難波橋(なにわばし)
大阪中之島の堂島川に架かる難波橋、その南詰に座る黒雲母花崗岩でできたライオン像が、あつい夏のお盆の日、勇気を示した子供に一つだけ願いを叶えてくれるという話が、いつの頃からか、難波橋の近くにある中之島小学校に伝わっていた。
それは、はるか昔、明治の時代に、堂島川に誤って落ちた幼児を助けるため、難波橋から飛び込みその子を救い自らは命を落としてしまった小学生のことを、皆は、その勇気ある行動をいつまでも忘れまいとするため、ライオン像にその小学生を重ね合わせ、形を変えて人々の口から口へと今に伝えてきたのだった。
難波橋の近くにある小学校に通う良太は、夏休みは、毎日お気に入りの本を探すために父親と中之島図書館に通っていた。中之島図書館は重厚な石造りの建物で、中に入ると本と木が混じった独特匂いがあり、良太にとって父親と過ごせる大切な時間だった。中之島図書館から家路に付く途中には難波橋があった。父親と難波橋を歩いていると涼しい風が川面からから吹き上がり、ライオン像のたてがみもそよそよと揺れていると見えるほど良太には心地良かった。
そんなとき、帰り道の難波橋で必ず父親は良太に、ライオン像の勇気ある小学生の話を聞かせた。「良太、男は勇気だぞ。このライオンのような強い男になって自分の願いを叶えろ」父親は、ライオン像を指さしたあと、良太の体を持ち上げ、ライオン像の横に立たせては、何度も「強くなれ」と繰り返した。
「わかった。ぼく、強くなるよ」ライオン像が今にも自分に飛びかかって来そうで怖かった良太は、「強くなる」の意味も分からないままそう答えた。
「そうか、良太は強い男になるんだな、勇気ある男になるんだなよし、よし」父親は良太を再び抱き抱え、ライオンの座る台座から降ろし、良太をおんぶした。父親の背中は大きく、良太を支える腕や手は逞しくまた、優しかった。でも、いつも良太は父親の背中からライオン像を振り返り「自分には勇気があるだろうか、強い男になれるだろうか、あの、ライオン像に勇気を示せるだろうか」と自分に問いかけるのだった。
突然だった。良太の父親は、良太が小学三年生の時に、少し体調か悪いと病院に入院した数ヵ月後に亡くなった。ガンが急速に進行したのだ。大好きだった父親の死は、良太を寡黙で弱虫な子供に変えてしまった。体が小さく、弱虫な良太は同級生達のいじめる対象となった。良太の家から小学校へは、難波橋を通り淀屋橋に入った所にあり、小学校に行く途中の難波橋の上は、同級生達が良太をいじめる絶好の場所となった。
「良太、俺様の前を歩くなよ」後ろから走ってきた、ガキ大将は良太を押し倒した。「やーい、やーい、弱虫良太」ガキ大将は、良太に悪態をついて、小学校へ走って行った。
押し倒された良太は泥に汚れたズボンを払って立ち上がった、良太は自分が情けなくなり涙が溢れそうになった。橋の欄干に手を付き、見上げた視線の先にライオン像があった。ライオン像は何事もなかったかのようにそこにいるだけだった。ライオン像は、父親がいつも言っていた「勇気」という言葉を思い出させ、良太に涙を流すことを許さなかった。
「勇気を示すと本当に願いを聞いてくれるのか」「勇気を示せば願いを聞いてくれるのか」良太は問いかけた。しかし、ライオン像は、いつもの、堂々とした姿で前を見続けているだけだった。
小学校も夏休みに入った。その日は、朝から雨で堂島川も流れがはやく、黒く濁った水が、流木やプラスチックのゴミの固まりを大阪湾へと運んで行った。テレビの天気予報は、昼からさらに、天候は悪化し、河川の氾濫に注意するようにと連呼し、川に近寄らないようにと告げていた。
良太はその日と決めていた。勇気を示すのは今日だと。嵐のなかで、お盆の日に勇気を示せば、ライオン像が一つ願いを叶えてくれる。たった一つの願い、大好きだった父親に会うこと。それだけだった。
母親は昼御飯を作ったあと、近所の親戚の家に用事で出かけて行った。良太は食事を終えると、晴れてるとはいえ、洪水警報が出て誰もが近寄ることのない危険な難波橋に向かった。淀川から流れ込む、大きなうねりを持った濁流は、一方は土佐堀川に流れ込み、もう一方は、堂島川に流れ込んでいた。叩きつけるような雨が良太を打ち続けた。
「ライオン像が見えない、風が強くて顔を上げることもできないよ」風雨は良太の行く手を阻んだ。風が少し弱まると、数歩進むのを繰り返した。体が小さく力もない良太は、吹き飛ばされそうになりながらも、やっとライオン像の座る橋の南詰めにたどり着いた。息も絶え絶えにならながら、見上げた所にライオン像はいた。良太はライオン像の太い後ろ足に手を掛けた。
「約束だぞ。必ずだぞ」橋の欄干に立ち上がった良太は、体を小さく屈めて強風が吹き荒ぶなか手すりの上を橋のまんなかへ、歩きだした。雨は、良太の視界を奪い真っ直ぐ歩くことは奇跡にちかかった。
良太は、雨で輪郭だけか浮き上がっているライオン像をにらみつけた。「約束だぞ、この、嵐に川へ飛び込む勇気をお前に見せてやる。だから必ず父さんに会わせろよ」屈めた体を延び上がらせた良太に、上空から強風が吹きつけた。
「父さん」良太は、堂島川に向かって大きくジャンプした。
濁流は早く、川の中で渦巻く水は、良太の勇気を嘲笑うかのように良太の体をもてあそんだ。小さな体の良太は為す術もなく、川底へと運ばれて行った。
「暗くてなに見えない、息が出来ないよ」沈んでは浮かびを繰り返しながら、川は良太を元には戻れない世界に連れ込もうとしていた。
良太の腕を男の太い逞しい腕がぎゅっと掴んだ。ぐいぐいと引っ張られる感覚の後、良太の意識は遠ざかって行った。
「すごい濁流でよく助かりましたね、あの男の人がいなかったら危なかったですよ」良太が川で溺れたと聞いて、病院に駆けつけた母親は、良太が無事と分かると、その場にへたりこんでしまった。
医者は、ずぶ濡れの男の人が良太を担ぎ込んで、名前も名乗らす去ってしまったと、母親に伝えた。
「少し水を飲んだだけですから、すぐに元気になってお家にかえれますよ」顔にあかみが戻ってきた良太の寝顔をみて、にこやかに言った。
「ありがとうございます。あの、男の人はどんな人だったのですか」母親は、医者に尋ねた。
「良太、良太、とずっと名前を呼び続けておられました。お父さんのようでしたよ」
「えっ、父親はこの子が三年生の時に病気で亡くなったのですよ、そんなはずは・・」母親は驚いた。
「きっと、父親がこの子を助けてくれたのですね」母親はベッドに眠る良太をじっと見つめた。
「お父さんが助けてくれたんだよ、良太、お前が大好きだったお父さんだよ」母親は良太が生きているということを、すでに亡くなった父親がくれたこの奇跡を、何度も何度も感謝した。
暴風雨は、翌朝になりうそだったかのように静まった。病院の窓からは暖かな陽の光が良太の満足そうな顔を照らしていた。
医者から、家へ帰ってもいいと、許しを得た良太は母親と一緒に家路についた。
家路の途中、難波橋に差し掛かった。向こうにライオン像がいつもと変わらず遠くを見つめている姿が見えた。手を引いてくれている母親に良太が話しかけた。
「お母さん、勇気ってなんなの。勇気を示すってなんなの?お父さんが勇気だぞ、って、ライオン像の前でいつも僕に言ってたんだよ、だから、怖かったけど勇気を示したんだよ、父さんに会えると思って」
「でも、良太、お母さんを悲しませることをするのは勇気じゃないよ」母親は優しく良太を諭した。
「ごめんね、母さん、でも僕ね、川の中で分からなくなったとき、あのライオンが現れたんだ、そしてね、僕をね、ぐいぐいと岸に連れて行ってくれたんだよ。それでね、抱き上げて岸にね寝かせてくれた時、ライオンじゃなくて、お父さんだったんだよ、本当だよ」
「そうかい、良かったね、父さんはいつも良太を見守ってくれてるんだね」母親は良太の手をぎゅっと握りしめた。二人はそれ以上何も言えず、家へと向かった。
「康介、勇気を持った強い男になれよ」良太は息子の康介を自分の父親にされたように、難波橋の南詰にあるライオン像の横に立たせた。そして、かって自分が父親に言われと同じ言葉を伝えた。
「わかったよ、父さん」小学三年生になった康介は、元気よく答えた。
「康介、でも、母さんを悲しませることはするなよ」良太は、あのときの母親の言葉を今でも忘れることはなかった。
勇気とは、強い男とは、あの難波橋から飛び込んだ日から、20年が経っていた。今でも、良太もわからない、なぜ難波橋から飛び込むのが勇気なのか、本当に父親が話してくれた勇気を示せたのか、でも、家庭を持ち、子供を持った今、父親や母親が子供を思う気持ちは分かったような気がした。父親が、自分の命を救ってくれたように、必ず、自分もこの子を守るのだと心に誓った。
ライオン像はあの時と変わらない姿で、堂々として前を向いている。何事にも逃げずに前を向いて、進んで行く事が勇気ではないだろうか。良太は橋の上に、息子の康介と並ぶライオン像を見つめた。康介に寄り添うライオン像は、良太の目には、いつのまにか父親に変わっていた。難波橋とライオン像、いつまでも、あの日と変わらないままであってほしい。良太は今は緩やかに流れる堂島川を眺め、そう願った。
終わり。