3.君は誰だ?
強く揺さぶられて目が覚めた。
会社の皆がこちらを見て笑っている。
「瀬野君も起きたことだしミーティングを終わります。桜田君、必要事項を伝えておいてね」
「分かりましたー」
皆がガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、会議室から出ていく。
「豪快に突っ伏していたね」
桜田先輩が屈託なく笑う。
「すみません」
「瀬野君が居眠りなんて珍しいなって寝かせておいたんだ。ボランティア講習会はそんなにきついの?」
「ボランティア講習会?ってなんのですか?」
「なんのって、オリンピックに決まってるでしょ。もしかして本当は講習会に行かなくてさぼってたの?」
「さぼっていないって言うか、ボランティアには行きたかったけど、サマータイムへの対応でそれどころではなくなって……」
「サマータイム?」
桜田先輩の訝し気な表情で思い出した。オリンピックに合わせてサマータイム制の導入を訴える者がいたが、非現実的だとすぐに実施しないことが決まったのだ。会社が認めてくれたこともあってオリンピックのボランティアに参加することができるようになり、昨日はその講習会があったのだ。
「講習会も大変でしたけど、その後の懇親会で盛り上がりすぎちゃって」
講習会は何度か回数を重ねており、顔見知りも増えていた。
「オリンピック前に盛り上がり過ぎたらダメでしょ」
「いやいや、こうやって徐々に盛り上げていくのが大事なんです」
「盛り上がるのは良いけど、会社にいる間は会社の仕事をしっかりやってくれよ」
「はい。勿論です」
席に戻るとディスプレイ付きのヘッドセットを被り、ログインする。
「謙斗さん、お帰りなさい」
目の前に月乃が現れる。白いエナメル地に蛍光ピンクで模様が入ったレースクイーン風のワンピースを着ている。
「ただいま」
「今日のミッションは何にしますか?」
空中に選択アイコンが展開される。
「お勧めはなに?」
「時空人との戦闘がボーナスミッションです」
「じゃあそれで。装備はブルーツーで」
「了解しました。それでは頑張ってください」
「了解」
指を二本立てて挨拶すると、アーマースーツを着た謙斗が飛翔する。
視界の片隅に浮いたウィンドウの中の月乃がミッションの内容を説明してくれる。
『時間を操れる時空人が、過去に戻り、サマータイム制度を成立させようとしています。時空人を撃退して、サマータイム制の成立を阻止してください』
「それは重要なミッションだ!」絶対に残業が増える。
夜のビル街を飛び回りながら、前方から襲ってくる人型を打ち落とす。順調に数を減らしていると通信が入った。
『時空人が前方のビルに巨大な機械を設置しようとしています。機械を撃破してください』
「了解」
邪魔をする人型を打ち払い、ビルの中に突入する。その途端に身体が硬直した。地面に落下して衝撃が走る。
「なん……だ?」
声を発するのもうまくいかない。
『時空人のトラップです。気を…付け…てください』
ナビゲーション音声が雑音交じりになる。
「月乃。くそ、なんでこんな……」
胸を強い衝撃が貫き……、謙斗は目を覚ました。
心配そうに覗きこんできている月乃の顔が目前にあった。
「大丈夫ですか?ひどくうなされていましたけど」
「……え、ええ」
ようやく状況を把握する。夢を見ていたのだ。
「大丈夫です。あの、何か言っていました?」
夢の中とはいえ、会って間もない女性にあんな格好をさせていたのは気恥ずかしかった。名前を呼び捨てにしてしまっていたが、聞かれてと考えたら恥ずかしくて仕方がない。
「いえ、うめき声だけでした」
ほっと胸を撫でおろしていると、額にタオルが押し当てられた。反射的に避けようとしてしまって怒られる。
「じっとしていてください。ちゃんと拭かないと風邪をひきます」
「すみません」
そのまま上半身を裸にされ、丁寧に汗を拭いてもらった。運動不足のやせ細った身体が恥ずかしかった。点滴はいつの間にか外されていた。厚手のカーテンが閉められているため外の様子は分からないが、夜になっているのだろう。
「お腹は空いていませんか?」
そう訊かれた途端に腹が盛大に鳴った。
「すごい減っているみたいです」
顔を赤くしながら腹をさする。
「元気になった証拠です。お粥ができています」
月乃は微笑むと、サイドテーブルの上の保温カバーを外し、土鍋の蓋を開けた。柔らかい湯気が立ち上った。食べ物の匂いに、謙斗の腹がまた鳴った。
「待ってください」
月乃は匙で粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ますと、謙斗の口元に運んできた。
「はい、どうぞ」
「じ、自分で食べられます」
謙斗は赤面しながら断ったが、月乃は意外と押しが強かった。
「ダメです。ほら、口を開けてください」
そう言われれば逆らうことはできない。観念して大きく口を開ける。
「あーん」
ゆっくりと差し入れられた匙を、はむっと加える。
温かいものが体内に入ってくる安心感が沸き上がって来た。
「お口に合いましたか?」
「美味しいです」
正直に言えば、緊張で味は全く分からなかったが、謙斗は力強く答えた。
「良かった」
月乃は嬉しそうにまた匙を差し出してくる。どうやら今日は自分で食べるのは諦めた方が良いようだ。謙斗は観念して食べさせてもらい、土鍋半分ほどの量を平らげた。
「これだけ食べられるならもう大丈夫ですね」
「本当にありがとうございます」
「それでは、お茶を入れてきます」
立ち上がろうとした月乃を呼び止める。早く確かめておきたいことがあった。夢で見たあのこと。
「サマータイムはどうなったんですか?」
「……サマータイムですか?」
月乃は不思議そうに首を傾げる。
「ええ。僕が倒れたのはサマータイムが始まる前日だった。あれから三日経ったってことは、サマータイムは始まっているんですよね」
「ええ、始まっています。それがどうかしたんですか?」
当たり前のことを訊かれて困惑しているような口ぶりだ。
「どうかしたって、あんなに大騒ぎをしていたのに。無事に始まったんですか?何も問題は発生しなかったんですか?」
「ニュースでは何も言っていなかったと思うけど……」
「どうしました?」
入口に砂山医師が立っていた。
「瀬野さんがサマータイムは無事に始まったのかって訊いてこられたんです。何もなかったですよね」
「ええ。小さな問題は幾つかあったようですが、いつも通りの範囲です」
「ちょっと待ってください」
その言葉に引っかかった。
「いつも通りですって?」
「いつも通りです」
「サマータイムは今年始まったんですよね?」
「いいえ」
答える砂山医師の目がすっと細くなった。
「サマータイムはずっと前からあります。私が産まれる前から。確か戦争の後、日本がまだアメリカの占領下にあった時に始まったはずです」
アメリカの占領時代にサマータイムがあったことは謙斗も知っていた。しかしそれは数年で廃止されたはずだ。
「今日は何年何月何日ですか?」
謙斗が質問をする前に、砂山医師が訊いてきた。
「多分、二〇二〇年六月二日です」
「合っています」
砂山医師は短く答えると、顎に手を当てて考え始めた。
「どういうことなんです?」
男たちの緊迫した雰囲気に、月乃は首を傾げる。
「さっぱり分かりません」
そう応える謙斗の頭の中にはある仮説があった。しかし、それを口にするのはあまりにもバカバカしすぎて、とても言葉にはできなかった。
砂山医師もその仮説に辿りつき、言い出せずにいるのだろうか?
医者だし、自分よりもかしこい頭でなら、自分では考えつかなかった事実に辿りついているのかもしれない。
「考えていても仕方がない」
謙斗の予想に反して、砂山医師は考えることを否定した。その口調は今までの必要以上に丁寧なものから、少しくだけていた
「外に出てみよう」
「そんな。まだ早いです」
「大丈夫だよ。だろ?」
月乃が抗議するが、砂山医師は謙斗を挑発する。
「大丈夫です。行きましょう」
謙斗は月乃に支えてもらいながらベッドから降り、用意されていたサンダルを履いて立ち上がる。三日も寝ていたため最初はふらついたが問題ない。砂山医師の後について部屋を出た。薄暗い廊下に出る。この階には四つ部屋があるようだったが、人の気配はしなかった。
エレベーターもあったが、砂山医師について階段を降りる。一階は明かりがついていなかったが、正面の扉につけられた摺りガラスを通して入ってくる光で、歩くのには支障はなかった。
待合室のような場所を抜けていく。砂山医師は正面扉の鍵を開け、扉を開いた。促されて、謙斗は戸外に出る。むわっとした外気に包まれる。
見慣れた風景だった。
道路にも、街路樹にも、ビルにも、そこに掲げられた看板にも見覚えがある。
「どうだい?」
「どうって、どういうことです?」
「この建物に見覚えはあるかい?」
くるりと振り返る。古い、石造りの頑丈そうな建物があった。それも見覚えがあった。しかし記憶のそれと全くの一致はしなかった。
「見覚えはあります。でも、蔦が這っていたりしていて印象はかなり違います。何年も使われていない感じで、この砂山医院と書かれた看板も出ていなかったから、何の建物なんだろうって思ってました」
「そうか。……君はこの階段のところに倒れていた」
「はい。そんな記憶があります」
応えてから左を見る。そこには馴染みのビルがあった。ほんの五十メートルほどの距離。入口にはドアから熊が顔を覗かせている画が描かれている。戸熊テクノのマークだ。
「……うちの会社です」
電気は点いておらず、誰もいないようだった。
「うちは開業医だけど実際には看板だけでね。ここではほとんど診察はしていない。もちろん入院もさせていないから君が寝ている病室も何年も使っていなかった」
砂山医師が唐突に話し始めた。
「それで静かだったんですね」
「ああ。君と私と月乃しかいないからね。それで、私が何をしているのかと言うと企業の産業医だ。幾つかの企業を回って、そこの従業員の健康を管理している」
淡々とした説明が続く。
「その企業の一つが戸熊テクノだ」
「え、でも……」
謙斗がその先を言う前に砂山医師は言う。
「ああ、私も君を見たことがない」
謙斗は何か大きな欠片が身体からはがれた気がした。喪失感で言葉が継げない。
「私が持っている従業員名簿には瀬野謙斗は載っていなかった。今日、戸熊テクノにそれとなく訊ねてみたが、やはりそんな社員はいないとのことだった」
ショックを受けている謙斗の背中に砂山医師は畳みかける。
「医療従事者が見ることができる全国の患者リストがある。それも確認してみたが君の名前はなかった。もっとも、この十年間一度も病院に行ったことがなければ載っていない可能性もあるけれどね」
暗いガラスに映った砂山医師の目が謙斗を見据える。それから逃れるようにして振り返ってしまい、その視線を正面から直に受けてしまう。
ある程度の予測はしていた。仮説通りだったと言える。当たっていたのだ。しかし事実としてそれを突き付けられると、自らの存在感の欠如にどうしようもなく不安になり、ガタガタと身体が震え始める。
「君はこの世界の人間ではない」
砂山医師ははっきりとそう告げた。
「君は誰だ?」
ボクは誰なのか?そんなの……
「そんなの、ボクが一番知りたいです」
そう叫びたかったが、か細く、絞り出すような声しか出てこなかった。
その時、何かが倒れる音がした。
少し離れた場所で月乃が倒れていた。すぐに走り出した砂山医師の後を追って、謙斗も走る。
「月乃!」
砂山医師は素早く容態を確認する。謙斗はすぐに追いついたものの、見ていることしかできない。
「陽臣さん、すみません」
月乃がか細い声で謝る。
「大丈夫だ」
砂山医師は力強く答えると、月乃を抱きかかえて立ち上がった。
「君も今日はもう休みなさい」
そう言って足早に帰って行った。
謙斗は会社の方を一度振り返った後、ゆっくりと、足取り重く病院へ帰った。
廊下の奥にあるエレベーターの回数表示が瞬いている。一番上の三階で止まっている。砂山医師たちはそこに住んでいるのだろうと思った。
階段をゆっくりと上る。二階の病室に入り、ベッドに寝転がる。
月乃は大丈夫だろうか?と思う。
そして砂山医師の慌てた様子、月乃の信頼に満ちた眼差しを思い出す。きっと二人は夫婦か、恋人なのだろう。
月乃に好意を持ち始めていた謙斗はがっかりする反面、お似合いの美男美女だと思った。しかも相手は医者だ。勝ち目はない。
大きな溜息をつく。
途端に大きな不安に襲われる。これからどうなるのだろうか?
理由は分からないが、元いた世界によく似た、しかし昔からサマータイム制のある世界に来てしまったようだ。今はやりの異世界転生というやつだろうか。
「それにしては、ひどく地味だな……」
小説やアニメの世界では、異世界転生と言えば中世風の世界や、過去の世界に飛ばされる。転生する間に大いなる力を授かっていたり、その世界では知りえぬ知識を駆使してハーレムを気付いていくものだ。しかしこの世界は、サマータイムがあるかどうかだけで元いた世界とほぼ変わりがない。今のところ、大いなる力を授かった兆しもない。美女で知り合ったが、すでに相手がいる。世界が危機に晒されている様子もない。
考えれば考えるほど、地味すぎて力が抜けていく。
先ほどまでは不安で眠れるわけがないと思っていたのに、何かにいざなわれたかのように、謙斗は眠りに落ちて行った。