譲れないもの
「…シンヤくん。…シンヤくん」
気絶してた信也は、真依に揺さぶられ目を覚ました。
信也が体を起こすと、真依は涙と鼻水を垂らしながら、勢いよく抱きつく。
「いったい何が…」
信也は悪霊の生前の記憶を垣間見たせいか、混乱している。信也の心の内に、ただただ深い哀しみが込み上げてくる。
信也の目からも涙が溢れ、いっこうに止まる気配はない。
そこへ、水姫が窓から戻ってきた。
ざっと辺りを見回して、現状を把握したのか、彼の顔に驚愕の色が浮かぶ。
「まさか本当に倒しちまうとは… 」
水姫の言葉を聞き、信也も辺りを見るとすぐ近くに黒髪の少女も横たわっていた。
黒髪の少女が悪霊になったのは、あの黒服の男のせいだ。信也のなかで、不確かな確信が芽生える。
そんな信也の内心を知る由もない水姫は指を鳴らし、水の弾を形成する。
信也はふらつきながらも、転校生の前に立ちはだかった。
「おい、待て待て。この子をどうするつもりだ!」
「どうするって決まってるだろ。始末するんだよ」
水姫は顔色一つ変えずに、言葉を返す。
「まだ結界も解けてないし、別の器にでも取り憑つかれたら面倒だ」
水姫は信也の許可は求めていないといった様子で、黒髪の霊に向かって、再び指を向ける。
「待ってくれ、この子はもう大丈夫なんだ。これ以上、悪さはしない。頼むから見逃してくれ」
尚も食い下がる信也に対して、水姫は少し苛ついたように語気が強くなる。
「何で大丈夫だって言い切れる。器を壊しても霊はしばらくは活動できるし、新たな器を見つければ、そのまま消滅することはない」
「見逃して次の犠牲者がでたら、お前はそいつの人生に責任が取れるのか?」
信也は水姫に気圧されながらも言葉を返す。
「理由は上手く説明出来ないけど、とにかく大丈夫なんだ。 それにこの子だって、オレたちと同じ人間だったんだ。むやみに消していいはずがない」
信也の訴えが終るやいなや、水姫は信也の胸ぐらを掴んだ。
「お前、霊と人間を同等の存在として捉えているのか。その価値観は危ういぞ。生者と死者の区別ぐらいしっかりつけろ!」
信也は胸ぐらを掴んでいる、水姫の手を払いのけた。
反論の余地が無かった信也は、再び水姫の前に立ちはだかることしかできなかった。
「避けろよ、さもないと死ぬぞ」
“蒼弾・飛沫”
水姫は指を鳴らし水の弾を信也ごと、黒髪の霊に目掛けて放つ。
彼は臆することなく、水の弾を素手で全て叩き落とす。
「転校生、お前が何と言おうとこの子は消させない」
すると水姫の表情が少し和らいだ。
「信也、この際お前が何者なのかはどうでもいい。そこまでの強い意思があるなら、俺はもう何も言わない」
「…だが、俺にも譲れない価値観がある。だから、少しでも一般人に被害が出る可能性があるなら、お前もろとも消す!」
「まるで、オレをいつでも殺せるような口ぶりだな転校生。自慢じゃないが、オレは生まれてこのかた、怪我したことなんてないぜ。…たぶん」
ヒートアップした2人を止めるのことは最早誰にもできない。
水姫は両手を叩き弓を引くポーズをしてみせる。すると、そこには水でできた弓が形成されていく。
真依が2人を止めようと叫んでいる。
しかし、その言葉で止まる2人ではなかった。
“蒼弓・穿雫”
水姫がそう叫ぶと、今度は水で矢が形成されていく。
そのまま、矢を信也目掛けて、勢いよく放つ。
信也も同時に右ストレートを繰り出す。
すると、信也の突きだした拳から、白い靄が一直線に伸びていく。
信也は先刻から何の疑問も持たずに、この訳の分からない力に頼りきっている。
放たれた水の矢と白い靄が衝突し、目映い光が爆ぜる。
その発光の最中、水姫は信也の目前まで間合いを詰めていた。
水姫が再び両手を叩く。
叩いた箇所から両手で何かを掴み、引き抜いた。
水が刀を成し、転校生の左手には本差、右手には脇差が握られている。
“蒼双刀・二天”
水姫は、 そのまま二刀を信也の真上から振り下ろす。
信也も負けじと拳打を繰り出す。
「いい加減にしてよ」
真依が泣きながら叫んでいる。
真依の叫びも虚しく、二刀と拳が衝突する。
激しい光と共に彼らは互いに吹きとばされ、廊下の壁に衝突する。
その衝撃で校舎全体が揺れだした。
今までの戦闘もあり、校舎にガタがきたのか、真依と要の真上の天井が崩れ落ちたら。
「真依っ!」
「しまった!」
信也と水姫が同時に叫ぶ。
激しい振動と共に土煙が舞い上がる。
視界がはっきりすると、真依の下半身が瓦礫に埋もれている。
要ちゃんは真依が庇ったのか、倒壊に巻き込まれずに済んだ。
戦いを中断して、信也と水姫は即座に真依の元に駆け寄る。
「すまない」
水姫は、ここにきて初めて悲哀の表情を浮かべた。
「あれっ?不思議と痛くないや」
真依はそう言うが、霊体は徐々に透け始めている。
「おい転校生。これってどうなるんだ!霊体なら瓦礫ぐらいで死なないよな」
信也は必死になって、水姫に詰め寄る。
「この校舎全体に悪霊の結界が張り巡らしされている。この瓦礫にも干渉力が流れ込んでいるから、ただの瓦礫でも霊体とっては致命傷だ」
干渉力。馴染みのない言葉に信也はよけいにパニクる。
講義中に専門用語を多様し、置いてきぼりになる学生への配慮に欠けている大学教授よろしく、信也への配慮は微塵も感じさせないまま、水姫は説明を続ける。
「幽体離脱中に霊体が消滅すると、肉体は脳死状態になる」
水姫は苦悶の表情を浮かべそう告げた。彼なりに、現状に対する責任を感じているのだろう。
「何を言ってるか分かんねぇけど、つまり死ぬってことだよな。どうにかなんないのかよ。真依っ、真依っ」
信也は泣きながら、真依の名前を呼び続ける。
「もう、シンヤくん。ワタシはおばあちゃんじゃないんだから、そんなに大きな声を出さなくても聞こえてるよ。でも、これで2人のケンカが収まったから良かった…」
どこまでもマイペースなやつだ。
もしかして幽霊になるなら、消滅するよりはマシなんじゃないのか。
水姫に言わせれば、生と死の区別がつけれていないヤバい考えが信也の頭に過る。
そんな時、気付くと黒髪の少女が、真依の前に立っていた。
「ごめんなさい。私のせいで…」
黒髪の霊は今までとは別人…、別霊のように謝ると、全身が髪の毛となり、真依の霊体に纏わり付いた。
そのまま、真依の中に浸透していき消えかかっていた真依の霊体《 からだ》が、徐々に色を取り戻していく。
「まさか、守護霊になったのか」
水姫は驚きの声を挙げる。
黒髪の少女は真依の中から煙のように抜け出てきて、今までの悪意など微塵も感じさせず、穏やかな口調で答える。
「そうよ…私も何で人を襲っていたのかよく分からないの。あなた達には迷惑をかけたわね。結界も今解くわ」
黒髪の少女がそう言うと、学校を覆っていた黒いもやが消え去る。
直後に気を失っていた要の霊体が宙へと浮かび上がる。
そのまま丸い光となって、何処かへと飛んでいっく。
「いったい、何がどうなったんだ。真依は助かるのか?」
信也は展開についていけずに混乱していた。
そんな彼を見かねて、黒髪の少女が補足をいれる。
「私がこの娘の守護霊になって干渉力の回復を図ったのよ。それと私が結界内に捕らえてた霊体は、帰巣本能に従って肉体に戻っていくわ」
黒髪の少女はそう説明するが、信也には馬の耳に念仏状態だ。
水姫は真依の下半身に積もった瓦礫を、難なく持ち上げ動かし始めた。
「とりあえず何とかなって良かった。俺は疲れたから先に帰る」
水姫はぶっきらぼうにそう言って、大きく背伸びをした。
「おい転校生。この霊はもう消さないのか?」
「ああ、一度、守護霊になったら、成仏するか、器を変え別の人の守護霊になるかのどちらかだ」
「自身の怨みや悔恨、生への執着を昇華させなければ、守護霊になることはできないからな。だから、この霊はこれ以上、誰かに危害を加えることはない」
「なるほど、よく分からんがとにかく大丈夫なんだな」
信也は身体中の力が抜け、その場に尻餅をつく。
「おい、黒いの。聞きたいことが山ほどあるから、覚悟しとけよ」
水姫は黒髪の霊に、そう言い残すと、振り返ることなく去っていった。
黒髪の霊は何も言い返せないのか、うつ向いたままだ。
「じゃあね、シンヤくん」
真依と信也に手を降りながら、光となって空に飛んでいった。
こうして、彼らの長い夜は幕を閉じた。