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音信不通

作者: 白樺セツ
掲載日:2014/11/18

音信不通の恋人は、今目の前にいる。


かつては、しなやかな筋肉が彼の体を支えていた。

目は希望を見すえ、光を宿らせていた。

よく笑う口元は、わたしに愛を教えてくれた。


――彼は、走るための足をシーツに放り投げていた。わたしよりも大きな手の平を、意味もなく布団の上に置きっぱなしにしている。


わたしはいつも、部屋の隅に立つことにしている。

ベッドの近くは医者や看護師がよく近付くところだし、なにより窓からの穏やかな風やあたたかい日差しを感じるついでに、彼はわたしを視界に入れてくれる。


身内、知人、恋人、自分のこと。

それら全てを忘れた彼は、赤ん坊と同じになっていた。

いや、赤ん坊よりも酷い。何かを学ぶという意欲もなければ、記憶を取り戻すのももちろん、楽しんだり悲しんだりすることもない。

リハビリテーションのために看護師が無反応な彼に声をかけながら腕や足の関節を曲げたり伸ばしたりする様は大がかりな人形遊びのようにしか見えなくて、そのたびに下唇を噛んだ。


事故から一年過ぎた。もう少しで二年目になる。

真相を知る者は、わたししかいない。おとぎ話のような駆け落ちの約束をしたのに彼は約束の場所に来なかった。

来る途中で車にはねられて全てを忘れてしまった。

窓からの景色にだけしか関心を示さなくなっていた。

わたしの携帯電話に彼からの連絡が来るはずもない。


もう、そろそろ限界だ。


細く骨ばった彼の手を触ろうとした。

だけど触れる直前ためらいが生まれた。

きっと彼は何の反応もしない。現実を理解して苦しくなるだけだ。


「あ……」


わたしが手をひっこめかけたときだった。

彼がわたしを見て声を発して自ら手を伸ばしたのだ。

きっとわたしではなくわたしの後ろにある窓からの日差しに反応したのだろうが、そのせいで彼の手とわたしの手が重なった。


――するり、と。

彼は何の障害物に当たることもなく、日差しに手を伸ばした。

その顔に何の感情も浮かべず、ただ窓の方を向いている。


分かっていた。理解している。

こうした証拠を突きつけられたくなかっただけで。


彼の体が窓の方へ寄り、ベッドからずり落ちた。

べしゃりと、無様に冷たい床へ叩きつけられた。そのはずみで、立ててあった点滴が彼の上に倒れた。

物音に気がついた看護師が、慌てて駆け付けた。立ち尽くすわたしに気がつかないまま、彼をベッドへと移す。

わたしの体が看護師の体をすりぬけると、看護師はブルッと体を一度震わせて寒そうに腕をさすった。


たった数分の出来事だ。

それだけでわたしの絶望がこんなにもはっきりと目に見える形で表れた。

わたしは結局ただの死者で、ここにいる彼は生者だ。

追い打ちをかけるように、彼はわたしのことを一切覚えていない。

気づけという方が無理なことなのだ。


再びわたしは部屋の隅へと戻った。

彼はベッドから落ちた衝撃のためか、驚いた顔をしたままベッドの上で茫然としていた。

看護師が彼へ大丈夫かと問う。

突然、彼は涙を流した。わなわなと口を震わせて何かを言おうとしている。

背を向けていた看護師の服のすそを掴むと、看護師は驚いて彼を見た。

彼の眼は焦点があっており、しっかりと看護師を見ていた。


「ここは、どこ」


ずっと人形のようだった患者がはっきりと言葉を話した。

看護師は慌てて他の医者を連れてきて、その日は一日大騒ぎになった。

何が大騒ぎだったかというと、彼自身ではなく彼に会いにやってきた人間たちが騒いだからだった。

代議士である彼の親が来たあとに、暴力団の人間であるわたしの親も来た。

もちろん両者とも、わたしと彼が付き合っていたことに以前から反対していたわけで、病院で罵声が飛び交うことになった。


わたしの親は、娘を一体どこへやったと言い、相手側は知らんと言った。

記憶が戻ったばかりの彼の胸倉を掴もうとして、わたしの父は取り押さえられた。


周りが静かになってから彼は言った。

わたしとある人間しか知らないことを告白した。

僕と駆け落ちの約束をした彼女は、待ち合わせ場所である山の中腹で婚約者に見つかり、口論の末に山の斜面を転がり落ちてしまったのだと。

その場にいたわたしの婚約者は顔色を変え、それを否定した。

だがそこへ行って調べようという流れになったのは、わたしの父がそう押し通したからだった。





彼は人に支えられながらその場所へと行った。

湿気た山の地面は滑りやすく、辺りは少しばかり薄暗い。

一部平坦になったそこは一応公園だと聞くが、腐りかけの白っぽいベンチと暗い色をした茂みがあるだけだ。

あのとき、わたしはここで彼に電話をかけた。


当時、周りに付き合うことを反対されて、唯一彼とやり取りできたのがメールだった。

電話だと誰かに聞かれてしまう可能性があったのだ。


だけど、ここまで来たら大丈夫だと思った。

そして、それから、そう――わたしの後をつけてきた婚約者が、携帯電話を取り上げた。

携帯電話を壊そうと力を加え始めた婚約者へ咄嗟に飛びかかった。

それは恋人へと繋がる、たったひとつの宝だったのだ。


婚約者がわたしの頬を平手で叩き、その振動は頭まで突き抜けわたしはたたらを踏んだ。

携帯電話は茂みの向こうへと放られ、わたしはそれを追い、その先にあった急な斜面を転げ落ちてしまったのだ。


わたしが落ちた場所をよく見れば、近くにはいくつか古びた看板と壊れた柵があった。

彼を含む一同は、慎重に坂を下りた。

傾斜が少しゆるやかになったところで捜索が始まった。

わたしが履いていた靴が、片方落ちていたからだった。

彼は自分の携帯電話を取り出した。こっそりそれを覗いてみると、わたしからの着信履歴がいくつかあった。

履歴が指す時刻に彼は事故に遭ったのだろう。


深い考えはなかったのだと思う。


彼はわたしの番号に電話をかけた。

二年程、充電もされずにほっとかれた携帯電話など、電池が残っているわけがない。だが、着信音が流れ出したのは彼の近くだった。

血相を変えて、彼は彼を支える人を突き飛ばして地面を探った。

そして探り当てた。

わたしの携帯電話は、ロウのように白く滑らかな曲がった五本の小枝にしっかりと握られていた。

その近くには、転げ落ちる直前に婚約者からはぎ取ったネクタイピンが転がっていた。

贅沢なもので、それは婚約者が特注で造らせた悪趣味なものだった。 


転げ落ちた後のことは、あまり覚えていない。


斜面から突き出した木や岩にぶつかりながら転がり落ちたが、奇跡的に携帯電話はこの手に取り戻すことが出来ていた。

痛む体を無理矢理動かして、携帯電話を操った。


彼からの着信はなかった。

アンテナは圏外を指していた。

体は冷えていった。

息をするのが苦しくなっていった。

知らない内に涙が流れ出していた。

悔しくて悲しくて辛かった。

彼からの着信はなかった。

もう一度電話をかけたいと思った。



――彼は、携帯電話を握るわたしの手にそっと手を重ねてくれた。


優しく優しくわたしの手を撫でてくれた。

遅くなってごめん、と彼は言った。

彼の手はわたしと違って暖かかった。



着信音は止み、今度こそわたしの携帯電話は静かになった。




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