月明の校舎
信也は、急な喉の渇きを覚え目が覚めた。部屋のカーテンを開けると辺りはまだ暗闇に包まれている。
「今、何時だ…?」
信也は部屋の電気を点け、時刻を確認すると、時計の短針は1を指していた。
何か飲もうと起き上がる信也であったが、体はまだ眠ってるようで、足取りがおぼつかない。ふらつきながらも階段を降り、一階の台所へと向かった。
コップを用意するのが面倒で蛇口から出る水道の水を直接、口に流し込む。余程喉が渇いていたのか 、水を飲む度に喉が小気味良い音を立てている。
「変な時間に目が覚めたな」
徐々に意識が覚醒してきた信也は、2度寝する気にはなれず、日課の深夜徘徊もとい、ジョギングをしようと支度をする。
ジャージに着替えた信也は、そのまま夜の世界へと飛び出した。
信也の住んでいるN町は、人口が4000人程度の小さな町だ。町役場の周辺には大型ショッピングモールが建っていて、それなりに賑わっている。しかし、少し郊外にいくと隣の家まで数百メートルは離れているド田舎である。
自宅近辺は街灯も少ない為、夜中に出歩く人は滅多にいない。
今晩は月明かりに照らされ、やけに明るい夜だ。
昼間の出来事もあり、何故かやたらと学校が気になっている信也は、ジョギングがてらに寄ってみることにした。
「真依のやつ大丈夫かな。他の女子も真依と同じような黒い痣が残っていたし、なんもなければいいけど…」
信也の頭の中は未だ混乱していた。改めて考えても昼間の出来事は夢ではないかと思ってしまう。
あれこれ考えているうちに、S高校の前まで到着していた。何気なく校舎を見やると、信也の目に異様な光景が映る。
外は月明かりに照らされ、光源がいらないくらい明るい…にも関わらず学校の校舎だけが、周囲の空間から切り離されているように、黒く霞んでいる。
「なんだ?学校がぼやけて見える。これ…オレの目がおかしいわけじゃないよな」
信也が、何度目を擦っても目の前の景色は変わることはなかった。
「きゃああああああ」
その時、つんざくような悲鳴が校舎から響く。
悲鳴が聴こえるやいなや、信也は校舎の玄関先まで駆けた。
信也は、直感で昼間の出来事と関係があると察した。近付けば近付くほど校舎が黒く歪んで見える。
「この黒い靄、触れて大丈夫か?」
信也なりに警戒はしていたが、それでも目の前の異常事態に対する好奇心が勝り、思いきって手で触れてみた。
黒い靄…その異様な見た目とは裏腹に何の感触も得られない。
「……なんともないな」
信也は躊躇いながらも、靄を突っ切り、校内へと忍び込んだ。
普段は用務員が施錠しているが、校舎の入り口に鍵は掛かってない。
この事を気に止めつつも、信也は悲鳴の主を探す。
…1階の廊下で辺りを見回すが、人影はなく校内は静寂に包まれていた。
外から見ると黒い靄が掛かっていたのだが、校内には何故か月明かりが差し込んでいる。
視界は良好で、懐中電灯なども必要ないくらいだ。
信也の頭の中は、この異常事態の割には冷静だ。夜の校内は昼間の時とは違って、不気味であった。
何事もなければすぐに帰るつもりだった。校内では霊の姿を一向に捉えることができないが、異様な気配だけは感じ取れる。
「1階には何もいない…」
信也は足早に階段へと向かい2階へと昇った。周囲には信也の足音だけが木霊する。
2階廊下の中間あたりまで行くと、パジャマ姿の少女が踞まっていた。
信也は、目の前の何者かを冷静に分析する。悲鳴の主が目の前の少女か、悲鳴の原因となったものなのか、警戒しながらゆっくり少女に近付いていく。
信也が少女に近付くにつれて、すすり泣く声が聴こえてきた。
「怪談のお約束みたいにベタな展開だな」
信也は拍子抜けだなと思いつつも、近寄っていくと少女のパジャマの柄が目に入る。
パジャマにはリーゼントヘアーの烏の絵がプリントされており、独特なセンスをしていた。
信也がこの世に生を受けて、はや17年。様々な霊を見てきたが、パジャマを着た幽霊と対面したのは始めてであった。
声を掛けようと近付くと、少女の幽霊は信也の存在に気が付いた。
その幽霊は突然、信也に向かって抱きついた。
「ジンヤぐ~ん。ごわがっだよ~」
さすがの、幽霊経験豊富な信也でも、この訳のわからない状況に焦りを覚える。
「待て待て、何で幽霊が オレの名前を知ってるんだよ!」
信也はパニックに陥りながらも、抱きつく幽霊を体から引き剥がし、恐る恐る顔を覗き込んだ。
驚くことに、その幽霊は信也のよく知る人物だった。
泣き顔でぐしゃぐしゃになっていたが、それは紛れもなく、天然娘、真依の顔だった。
「真依、何でこんなとこにいるんだ!それに、どうして幽霊になってんだよ」
状況が飲み込めず、信也はついつい詰問口調になる。
「わだじにも分がんないよ~。それに、私は幽霊なんかじゃないよ。ただ家で寝てただけなのに~」
真依はそう言い張るが、体は明らかに霊体だった。
幼い頃から幽霊を見てきた信也が幽霊と人間を見間違うはずがない。
「きゃあああああ!」
再び悲鳴が聞こえた直後、ガラスか陶器が割れるような音も鳴り響いた。
「ここにいるのは真依だけじゃないのか?
この学校で一体何が起きてるんだ!」
「真依、とりあえずここから出るぞ!」
信也はこの異様な事態に何かを察知していた。嫌な予感がする…このままここにいてはいけないと本能がそう告げている。
泣き崩れている真依の手を引き、そのまま走り出す。
しばらく走り続ける二人であったが…。
「おかしい! どうしてだ!さっきからいくら走っても階段にたどり着けない」
信也たちが、どれだけ進もうが前方は暗闇に包まれており、端に行き当たることはなかった。
ついに2人の息が切れその場に倒れ込む。
「ぜぇ、ぜぇ」
休んでいる内に呼吸が整い、徐々に平静を取り戻していく。
しかし、一息ついたのも、つかの間。信也はある違和感に気付く。それは…明らかに自分たちの呼吸以外の音が聞こえてくるのだ。
どこが聞き覚えのある何かを引きずる音…信也はゆっくりと音のする方に目をやった。そして、驚きの光景に思わず声を失う。
そこにいたのは昼間に教室内に侵入してきた
黒髪の少女の霊だった。
長く伸びた黒髪が壁や天井まで張り巡らされており、明らかな敵意を持って信也たちに迫ってきている。
真依も黒髪の霊の存在に気付いたようで、恐怖のあまり絶句して廊下にへたりこんでいる。
よく見ると…黒髪の霊は女子生徒らしき人影を、蛇のようにうねっている長い黒髪で捕えていた。
信也は考える前に、言葉を発していた。
「おいお前!その子をどうするつもりだ」
この問いかけに対して、黒髪の霊は言葉を返す代わりに卑しい笑みを浮かべるだけであった。
「この野郎!」
信也は怒りを露にして、黒髪の霊に突進する。
同時に黒髪の悪霊は、物凄い勢いで髪を伸ばしてきた。
「うお!」
信也は反射的に目を瞑り、咄嗟に腕を交差させ自身の顔を覆う。
「…あれっ?なんともない」
信也が恐る恐る目を開くと、自身の体からうっすらと白い霧がでており、それに遮られ体に巻き付いた髪との間に数cmほどの空間が空いていた。
髪は信也の体に届いておらず、触れようとしたそばから溶けるように消え去さっていく。
それは昼間の出来事と重なり、信也の脳裏に、黒髪の少女の髪の毛が自分には効かないのでは…と感覚的に理解していた。
これには黒髪の霊の顔も、心なしか驚きの表情に変わっている。
「よく分からんがなんともないな」
信也はその隙に黒髪の霊へと間合いを詰め、髪に埋もれた女子生徒を引き剥がそうとした。
信也が悪霊から伸びる黒髪の中に手を突っ込むと、髪が触れようとしたそばから消え去っていく。
そのまま捕らえられた女子生徒を掴み、真依が座り込んでいる位置まで跳び退いた。
「おい!大丈夫か」
信也が女子生徒に声を掛けるが、彼女は意識を失っていた。
そのまま肩を揺さぶり続けると…女子生徒は目を覚まし、今にも消え入りそうな声で言葉を発した。
「…生司馬くん?」
女子生徒の意識は朦朧としており、そう呟くと再び意識を失った。
そこで、信也はあることに気付く。
捕らえられていた女子生徒もまた、真依と同様に霊体だったのだ。
「もしかして、要ちゃん?」
腰を抜かしていた真依が、四つん這いで助けた女子生徒の顔を覗きこんでいる。
「良かった。生きてるのね 」
真依は安堵の表情を浮かべる。
「知り合いか?この子も霊体なんだが…」
「ヴォォォォォォ」
信也の言葉が遮られ怒号が廊下に響き渡る。
黒髪の霊は憤慨しており、
先程とは比べものにならない量の髪で、廊下を埋めつくしていた。
信也がそれに気付いたと同時に、黒髪の霊が津波の如く大量の髪を伸ばしてきた。
ヤバいと思った時には既に遅く、信也に出来ることといえば目を瞑ることぐらいであった。
すると…何か弾けるような音が廊下に鳴り響く。
その音がしてからどれくらいの時間がたっだろう。実際はほんの数秒だったかもしれないが、信也にはお湯を入れたカップ麺を待つぐらい長い時間に感じられた。
それでも髪が信也の元に押し寄せることはなかった。
痺れを切らしゆっくり瞼を開くと、目の前には水の幕が張られており、大量の髪を塞き止めていた。
「間一髪だったな」
聞き慣れない声に信也は記憶を辿るが、それでも聞き慣れないという表現を訂正するに至らなかった。
答えを知るべく、信也は背後を振り向くと…どこか見覚えのある白髪の少年が立っていた。
「お前は…」
「郡山くん」
信也が喋るのと同時に真依が被せて名前を呼んだ。
「真依、よく転校生の名前なんか覚えていたな」
「逆にシンヤくんは何で覚えてないの?朝礼で、ちゃんと自己紹介してたでしょ」
「それはだな…」
名前が難しくて頭に入ってこなかったとは、さすがに言えない信也であった。
「それより転校生、何でこんなとこにいるんだよ」
信也は話を逸らすように水姫を問い詰める。
「それはこっちの台詞だバカ。なんで生身の人間がここにいる。結界をどうやってすり抜けた? 」
「人間なんだから生身が普通だろ。それに、結界ってなんだよ!」
訳のわからない問いかけに信也の苛立ちが募る。
「ヴォォォォォォ!」
自分だけ蚊帳の外にされ激怒したのか、黒髪の悪霊は再び怒号をあげた。
「そうだな。こんなことしている場合じゃなかった」
水姫はそう言うと指を鳴らす。
そこで、さっきの破裂音は指パッチンの音かと信也は回答を得る。
すると、廊下のタイルの切れ目から水泡が噴き出てきた。
水泡は宙に浮き、凝固していく。
“蒼弾・飛沫”
水姫は中二病全開の技名を叫び、そのまま狙いを定めるように指を向けると、
水の弾が一斉に黒髪の悪霊を目掛け飛んでいく。
「グギァァァ」
水の弾丸が黒髪の霊を貫く。
黒髪の霊は一瞬怯んだが、すぐに髪で傷口を塞ぎ元通りとなる。
「やはり器からの供給を絶った方が早いか…おい、信也とかいったな。俺が力の元を絶ってくるから少し時間を稼げ」
水姫は命令口調で信也に叫ぶ。
この状況で、一般人に丸投げするのはいかがなものかと思いながらも、信也は返答する。
「うるせえ、お前の指図は受けねえ」
そう言いながらも、信也は黒髪の霊に対して臨戦態勢をとる。
「1分だけでいい。無理なら逃げろ」
「さっさと行けよ。1分だろうが1時間だろうが稼いでやる。むしろ倒してやろうじゃねえか!」
信也はアドレナリンが出ているせいか闘志を燃やし意気込んでいる。
現状があまりにも現実離れしていて、信也は内心、夢じゃないかとも思い始めていた。
それに…信也は、もともと恐怖に対して鈍感であった。幽霊に対する恐れは一切感じていない。
転校生は再び指を鳴らし、水の弾で窓ガラスを割る。そのまま颯爽と窓枠をくぐり、校庭へと飛び出していった。
「真依!お前はその要とかいう子を連れて逃げろ」
「無理だよ、要ちゃん気を失っているみたいだし、私じゃ抱えれないよ。それに腰が抜けちゃって…。テヘ」
真依はこんな状況にも関わらず、舌を出しておどけてみせる。
極限状態での真依の反応に少しイラッとした信也であったが、霊体にも抜ける腰があったのかという疑問も相まって、そんな事を考えている場合じゃないとかぶりを振る。
再び黒髪の霊が髪を伸ばしてきた。
先程よりも更に毛量が多く、押し寄せた黒髪の波に信也たちは呑まれた。
「くそ!なんて密度だ」
それでも信也の体に髪の波は届いていない。だが髪の密度が高すぎて体が思うように動かない。
信也は周囲の髪から何となくだが、深い哀しみを感じた。この黒髪の霊はどうしてこれほどの哀しみを抱えているんだ?
こんな状況下で信也の頭の中に些末な疑問が浮かぶ。
しかし、そんな興味を払拭するように真依の悶え苦しむ声えが聞こえた。
真依と要の霊体も髪に呑まれている。
信也の中で焦りが募る。
「クソッ、一体どうすれば…」
そんな時、校庭から地響きがした。直後に黒髪の霊が怯み髪の勢いが衰えた。
信也は今なら動けると判断して、その隙を逃さず黒髪の霊の懐へと飛び込んだ。
「オラっ!」
そのまま右ストレートを黒髪の霊の頬に見舞う。
黒髪の霊の深い哀しみに興味を持ったせいか、
拳が霊の頬に触れた瞬間、信也の中に、おぼろげに不思議な映像が流れ込んできた。
突然、信也の視界がホワイトアウトする。
…視界が戻ると、そこには可愛らしい黒髪の少女が立っていた。
髪はオカッパで、格好はどこか古めかしく昭和を感じさせる風貌だ。
…映像が切り替わる。
今度は大きな松の木が見えてきた。
信也は校庭に植わっている松の木と同じだとすぐに理解した。
その根下で少女と少女の両親らしき人たちが、他愛ない会話を繰り広げながら弁当を食べている。
…再び映像が切り替わる。
場面は一転して視界が真っ赤に染まった。
辺りを見渡すと一面は火の海に囲まれている。
そんな中でもあの松の木は業火などものともせずに堂々と植わっている。 そして、その松の木の根本には衣服がボロボロに焼けただれた、少女が寄りかかっている。
…少女はそのまま動かなくなった。
これは黒髪の少女の霊の記憶。
…再び信也の視界が白く染まる。
気が付くと信也は松の木の根本に立っていた。今度は少女の視点になっている。
突然、信也の前に顔が隠れるほど深く帽子を被った黒服の男が現れた。
「君を解放しよう」
訳のわからない言葉を放ち、黒服の男は信也の胸を手で貫いた。
するとどうしようもない哀しみと怒りが込み上げてくる。
抑えられない感情に呑み込まれ、信也 の意識は遠退いていった。