黒髪
人は3次元の存在までしか知覚することができない。
であれば、人間が知覚することが出来ない魑魅魍魎はより高位次元の存在なのではないだろうか
…ただ、人智が及ばない魑魅魍魎を知覚できる人間も少数だが存在する。脆弱な人類にも高位次元にアクセスできる力が備わっているということだ。
理をねじ曲げ高位次元に抗う力を干渉力と呼ぶ。
これは高位次元の存在に抗う人々の物語である。
7月上旬。梅雨も過ぎ去り、少しずつ暑さが顔を覗かせるようになった。
高生司馬信也は、幼少期から幽霊が見えること以外は特筆すべき事が無い高校生である。
昨晩、寝付けずに早朝に私立S高等学校へ登校していた信也は、閑散とした校内で机の上に突っ伏していた。
クラスメイトが昨夜放送されたドラマ最終回の話で盛り上がっている中、それでも起きる気になれない信也の耳に、気の抜けた穏やかな声が届く。
「おはようシンヤくん、昨晩も深夜徘徊してたの?」
信也が寝ぼけ眼で顔を上げると、たれ目の少女が横に立っていた。
「なんだ竹取か、深夜徘徊とは人聞きが悪い。ただの日課のランニングだよ」
「夜のランニングもりっぱな深夜徘徊もだよ」
おっとりとした口調で話すこの少女の名は竹取 真依。信也に《《話し掛けれる》》数少ないクラスメイトの1人だ。
真依と信也は、今月の席替えでたまたま隣になり、たまたま話すようになった。それ以上それ以下でもない関係だ。
信也は人との関係を築くのがあまり得意ではなかった。だが、決してイジメにあっていたわけではない。ただ、ただ目立たないだけである。
クラスメイトのほとんどは、信也がそこに存在しないのではないか、というぐらい彼に対して無関心なのだ。
信也と真依がいつものように雑談していると、開け放たれた窓から初夏の涼風か流れ込む。風に揺られ、真依の長い髪がなびく。ウェーブかがった栗色の髪から漂う、フローラルの香りが信也の鼻を撫でた。
フローラルの香りがよく分かっていない信也であったが、それ以上によく分からない真依が小刻みに震えていた。
「シンヤくんが深夜徘徊…。深夜…。しんや…。プッ、クスクス」
「相変わらずだな…」
真依の天然ぶりに呆れ、信也は言葉が続かなかった。
真依は少しイタイ子だ。誰にでも愛嬌を振り撒き、一見、クラスでも人気があるように思えるが、空気が読めないせいで信也とは、また違った意味でクラスから浮いていた。
孤立している者同士、仲良くなったのは必然かもしれない。
2人が他愛のない会話を繰り広げていると朝の予鈴が鳴り響く。
直後、長い年月により劣化した教室の扉が、ギシギシと木が軋む独特の不快な音を立てながら開け放たれた。
教室に入ってきたのはジャージ姿の中年男性、担任の藁科である。
藁科は体格も、顔も声も大きい霊長類で常にジャージ姿だ。絵に描いたような熱血教師である。
ただ、一点、注意事項がある。それは、体育教師ではなく家庭科担当ということだ。
がっしりとした体格に反して、女子力が高いのだが、ギャップ萌えという言葉は藁科には適用されなかったようで、女子生徒からの評判は芳しくない。
藁科は隣のクラスまで聞こえる程の 大声でいつもの説教が始まった。
「おい、お前らいつまでも騒いでないで、早く席に着け。チャイム鳴ってとるぞ。ルールを守れんやつは大人になって、必ず苦労するからな。 そもそも何でルールが必要なのかというとだなetc…」
どうして教師という人種は長々と説教をするのが好きなのだろうか。信也はそんな疑問を抱きながらも、ふとあることに気がついた。
藁科の迫力に呑まれ見落としていたが、開け放たれた教室の扉の外に白髪の少年が立っていることに気付く。
目つきは鋭く輪郭は細い。美形といっても差し支えない顔立ちだ。そして、白髪の少年の眉間には深いシワが寄せられていた。
藁科が教室前の少年を放置したまま説教を続けていると、白髪の少年が咳払いをした。
それに気付いた藁科は、ようやく少年の紹介を始めた。
「おう、すまんすまん。今日は皆に新しい仲間を紹介する。まずは自己紹介をしてくれ」
「…郡山 水姫」
転校生は険しい表情で、端的に名前だけを告げた。
名前も、性格も難しそうな奴が転校してきたと!心の中で信也は呟く。
水姫の自己紹介で、藁科怒りの沸点が再び突破する。
「おい自己紹介はそれだけか、名前を言うだけが自己紹介じゃないぞ。趣味や、挨拶をすることによって、今後のより良い人間関係をだなetc…」
「お話を遮るようで申し訳ありませんが、そろそろ1限目の授業が始まりますよ」
さすがに他のクラスメイトもうんざりしており、それを察した学級委員長が藁科のご高説を遮った。
「もうこんな時間か。今日はこのくらいにしておいてやる。おっと、そう言えば一つお前らに伝達事項がある。最近、ここいらで黒服の不審者が目撃されている」
「夜間の外出や、人気の無いところに行くのは控えて、放課後は真っ直ぐ帰宅するように。部活動も休止するそうだ。実害はでていないが、何かあってからでは遅いからな」
不審者の話でクラス内は少しざわついたが、それをかき消すように藁科は水姫に声を掛けた。
「郡山、とりあえず後ろの空いてる席に座ってくれ」
特に返事をすることもなく水姫は隅っこの席へと向かった。
転校生が信也の目の前に差し掛かった時、信也と水姫の目が合う。
「あっ…その…」
咄嗟に何かを話そうと思った信也であったが、上手く言葉がでずに数瞬、気まずい空気が流れる。
信也の言葉に対して一瞬止まった水姫であったが、特に反応する素振りもなくそのまま自分の席へと向かった。
日は高く登り、昼休みに突入する。
あまりの眠気に、信也の頭にはほんど授業の内容が入ってこなかった。ただ…真面目に授業を受たからといって、いつも内容は右から左に抜けている。
いつも通りカップ麺を携え屋上へと向かう。学校の売店には電気ポットが置いてあり、カップ麺も売っている。育ち盛りの信也の力の源だ。
このような食生活であるにも関わらず、例年の健康診断に引っ掛からないのは若さ故か。
屋上で景色を眺めながら、カップ麺を食べるのが信也の深夜徘徊以外のもう一つの日課である。
屋上への扉には“立ち入り禁止”の札が掛かっているが、そんなものは気にしない信也であった。 一応、補足しておくが、決して“立ち入り禁止”の意味が理解出来なかったからではない。
錆びついた屋上の重たい扉が独特な金属音をたてながら開く。屋上に出ると空から伸びる陽射しが信也の視界を遮る。
よくやく視界が定まり屋上のフェンス越しから校庭を見下ろすと、隅に植わっている一本の大きな松の木に目がいく。
松の木は戦前から植わっているとのことで、曰く付きだ。松の周辺は昼間だというのに薄暗く鬱蒼としている。生徒はおろか教師ですら近づこうとはしない。
松の木の根元には黒髪の少女の霊が一日中、座り込んでいる。特に実害はなく“呪いの木”として、生徒たちの間で七不思議の一つに認定されている程度のものだ。
補足として信也が女性に飢えていて、幻覚が見えているというわけではない。信也は物心ついた頃から幽霊が見えており、今では対話することも可能だ。
以前は人間と幽霊の区別がつかず話し掛けることもあったが、今では生きてる人間と幽霊の区別はできるようになった。
信也が何気なく松の木を見ていると、普段いるはずの黒髪の少女の霊がいないことに気付く。
不思議に思い、首を傾げていると白髪の生徒が松の木に近づくのが見える。
その足取りは、迷って辿り着いたというよりは、明らかに松の木を目指し向かっている。
「あれは…今日来た転校生だよな。何であんなとこにいるんだ?」
「 あとで適当な噂でも流して近寄らないように忠告してやるか。転校早々、幽霊に憑かれるのも可哀想だろうし」
信也は水姫に、どう説明しようか考えながらも残りのカップ麺を一気にすすった。
昼休みを終え自分のクラスへ向かう途中、信也の気分は少し憂鬱になっていた。
その原因は言うまでもなく、午後一番にある藁科の家庭科の授業だ。 クラスに戻ると藁科が教室に入って来た。
直後、信也はある違和感に気付く。
普段なら藁科の外見など、直視することはほとんどないが、背後に潜む黒い人影に気付き注視してしまう。
よく目を凝らすとその人影は、昭和を感じさせる古めかしい格好の華奢な少女であった。
信也はその姿を見てすぐに松の木の少女の霊だと気付く。
どうして教室に…藁科について来ているのか疑問に感じた信也であったが、どれだけ考えても納得のいく答えに辿り着くことはなかった。
黒髪の少女の霊は異様な雰囲気を醸し出しており、すり足で教室内を彷徨きだした。
黒髪の霊が歩く度に、長い黒髪が地面に引きずられ不快な音がなる。
信也は異常な事態についていけず、少女の霊をついつい目で追ってしまう。
よほど信也の挙動が不自然だったのか藁科が茶化してきた。
「おい信也、目を丸くしてどうした?
俺の顔があまりにも男前過ぎてビックリしたか」
いつもなら藁科の冗談にツッコミをいれる信也であるが、今はそんな余裕もなく、目線は黒髪の霊へと釘付けになっている。
唯一、できたことといえば「いや、何でもないっス」っと反応することだけであった。
「…おい信也、本当に大丈夫か?何だか顔色も悪いぞ」
信也は藁科の声掛けにも反応せず、そのまま黒髪の霊から目を離せずにいた。
他のクラスメイトには視えてないようで、黒髪の霊が目の前を通っても、誰一人として見向きもしない。
徘徊を続けていた黒髪の霊が、ふと1人の女子生徒の前で立ち止まる。
すると突然、黒い髪が伸び女子生徒の手首に巻き付いた。そして、巻き付いた黒髪がみるみるインクのように染み込んでいく。
黒髪が女子生徒の手からほどけ落ちると、手首には腕輪のような黒い痣だけが残されていた。
その女子生徒は特に気にする素振りもなく、そのまま授業を受け続けている。
黒髪の霊は再び生徒を品定めをするように、クラス中を見て回る。
少女の霊はついに信也の隣の真依の席まで来ていた。そして、他の女子生徒と同様に、黒髪を真依の手首に巻き付ける 。
「止めろ!」
あまりの出来事にパニックに陥った信也が、咄嗟に素手で真依の腕に巻き付いた髪の毛を払い退けた。
すると…少女の霊は一瞬、信也を睨み煙のように消えていった。
「おい信也どうした!お前本当に大丈夫か?」
藁科が普段は見せないような表情で、心配そうに信也を見ている。
「すんません。何でもないっス。ちょっと寝ぼけてました…」
そう言葉を吐き出すので精一杯だった。
「そうか…少し疲れているかもしれんな。夜更かしはせずに、今晩は早めに寝なさい」
藁科が珍しく優しい声色で信也を気遣う。それだけ、信也の様子が変だったのかもしれない。
…それから午後の授業も終了し終礼が終わる。
しかし、信也は自分の席に座ったまま呆けていた。
「シンヤくんどうしたの?もうみんな帰ったよ」
現実から意識が離れている信也の制服の袖を真依が引っ張っていた。
「竹取、腕は何ともないのか?」
信也は彼女の腕を掴んで、まじまじと観察する。
真依の腕には、黒髪の幽霊に付けられた黒い痣が腕輪のように浮かび上がっていた。
「えっ…どうしたの急に?何ともないよ」
真依は信也の突然の行動に困惑しながらも、心配させまいと鼻をならしながらガッツポーズをしてみせた。
「シンヤくんこそ大丈夫?今日はいつも以上に変だったよ」
「いつも以上って…。普段から変なのかよ」
「うん!シンヤくんは変なのが普通だからね」
「変なのが普通ってなんだよ。哲学か?」
「哲学って言葉が哲学だよね」
信也は真依の発言により、言語の深みへと誘われていく。
信也はそんな思考を切り替えるべく、強引に話題を変えた。
「それよりもうこんな時間か…。家も近所だし、たまには一緒に帰るか?」
昼間の出来事もあり、信也は無性に真依のことが心配になっていた。
「やっぱり、今日のシンヤくんは変だよ」
真依は自分の目尻を両手で出る限り吊り上げて、いいぶかしげに信也を見上げる
「そうか?24時間営業で変な竹取だけには言われたくないな」
「私は8時間までしか働きません。時間外労働はしない主義だからね」
よく分からない方向に話が脱線してきている。真依は相変わらず、予想の斜め上を行く返しをしてくると信也はつくづく思った。
そんなやり取りをしながらも信也たちは家路に就く。
外は夕焼けに照らされていた。周囲には誰もおらずに信也はどことなく物寂しさを感じてしまう。
そんな空気に耐えきれず適当な話題を切り出した。
「そういえば、竹取って初対面からオレのこと名前で呼んでたよな。他の奴はみんな苗字で呼んでるのに何でだ?」
「それはね。ええっと…」
真依は急に照れ始め、頬を赤らめ言い澱む。
そんな真依を見て、信也の鼓動が高鳴なる。
普段は天然過ぎて女性として意識もしてなかったが、急に女の子らしい仕草をしてみせたので、不覚にも胸キュンしてしまったようだ。
しかし、そんな信也の気持ちとは裏腹に、雰囲気をぶち壊すような返答が真依から返ってきた。
「それはね…昔飼っていたゲンゴロウの名前がシンヤくんだったの。だからね、ついつい名前で呼んでしまって…」
信也は数秒前の感情を改め、真依にときめいた事を恥じる。
名前で呼んでいた理由がゲンゴロウだったとは思いもよらない信也であった。おおよそ年頃の女子が飼うようなペットではない。
「もしかして…隣の席になって、気さくに話し掛けてきたのは…」
「そうだよ。シンヤくんの名前を知って、なんだか親近感が湧いちゃって」
「やっぱり…、それならオレも竹取じゃなく真依って呼ぶからな。竹取だと、長いから呼ぶのが面倒臭い」
「えっ…別にいいけど… 。やっぱり、今日のシンヤくんは変だね」
意味不明な会話が続きながらも、気が付くと信也の家の前まで到着していた。
背伸びして手を振る真依を背に信也も後ろ手に軽く手を振り、自宅の玄関を開いた。
信也は部屋に入ると晩御飯も食べずに、そのまま自身のベッドへダイブした。
昼間の強烈な体験と睡眠不足も相まって深い眠りに就いた。