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4.並行世界

「それは異世界と言うよりも並行世界ですね。並行世界は分かりますか?」

「分かります」砂山医師の問いに、謙斗は少し腹をたてながら答える。理系の奴らはすぐに文系を見下してくる。

 しかしそんなむかつく相手に頼らざるを得ないのが今の状況だ。

 今朝目覚めると、サイドテーブルにメモと千円札が二枚置かれていた。メモには神経質そうな角ばった文字で次のように書かれていた。


 仕事に行ってきます。

  月乃はまだ寝ているので起こさないように。

                    砂山


 昨夜、月乃は突然倒れたが大丈夫だったのだろうか?謙斗に看病も頼まずに出かけたということは、大丈夫と言うことなのだろう。

 メモの横に置いてあるスマホを手に取る。こちらに来てからスマホを操作するのは初めてだった。砂山医師が言っていた通り、着信の通知は一件もない。しかしすぐに、アンテナが一本も立っていないことに気が付いた。

「そりゃ、着信しないでしょ」

 そう呟くが、この辺りは普段なら余裕で三本立つ。念のために窓際に行ってみたが、やはりアンテナは立たなかった。無線LANも試してみたが、こちらも無反応だった。

「……無線の規格が違うのか」

 簡単に考えられる可能性はそんなものだ。原因を追究したかったが、電池の残量が少ないことに気が付いて止めておいた。いつ、通じるようになるか分からない。後で充電器を借りて充電できるかどうか試してみようと思いながらサイドテーブルに戻した。

 次に千円札を一枚取り、自分の財布の中からも一枚抜き出して見比べてみる。全く同じに見えるが、機械にかけたらエラーが発生し、偽札だと疑われるかもしれない。砂山医師もそう考えてお金を置いて行ってくれたのだろう。

 しかし二千円とはケチだな。医者なんだから一万円ぐらい置いて行ってくれれば良いのに。

 そう思いながら病院着を脱ぐ。ベッドの横に置かれたプラスチック製のかごの中に、倒れた時に来ていた服が洗濯され、綺麗にたたまれて入っている。下着もだ。そう言えば気を失っている自分を着替えさせてくれたのは誰なのだろうか?砂山医師なのか?まさか月乃さんなのか?

 謙斗は頭を振って、もやもやと沸き上がって来た妄想を振り払った。着替えると、心が少しすっきりした気がした。体調もすっかり元に戻っている。

 部屋を出る。三階へと続く薄暗い階段を見上げる。月乃はまだ寝ているのだろうか?砂山医師にわざわざ『起こさないように』と念を押されてしまったので、様子を見に行くことは憚られた。

 階段を降り、古臭いベンチが並ぶ待合室を抜け、ガラス戸を開けて外へ出る。途端に厳しい暑さが襲ってきた。すでに日は高く、眩しいぐらいの明るさだ。先ほど見たスマホの時刻が合っているなら、今は十時過ぎのはずだ。

 サマータイム制の導入の理由としてマラソンの開始時間が問題視されていたことを思い出す。

「確かに、この暑さでマラソンしたら死ぬな」と思う。

 うんざりとした顔で道を行く人々の中に、見知った顔を見つけた。桜田先輩だ。先輩にしては遅い出勤だな、と思いながら、つい声をかけてしまった。

「おはようございます」

 桜田先輩は肩をびくっと震わせ、目を見開いた。明らかに驚き、怯えている。

 明らかに、見知らぬ人に声をかけられたときのリアクションだ。

「お、おはようございます」

 先輩は一応挨拶を返してくれたが、視線を逸らしながら足早で会社に向かっていった。

 やはりこの世界の戸熊テクノには自分はいないのだと謙斗は実感した。

 近所の行きつけの喫茶店に行ってモーニングを注文した。顔馴染みの店員はやはり謙斗のことを知らなかったが、トーストとコーヒーはいつも通りの味がした。美味しくなっていれば良かったのに。新聞を賑わせている記事は同じような気がしたが、最近は忙しくて新聞もネットニュースも読んでいなかったので、どんなニュースが流行っているのか知らない。

 ふと時計を見ると十時過ぎだったので驚いた。この店に来てからすでに一時間以上は経過しているはずだった。そこで、夏時間なのだと気が付いた。スマホは元いた時間の、夏時間ではない時間を刻み続けているのだ。

 店を出て、日陰を探しながら町を歩いた。変わっている場所もあれば変わっていない場所もあった。多くは変わっていないように思ったが、変わったのどうかかが分からないところも多かった。

 ある日、建物が取り壊されて空き家になっていても、そこにどんな建物があったのかなかなか思い出せない。そんな感じだ。自分が普段、いかに漫然と生きていたのかを思い知らされる。そもそも、会社のすぐ近くにある砂山医院すらろくに覚えていなかったのだ。

 そしてもう一つ分かったことがある。

 サマータイムになったからって、特に何も変わらないってことだ。

 この世界の人たちはサマータイムに慣れていることもあるだろうが、何も変わらず、普段と同じように生活しているように見えた。時間が一時間巻き戻ったところで、人の営みはそれほど変わらないのだ。

 帰ろう、と思った。砂山医院に。

 病室に入ると月乃が背中を向けて立っていた。

 ベージュのニットのワンピースの背中に長くて綺麗な黒髪がかかっている。

「ただいま……、帰りました」

 謙斗が声をかけると、月乃はゆっくりと振り返った。胸の前で手を組んでいる。

「帰ってきてくれたんですね」

「はい……」

「もう帰って来られないかと思いました」

「そんなこと……」そう言いかけて謙斗は考える。

 自分が帰るべき場所は本当にここなのか?

 元の世界に帰ることはできないのか?

 元の世界では会社の同僚、友達、そして誰よりも母親が心配しているはずだ。そこに帰らなくても良いのか?

 迷っている間に月乃がゆっくりと近づいてきた。

「もう、どこにも行かないでくださいね」

 そう言って頭を軽く謙斗の胸に押し当てた。

 言葉の意味は何なのか?

 そしてこの状況はなんなのか?

 謙斗にはさっぱり分からなかった。

 抱きしめるべきだろうか?しかし人妻を抱きしめるのは倫理上問題がある。もしかしてまた倒れたのではないだろうか?倒れたのなら助けなければならない。仕方がない。もし人工呼吸が必要になったとしてもそれは仕方がないことなのだ。いやいや人工呼吸とかないって!

 謙斗が猛烈な勢いでそんなことを考えていると、月乃がすっと離れて行った。

 失敗した!そう思う謙斗の背後で足音がした。

「ただいま」

「お帰りなさい」

 月乃は砂山医師に優しく微笑んだ。

「出かけていたようですね。どうでした?」

 そう訊いてきた砂山医師に、謙斗が自分は異世界転生をしたようだとの仮説を告げると、異世界ではなく並行世界だろうと返された。

「並行世界って何ですか?」月乃が訊く。

「もしもの世界。または分岐した世界です」

 砂山医師が説明するが月乃は理解できていない。

「例えば、月乃は毎朝パンにマーマレードを塗るだろう。しかしもし、イチゴジャムを塗った場合……」

「イチゴジャムを塗ったりはしません」

「だから、もし塗った場合の話だ」

「絶対にマーマレードです」

「分かった。では、月乃はパンを食べる前に必ず牛乳を一口飲むだろう。しかしある日、牛乳を飲むのを忘れた日があったとする」

「絶対に忘れません」

 謙斗は月乃の意外に頑固な一面に吹き出しそうになりながらも、砂山医師が新しい例を考えている間に説明を始める。

「昔、日本はサマータイム制を始めました。その時まではこの世界も、僕の世界も同じでした。でも僕の世界はその数年後にサマータイム制を止めることを選びました。その時点で、サマータイム制を続けることを選んだこの世界から分岐したんです。どちらか一方の世界が消えるわけではなくて、どちらの世界も同じように、選択に従って過ごして来たんです。同じような世界が同じように進んでいくことから、並行世界って言うんです。この分岐は至る所にあります。例えば二年前に僕の世界はサマータイム制を復活させることを選択しましたが、復活を選ばなかった世界もあるはずです。そこで新しい分岐、新しい並行世界が始まっているんです」

「でも、そんなことしたら無数に世界が増えるのではないでしょうか?」

「そうです。たくさんの世界が並行して進んでいるんです。この世界は僕がいた世界とかなり似ていますけど、全然違う世界になっている可能性もあります」

「この世界に君はいないけれどね」

 調子に乗って説明していると砂山医師が意地悪そうに口を挟んでくる。

「そんなひどいことを言わないでください」

「いや。しかし考えようによっては、君がいないからこそ、この世界に転生してきたのかもしれない」

 月乃に咎められると、砂山医師はすぐに対案を出して来た。

「……それなら良いですけど」

 月乃はしぶしぶ納得する。

「それで、外に出てみて、君がここに来た原因や、帰る方法の手掛かりは見つかりましたか?」

「いえ。……何もありませんでした」

「そうですか。この部屋は空いていますから自由に使ってもらって構いません。それでは」

 部屋から出て行こうとする砂山医師を月乃が呼び止めた。

「あの。今日の食事は謙斗さんと一緒にしませんか?」

「良いアイデアですね」

 砂山医師はにこやかに応じたが、内心苦々しく思っているのを謙斗は感じた。

 その証拠に、三階にある自宅には入れてもらえなかった。隣の空き部屋に置いてあったテーブルと椅子を運んできて、謙斗の病室で食事を取った。

 メニューは回鍋肉だった。時々飛んでくる砂山医師の皮肉が良いスパイスになるほど、とても美味しくて、楽しい食事だった。


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