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1.サマータイムを始めます。

 平成三十年十一月十四日火曜日。

 秋の臨時国会で夏時刻法が可決された。

 いわゆるサマータイム法である。

 これにより、平成三十二年の六月一日から九月三十一日に夏時間が実施されることが決まった。




 そして平成が終わって二年目、五月二十九日二十二時五十八分。システム開発会社『戸熊テクノ』では、夏時間への移行作業が佳境を迎えていた。

 つまり、まだ終わっていなかった。

 憔悴しきった顔の人たちが一台のモニターを見つめている。

 そこにエラーが表示されればデスマーチが続行されることになる。

 しかし成功を祈っている者は誰もいない。祈る気力も沸いてこないほど疲れ切っていた。


 夏時間が開始されると、時計を二時間巻き戻す。

 昔であれば、時計を一つ一つ巻き戻せば済んだだろう。それはそれで大変な作業であっただろう。

 しかしあらゆるものが電子化された現在では、どこにどんな時計が潜んでいるか分からない。巻き戻すべき時計がどこにあるのか分からないのだ。

 また、ありとあらゆるものがネットワークで繋がっているため、それらの間で整合性が取られなければならない。不整合がどんな事態を招くのかは誰にも分からない。もしかしたら核ミサイルの発射ボタンを作動させてしまうかもしれない。

 世界中が繋がっているために、システムを変更するのは日本だけではない。各国が日本の夏時間に対応するために、日本はオリンピックを五回開催できるだけの金額をバラまくことになった。

 国内での作業もスムーズには進まなかった。

ネットワークシステムの中の『時計』は一種類ではない。また、巻き戻し方にも幾つかの方法がある。それらを統一しようというのは合理的な考えではあるが、どのように統一するのかの合意は論理的にも理知的にも進まなかった。様々な思惑が絡まり、また政治家や官僚たちのITに関するの無知ぶりが加わり、決定日の延期が繰り返された。決定された時には、すでに夏時間の開始が一年後に迫っていた。

 デスマーチの始まりである。

 先行して変更箇所の洗い出しは進められていたが、予測外の要変更箇所が見つかるのが、IT業界の常である。また、圧倒的にIT技術者の、管理者の数が足らなかった。様々なプロジェクトが中断され、日々のメンテナンスが後回しにされた。その経済損失の金額でオリンピックが七回開催でいると算出されたりもした。それでも人員が足らなかった。

 残業、休日出勤は当たり前。教育不足なままで追加される人員が更なる混乱を招く。心身を病む者、過労死が続出し、それがさらに現場を追い詰めていった。

 戸熊テクノもそんな一年を潜り抜けてきた。

 入社三年目の瀬野(せの)謙斗(けんと)もまた、潜り抜け、生き延びた。

 好景気の時代に私立文系大学を卒業した後、全く専門外のIT系会社に就職することになったのは、実力不足や準備不足はあったものの、運の悪さが重なったため、と本人は思っている。

 それでも、先輩や上司たちの指導の下、二年も経った頃にはそれなりにプログラムが組めるようになっていた。

 そこに地獄がやってきた。

 付き合い始めたばかりの彼女と別れ、飼っていた亀を死なせてしまったのは、すでに遠い思い出だ。

 地獄から抜け出す機会は何度かやってきた。それを逃してきたのは、他の仕事をやっていけるのかという自信が無かったり、人間関係のしがらみで踏ん切りがつかなかったりもあったが、運の悪さが重なったことが一番大きい、と本人は思っている。

 とにかく今、謙斗はパソコンの前に集まっている人たちから離れ、上半身を椅子の背もたれに預けて、ぼんやりと天井を見ていた。

 今から二十分前、謙斗は最後の検証テストを行うパソコンの前にいた。最後と言うのは、このテストでエラーが発見された場合、その修正はサマータイムの開始に間に合わないのが明らかだったからだ。

 戸熊テクノの運命を分ける役に謙斗が選ばれたのは、一番若かったからだ。謙斗よりも若い者は皆、すでに退職したか病気で倒れている。

「三秒前」

 誰かが破れかぶれな調子でカウントダウンをした。「三、二、一、零」

 謙斗は促されるままにリターンキーを押した。そして意味もなく盛り上がっている人たちの輪から離れ、椅子に座り込んだ。成功を期待しながらエラーが表示されるところを見たら、なんとか保っている精神の細い細い糸が完全に折れる。

 成功も失敗も、心を虚無にして受け入れる。

 十分ほど時が流れた。

 散り散りにほつれて周囲に漂っていた謙斗の意識が、歓声によって引き戻された。

「やった!完成だ」

「終わった」

「これで帰れる」

 お前は昨日も帰っていたじゃないかと思う。そんな奴に限って、苦労話をしたがる。

「これでサマータイムが来るぞ!」

 彼らが修正していたのは世界の根幹をなすようなシステムではない。一企業の経理システムに過ぎない。システムの修正が完了してもしなくても、法律に従って明日からサマータイムは始まるのだ。

 きっと日本のどこかには、まだ完成していないシステムもあるに違いない。

 ぼんやりとそんなことを考えていた謙斗の肩を、誰かが強く叩いた。

 桜田先輩だった。目の周りはクマで黒く、無精ひげが生えまくり、髪もボウボウ、よれよれの服は少し匂う。しかし目は、生気に満ちていた。

「謙斗!買い出しに行ってこい」

「買い出しですか?」

 訝し気に問う。まだ納品作業が残っているが、それはすぐに終わるはずで、今夜はもう、会社に泊まる必要はないはずだ。

「打ち上げをしようって社長が金を出してくれたんだ。鈴木と丸川と一緒に行ってこい」

 ありがた迷惑だ。打ち上げなんかよりも家に帰って寝たい。という正直な気持ちを抑えつつ、「分かりました」と立ち上がる。

「おいおい、しっかりしろよ」

 桜田先輩は大きな声を出しながらまた肩を叩く。目は生気に満ちているのではなく、狂気に陥っているのではないかと思った。先輩もまた、おかしくなっているのだ。

「時計を見ろ。今は十一時三十分だろ。今日の十一時三十分は一回しかないけど、明日の十一時三十分は二回あるんだぞ」

 謙斗はそれが何を意味しているのか分からないまま「はぁ、そうですね」と生返事を返して、すでに会社から出て行こうとしている鈴木と丸川の後を追った。

 外は少しひんやりとしていた。明かりの消えたビル街に人通りは少ない。二人はまだ元気が余っているらしく、奇声を上げながらコンビニへの道を急いでいる。

 追いつくなどと言う努力をすることなく、ゆっくりと歩く。思っていた以上に体力がなくなっていたようで、足取りがおぼつかない。ふらふらする。

 いや、これはちょっとやばいんじゃないか?と思った時には世界がぐるりと回転していた。力が抜けていき、身体の右側に軽く衝撃が来る。

 横倒しになっていた世界はぼんやりと暗くなっていき、完全に暗くなり、何も感じられなくなった。


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