髪結いと姫
彼女は宗家で俺は分家。
それだけで、ただそれだけのことで俺と彼女の未来は無い。
「貴方といるとホッとするわ」
彼女が言う
「貴方は優しいのね」
彼女が囁く
「愛して貰えるかしら?」
彼女が願う
白銀の髪は宗家の証。
定められた人間以外は切ることも結うことも許されないそれを無防備に晒し、彼女は笑う。
分家とはいっても末端の末端。
髪結いの才が無ければ彼女を見ることもその髪に触れることも無かっただろう。
「ひぃさまなら大丈夫ですよ。
大切に、愛して頂けます。」
「そうかしら?」と傾いだ首をそっと正し丁寧に髪を持ち上げる。
シャキン、シャキンと鋏の音だけが響く縁側でこうやって過ごすのもこれが最後。
「さぁ、できました。
すこぅし、ほんのすこぅしですが短くしましたのでもう足に引っ掛かることは無いと思いますよ」
「ひどいわ。そんな昔のこと」
「昔ですか?一昨日も髪を踏んで転びそうになっていたと聞きましたが?」
「そ┄それは仕方ないわ。急いでいたんだもの」
恥ずかしいのか微かに赤く染まった頬を両手で挟み、上目遣いでこちらを見る彼女に表面上は優しく微笑みかける。
その顔を、仕草を、今まで自分が大切にしてきた髪を、触れたことの無い四肢を、思う様に貪るであろう夫となる男など死んでしまえばいい。
心の中ではそんなことばかり思っているなんて彼女は知らないだろうし知らなくていい。
「それではひぃ…いえ、姫閖様。
本日をもちまして私はお役御免となります。
お健やかに過ごされますよう、心よりお祈り申し上げます。」
畳に三つ指をつき、深く頭を下げる。
彼女に会うのは今日が最後。
これから彼女の髪は嫁ぎ先の髪結いに委ねられる。
「今までありがとう。
お前のお陰でつつがなく過ごしてこれました。
そしてわたくしは、これから戯れ言を言います。」
「姫閖さま?何を」
「わたくしは貴方を、拓真を愛していました。
叶わぬ恋と知りながら貴方に髪を委ねることを至上の幸せと思っていました。
この髪を切り落とし、貴方にすがって生きようと考えたこともありました。」
唐突に始まった彼女の独白は驚きに染まる私を置いて進んでゆく。
「わたくしは宗家の姫。
常ならば十歳までには婚約し成人と共に嫁ぎます。」
「しかし、わたくしは敢えて幼いフリをして輿入れを伸ばしてきました。
貴方と離れたくなかったから!」
「ご当主様は、父上は、わたくしの気持ちに気づいていたのだと思います。気づいていたからお守りと言う名の監視を増やしわたくしや貴方がおかしな真似をしでかさないか見続けていたのです。
そして父親としてわたくしの我儘を許容して下さっていたのです。」
「わたくしは今日で20歳。
これ以上婚礼を遅らすことはできません。」
息ができない…彼女の言っていることが事実なら自分は彼女に“男として”好かれていたということになる
そんな幸福があっていいのだろうか。
例え二人が寄り添い過ごすことが未来永劫ないのだとしても、今だけは私達は『宗家の姫』と『髪結い』ではなく『姫閖』と『拓真』
ならばこのまま彼女だけに話させておく訳にはいかない。
「ひぃさま、私も貴女を愛しています。」
「貴女がくれる信頼を喜び、誰かに渡すくらいなら無防備に晒される首筋に鋏を食い込ませその命ごと私のモノにしてしまえたらと何度も考えました。」
「ですが愛しい貴女の命を散らすことは私には出来なかった。
ならば最後までこの気持ちは胸に秘めただの髪結いとして生きていこうと。そう思っていました。」
「拓真…」
「こうして想いが通じても私達が触れあうことは許されません。」
涙で潤んだ瞳を見つめながら私が触れることを唯一許されている髪を一房掬い取り、毛先にそっと唇を寄せる
「っあ…たくまっ…」
「この髪をここまで美しく保ち伸ばしたことは私の誇り。
私のことを愛して下さっているのなら、どうかこの髪はこのままにお願いいたします。」
髪を離して平伏する。
既に『姫閖』と『拓真』ではなく『宗家の姫』と『髪結い』に戻らねばならぬ時間だった。
ふるり、と一度肩を震わせ浮かんだ涙を指先でそっと飛ばすと、姫はゆっくりと頷いた。
「お前の願いを聞き入れることを桜ノ宮宗家が一の姫、姫閖の名において誓いましょう。」
「ありがとうございます。」
下げた頭を更に畳に擦り付ける様にして言葉を交わす。
パタン。と閉じられた襖の音を合図にして私は顔を上げた。
その顔にふわりと黒い布がかけられる。
『言い残すことは?』
布越しに聞こえるくぐもった声は幼子の様で、少し悪いな。と思う。
「ありません。
あぁでも、私が儚くなったことはひぃさまには内密にお願いします」
『伝える予定はない』
「そうですか。」
ならば一息で
閉ざされた視界の中で開いていた瞳を閉じると同時に、私の意識は暗闇の中に落ちて散った。