられたのに、体は無傷で衣服も擦りきれて無かったかからか…。
何にせよただの若年性認知症の若年寄《わかどしよりではない。
驚きを隠せない信也に不意の一撃が入る。
“水響芯”
水姫の父親の掌底が信也みぞおちを捉える。
「ぐっ。何しやがる」
未だかつて、味わったことのない不快感に襲われ、腹の底から何か込み上げてくる。
「ふむ。お主の身体には楔を打ち込まれとる。ただ、それがお主を守る為のものか、周りの人間を、お主から守る為のものかはわからぬが…」
まともな事を言っているようだが、何を言っているかさっぱり理解できない。
「楔を打ち込んだのは大護か?」
いつの間にか水姫が信也隣に立って、会話に参加してきた。
「いや…これは大護のものではないの。すまぬが、ワシにわかるのはここまでじゃ…」
「わかった。珍しく郡山さんの頭がしっかりしていて助かった」
どうやら、水姫に言わせれば、これが、しっかりしている方らしい。
「おいシンヤ?俺はこのまま生司馬大護を追う。高い報酬が貰えるからな。お前はどうする?」
「オレも親父のことを知りたいけど…」
「お前は処刑対象の息子だからな。事が済むまではここで軟禁生活を送ってもらう。ただし、協力するなら多少の自由は保証しよう」
水姫は初めから信也に協力を仰ぐつもりだったのだろう。信也に選択肢を与えてくれているのは、彼なりの優しさなのだろうか…。
「協力っていったって、何するんだよ。オレはずぶの素人だぞ!」
今まで育児放棄していた父親のせいで、被害を被っていることに、正直憤りを感じている 。
水姫はさして考えもせずに返答する。
「そうだな…とりあえずお前にできるのは、人質役ぐらいかな」
「結局そうなるのな」
「郡山さん。大護について詳しく教えてくれ」
水姫は父親のこと郡山《こおりやまさんと呼んでいる。吐き捨てられたその言葉には、赤の他人を呼ぶような距離感が感じられる。
その事を、水姫の父親は気にも止めていないが…。
「ふむ、何処から話したものか…そうじゃな、あれは桶狭間の戦いで、今川軍の足軽として戦ってたときのことじゃ…」
これ以上、情報を引き出すのは無理と判断したのか、水姫は踵を返す。
「シンヤ、もう行くぞ。そろそろ昼飯の時間だ」
水姫は朦朧した父親を放置してその場を離れた。
信也も話を聞くのは諦めて、水姫についていく。
「どっちみちこれ以上はお手上げだ。アプリからの通知を待つしかない。それまでは敷地内でゆっくりしてていいぞ」
結局、この神社からは出られないのか…。
「ところで…アプリって?」
「国が運営している、スマホのアプリだよ。その名も“ゴーストハンター”。これに依頼が貼り出される。依頼の達成貢献度によって報酬が支払われる」
「なるほど…。ちなみに親父を捕まえると、いくら貰えるんだ?」
「2億3千万円かな。規律違反者の懸賞額では過去最高らしいぞ」
「マジか…。それだけヤバい奴ってことか」
信也は改めて自分の父親がろくでなしだと痛感する。並行して、どれだけの事をしたらここまでの額になるのかとも思った。
正直、父親と話したことも無いし、顔すら知らない。今さら父親が悪い奴でしたと言われても、どこか他人事に感じてしまう。
「水姫、オレはこれからどうなるわけ。さすがに父親のせいで俺まで罰せられるなんてことはないよな?」
「どうだろうな…。そもそも、大護に息子がいたことも、信也と出会うまではわからなかったからな。ま、事実確認も含めて“機関”からの返答待ちだ。とりあえず郡山家の現当主に話を通しておかなないとな」
「現当主?当主は爺さんじゃないのか…」
「ジジイは隠居して、今は義弟の朝水が当主だ」
「へぇ、ミズキに弟なんていたんだな。まだ若いのか?」
「15だ」
「15歳で当主か。凄いな。てかそもそもお前の家は何なんだよ、お寺か?」
「その話は追々《おいおい》する」
水姫は飯を食いに行くぞと、軽く手を振り、お寺の中へと向かった。
これは、結局話さないパターンだと思いつつ、先が見えない不安が信也の心の内に澱のように募る。
たった、1日、2日で日常が一変した。
信也も水姫の後を追うようについていった。
しばらく、お寺の中を進むと、だだっ広い和室に到着した。
室内では、既に真依と灯浬さんが座っており、目の前にはお膳が並べられていた。
「この部屋、いったい何畳あるんだよ」
ここの和室はテニスでも出来るのでは、と思える程広かった。
信也が部屋中を見回していると、水姫が視線で座るよう促す。
数分すると使用人の間壁 が目の前にお膳を運んできた。
よくよく考えると、お寺の和のイメージと執事服の洋のイメージがマッチしておらず、和洋折衷も、ある程度考えてから実行しがいいのではと信也は思う。
そんな思考に囚われている内に、懐石料理が目の前に並べられていく。
食事の大半をカップラーメンで過ごしている信也には縁の無い食べ物ばかりだ。
「うまそー。いっただきまーす」
信也が勢いよく食べようとしたところを水姫が制す。
「おまえ意地汚い奴だな。食事は当主が食べ終わってからだ。俺らその後にいただくんだよ」
「いつの時代の風習だよ。当主さんもまだきてないし」
「シンヤくんは相変わらず食いしん坊さんだね」
そんなやり取りを見て真依と灯浬さんはクスクス笑っている。
「今日は珍しく賑やかだね」
爽やかな声と共に1人の少年が入室してきた。
どことなく水姫と雰囲気が似ているが、表情は柔らかく、髪の色が真っ黒だ。何より眉間のシワがない。
「こんにちは。おおよその話は母上から聞いているよ。私は郡山家26代目当主。郡山朝水と申します。兄がいつもお世話になっています」
朝水と名乗った少年は丁寧に頭を下げた。
「むしろ俺がお世話してやってるぐらいだ」
朝水は水姫の訂正をなだめるような笑顔で流す。
信也と真依も朝水なは習い、ぎこちなく自己紹介をした。
「せっかくのお客人なので皆で食べましょう」
朝水は歳の割りに落ち着いている。信也は常識もなく、中身のない自分が恥ずかしくなり顔を伏せた。
一通り食事を終えると朝水は本題に入る。
「とりあえず生司馬さんと竹取さんは干渉力の使い方を覚えた方がいい」
この時、既に朝水の思惑通りに動かされていた事など、信也たちには知る由もなかった。
「母上の話では竹取さんも素質があるんですよね。僕が手解きしますよ」
朝水は爽やか笑顔で、とんでもないことを言い出した。
これに対して、水姫は猛反発する。
「お前何言ってんだ。敵意がないとはいえ、規律違反者の息子だろ。これ以上、力を付けて万が一のことがあったらどうする。それに、竹取さんもこっちの世界に巻き込む気か。危険だろ」
水姫の怒りなど意に介さず朝水も穏やかな口調で反論する。
「どうしてだい。そもそも竹取さんをここまで連れて来たのは兄さんだ。既に巻き込まれているよ」
「それに、どう選択するかは竹取さん次第だ。力の使い方を覚えておいて損はないだろ。昨夜みたいに、今後、悪霊の被害を受けないとも限らない。自衛の術ぐらい身につけていた方がいいよ」
「だとしても…」
そこで、水姫は言い淀む。
「それに信也さんは良い人だよ。今後、協力を仰ぐにしても、最低限、戦えるようになっておいた方がいい。危険な目に合う可能性も高いし。もし、信也さんが国家の敵になるようであれば、当家が責任をもって対処しますよ」
表情は爽やかなままだが、目が本気だ。
朝水はこの若さで当主たる風格を備えている。
「そうかよ。勝手にしろ」
口論の勝敗は朝水に軍配が上がり、水姫は不機嫌そうに、部屋を出ていった。
「水姫さん、お待ち下さい」
灯浬も、その後を追って部屋を出る。
「すみません。皆様にはお見苦しいところをお見せしました。…では改めてお聞きします。どうせ時間もありますし、その間に干渉力の扱い方を覚えませんか?ただ…竹取さんは、別に軟禁されているわけではありませんので、私からくろさんへの聞き取りが終われば、すぐにでも帰しますよ」
「オレはオレ自身のことを知りたい。それに父親のことも。だから少しでも真実に近付けるような力が欲しい。教えてくれ」
これは信也の本心だ。一方的に巻き込まれ、流されてここにやって来たが、少しでも抗いたい。
闘争本能の塊のような信也に当てられてか真依も乗り気のようだ。
「私もなんたら力っていうのを教えてほしい。くろちゃんとも永い付き合いになりそうだし。それに…」
そこで真依は信也をチラッと見て言葉を止めた。
「それに?」
朝見が言葉を促す。
「これ以上は乙女の秘密です」
「おい。真依は家に帰れよ。自ら進んで、危ない目に合う必要は無いだろ」
乙女の秘密の部分が気になる信也であったが…、真依まで親父からの被害を受ける必要はないと止めに掛かかる。
「ねぇシンヤくん。朝水さんが言ってくれた通り、これは私の選択でもあるの。私が決めるわ」
ここまで食い下がる真依は初めて見た。気圧された信也は渋々《しぶしぶ》承諾する。
「分かったよ。ただし、危険な状況になる前に家に帰れよ」
「そのときはシンヤくんが守ってくれるんでしょ?」
真依はイタズラっぽく笑ってみせた。
浅い関係を振り替えると、真依の頑固さを以前も体験していた事を思い出す。
数日前、真依はストロー付きの紙パックの苺ミルクを飲んでいたときに、ストローの存在に気付かず、開口部穴を空け、直接、口を付けて飲んでいた事があった。
それを信也が指摘すると、
「私は小さい頃からこの飲み方なの」と言って、決してストローを使おうとはしなかった。
たった数日前のことだが、凄く懐かしく感じる。感傷に浸っていた信也の思考は、朝見の声で現実に引き戻された。
「お二人の気持ちは、よく分かりました。ではさっそく、取り掛かりましょう」
唐突な展開に驚く信也たち。
「今から?」
「ええ。こう見えて、私も忙しい身なので…。それに、いつ干渉力が必要になるかわかりませんから、早いほうがいいでしょう」