窮地
信也の腹部から溢れだす、白い靄により、九尾の体は弾き飛ばされた。
くろは、その光景を、ただただ傍観することしかできなかった。
次第に、大気中に満ちる白い靄の奔流は収まり、視界が開けると、信也と九尾はうつ伏せに倒れていた。
「しんや!」
くろが声を掛けるが返事がない。くろの脳裏に“死”の一文字が過る。
「しんや、まい、早く起きて!」
奇しくも、くろの呼び掛けに応え、起き上がったのは九尾だけであった。
九尾は怒りの形相で、信也を睨み付ける。
「うぬは何者じゃ?」
九尾が信也に問いかけるが反応はない。
「…なんじゃ、気絶しとるのか。正体は気になるが、厄介なことになる前に、わらわの全力をもって喰ろうてやろうぞ」
九尾の肉体は、骨が鳴るような不快な音と共に、膨張していく。
体毛がうねり、白装束の服は破れ、数メートルはあろうかという八本の尾を持つ妖狐へと姿を変える。
真依に尾を削られ、一本少ないが、これが本来の九尾の姿なのかもしれない。
変貌を遂げた九尾は、そのまま信也を食らおうと涎を垂らしながら、歪な口を開く。
「やめなさい!」
くろが言葉で制する。
「なんじゃ、娘子の守護霊か。ここまで意思表示できる守護霊も珍しいが…、いまはこやつじゃ。心配せずとも、うぬらも後で喰ろうてやる。そこで大人しく見とれ」
くろは自身の無力さに打ちひしがれながら、それ以上、どうにも出来なかった。
くろが、現実に堪えきれず、目を反らしている隙に、空から水で形成された剣の雨が降り注いだ。
“蒼雨剣・夕立”
無数の剣は九尾の体に容赦なく突き立てられた。
「くろ、わりいな。遅くなった」
「アンタは…」
いつの間にか、くろの隣には水姫が立っていた。
優しく囁かれた、その声色とは裏腹に、水姫の体はは激情で震えていた。
くろからしてみれば、水姫との付き合いは短いし、信也と比べ、何を考えているのか分かり辛い。その為、どことなく苦手意識を感じていた。
ただ、真依と信也が傷付けられ、ここまで怒りを露にしているとこから、他人の為に怒れる人間なんだと、改めて見直した。
「これをやったのはお前か!」
「次から次へと馳走が飛び込んで来るのう。早めにどいつか喰ろうて、干渉力を回復したいとこじゃが…」
九尾は水姫の問いかけなど意に介さず、どこまでの欲望のままに餌を求めるだけであった。
水姫が地面を叩くと、地表から僅かな水が涌き出てきた。
その水は、気絶している信也を包み込み、手早く自分の後方へと引き寄せた。
「うぉぉぉぉ!」
水姫の咆哮が、樹海に響き渡る。
それに呼応するように、薄暗い樹海が、より一層、暗くなる。
空は積乱雲で覆われ、次第に雨が降りだしてきた。
その雨は九尾の結界に遮られることなく、辺りを濡らす。
「何が起きてるの?」
くろは状況を飲みのめないまま、空を仰ぐ。
「なんじゃこれは…、うぬがやったのか?」
突然の悪天候に九尾の注意は水姫へと注がれる。
「天候をねじ曲げるなど、わらわより、よっぽど化け物じみとるではないか」
九尾は即座に八本の鋭い尾を、水姫に目掛け放つ。
「馬鹿な! 」
しかし、その尾が水姫を貫くことはなかった。
驚いたのはくろも同じであった。降りしきる雨が、水姫の体に吸い付くように、まとわりつき、信也の体ですら貫いた九尾の尾を弾き飛ばしたのだ。
「いつ、 助けに来るかわからない相模のオッサンを宛にするほど、俺は気が長くねえ。九尾を仕留める手札は、今の俺には、これしかない」
「くろ…すまん」
それは、これから起こる事に対しての謝罪なのか、間に合わなかった事へと贖罪なのか、くろには検討すらつかなかった。
降り注ぐ雨が、意思を持ってるかの如く収束し、水姫は大量の水に呑まれた。
そして、水姫の華奢な体は別次元の生物へと変貌していく。
白い鱗。四足の屈強な手足から伸びる、厳つい爪。極めつけは、九尾を見据える、爬虫類のような鋭い目。
「 へび?…いや、違うわね」
水の形状が定まると水姫は龍のような生物へと変態していた。
その体は九尾よりも一回り大きく、水姫の面影は一切残っていない。
「まさか川嶋河の大虬の類いか!こんな有毒の化け物を体内に宿していたとは…これは、わらわも全力でかからねばなるまい」
水姫は獣のような唸り声をあげている。
同じ化け物でも、流暢に人語を話す九尾とは対照的に、水姫は自我を失っていた。
水姫が龍の手を振り降ろす!
激しい水飛沫と共に九尾の体は軽々と吹き飛ばされた。それと同時に樹海の木々も薙ぎ倒される。
「どうにかして、まいと、しんやを逃がさないと…」
吹き飛ばされた九尾も負けじと水姫に食らいつく。
化け物どうしの闘いに圧倒されるくろ。
水姫が若干押しているようだが、くろたちが、いつ巻き込まれるかわからない。
先程の水姫の謝罪の理由が分かったくろは、愚痴の一つでも言ってやりたくなっていた。
「グゥゥゥ…、尾を一本削られたのが響いてるわね。先に娘子から干渉力を吸収せねば」
九尾は尾を水姫に絡ませ、地面に抑えつける。その隙に、くろたちを食らおうと飛び込んできた。
もうダメだと諦め、くろは目を閉じた。
「…あれ?」
気が付くと真依と信也は青年に担がれ、九尾の攻撃を回避していた。
くろの霊体も、真依の体に紐付けられている為、引っ張られるように九尾から逃れていた。
「くろ様、お待たせして申し訳ございません」
くろたちを助けた主は、眼鏡をかけた執事服の青年であった。
「あなたは確か、みずきの使用人の…。あれ?あなた眼鏡なんて掛けてたかしら?」
「間壁です。この眼鏡は私の干渉力の一環です」
「ありがとう助かったわ。でも、みずきが、まだ戦っているの」
「大丈夫です、くろ様。後は海斗様が対処して下さいますので、ご安心を」
くろは、再び水姫に視線を戻す。水姫は絡み付いた尻尾から抜け出し、再び九尾に飛び掛かる。
刹那、水姫の頭上に何者かが、飛び乗った。
その衝撃で化け物へ変わり果てた、水姫が地に伏せる。
上に乗っているのは水姫の父親、海斗であった。
「あのお爺さん、いったい、どうやってここまで来たの?」
“覆水盆帰・否”
海斗は右手で、暴れる水姫を押さえ付けた。
徐々に水姫は大人しくなり、龍の体が崩れ、剥がれた部位は水に還っていった。
後に残ったのは、人の形に戻った水姫であった。
水姫は気絶しているのか、地面に倒れたまま起き上がる気配はない。
「しばらく、右手は使えんのう」
海斗の右手はだらりと垂れている。
「危ない!」
くろが叫ぶ。
隙をついて、九尾が海斗へ飛び掛かる。
しかし、次の瞬間には九尾の巨体が一回転して、投げ飛ばされる。
「凄い…」
くろが驚きのあまり、あっけにとられていると、間壁が説明を入れる。
「私と海斗様は内干渉により、自身の体内の水分を操作しています。それにより強靭な肉体を得ているのです」
細身の間壁がどうして、人を二人も抱えて素早く移動できるのか納得ができたくろであった。
そして、二人を抱えたまま、一瞬の内に倒れている水姫を回収し、再び九尾から距離を置いた。
「間壁。子どもたちを頼む」
海斗がそう言うと、間壁は
かしこまりましたと返事をして、真依、信也、水姫を抱え、その場から退避した。