花之宮学園
四月。
澄み渡る晴天に、美しい桜の花びらが舞い散るそんな日。
「それではこれより花之宮学園の始業式を行います」
花之宮学園では、始業式が執り行われていた。
「次に学園長よりご挨拶があります」
(……ね、眠たい)
コンサートができそうなほど広いホールに、初等科の全生徒が集まっている。厳粛な雰囲気の中、新しく始まる一年に多くの生徒が期待と不安を胸に、学園長の話に耳を寄せていた。
そんな中、眠そうな面持ちであくびを噛み殺しながら、学園長の話を右から左に聞き流す生徒が一人。普通なら初めての学園でテンションが上がっているはずの桐島菫子は、終わりの見えない長い始業式に船を漕ぎそうになる眠気と激しい攻防を繰り広げていた。
これから菫子の通う学園、そしてゲームの舞台でもある『花之宮学園』。
百年以上の長き歴史を持ち、由緒正しき家柄のご子息、ご令嬢が通う小中高大の一貫校。
無駄に広い敷地には小中高大それぞれの校舎があり、校舎の外観及び内装はまさしく豪華絢爛。それだけでなく、寮、公園、運動施設、ちょっとした物が買えるショッピング施設など、ここだけでも暮らしていけそうなほど充実した設備が整っている。
学力偏差値が高く、スポーツや芸術にも力を入れており、その実力は全国区。それらのことから、学校としてのブランド価値も高く、花之宮学園を卒業すれば将来が約束されるとまで言われている。その分高い学費に寄付金など一般庶民の家庭には手が届かないほどの費用が必要になるが、中等科から才ある者は特待生として学費など全て免除で入学することが出来る。
多くの子供にとっては憧れの的であり、親ならば通わせたいと思わせる。日本で一、二を争う人気を持つのが、ここ花之宮学園だ。
ちなみに菫子、入学前に一度「この学校に通いたくない!」と癇癪を起こしている。
何気なくパンフレットを眺めていた時、制服の値段だけで前世の初任給を優に超えているのを知ってしまったのだ。
そのことに自尊心を傷つけられ、金持ち万歳! と思っていた以前の自分を棚に上げて「金持ちなんて嫌いだー!」と泣きながら部屋に閉じ籠った。
結局、家族と使用人に必死に宥められ、菫子の籠城は半日で収束した。それを聞いた和樹には、呆れ顔をされたのだが。
どうも最近、精神年齢が外見年齢に引き摺られているような気がしてならない菫子だ。
「次に生徒を代表いたしまして、鷹ノ宮和樹様よりご挨拶です」
意識を飛ばしかけていた菫子は、知った名前にを耳にしはっとして顔を上げた。ちなみに休学明けの菫子がいるのは生徒の列ではなく、教師たちの列だったりする。そのため居眠りなどもっての外で、ダラけることさえ出来ないのだ。
いかんいかんと目覚まし代わりにぎゅっと太ももを抓ると、先ほど呼ばれた生徒を見つめた。
高価な制服をきっちり着こなし、多くの視線を集める中悠然と歩く姿は、すでに人の上に立つ者の貫録を醸し出している。そんな和樹は壇上に上がって一礼をすると、真っ直ぐに前を見据え挨拶を述べた。
「春光を浴びた緑まぶしい今日このごろ、花の便りもあちこちで聞かれる時候になってまいりました。私は今日、この花之宮学園の三年生となり――」
(……さすがですねー)
まさに完璧な優等生。和樹の素晴らしい猫かぶりに舌を巻く。
少し遠くで女の子たちがひそひそと和樹の話をしているのを横目に、入学前に行われた試験を思い出していた。
二年間の休学を経て、ついに花之宮学園に通うことになった菫子。もちろん問題なく復学できるのだが、一応その能力を測るため少し前に様々な試験を受けさせられたのだ。
成人した記憶を持つ菫子にとって小学生の試験など簡単なものだと余裕をこいていたのだが、その試験は予想以上に難しいものだった。国語や算数など実際に学園で出題された学力テスト、英会話テスト、体力テストに面接など、小学生の試験とは思えないほど高難度な試験に、名門の恐ろしさを痛感したのだ。
これからは本気で勉強を頑張らないと、すぐに落ちこぼれてしまうだろう。勉強漬けになりそうな日々に、菫子は今からげんなりした気持ちになっていた。
そして肝心の試験結果だが、なんと体力テスト以外は満点という結果。どこぞの箱入りお嬢様だと思っていたのだろう教師が驚きを隠せずに結果を伝えに来たのをよく覚えている。
体力テストの結果は聞いてはいけない。そう、断じて。
そんな思い出に浸かりながら挨拶を聞いていた菫子は、早く終われと壇上の上にいる人物に伝わるはずもない念を送り続けたのだった。
「これにて、花之宮学園の始業式を終了いたします」
菫子の魂が半分抜けかけた頃、長時間に亘った式はようやく終了した。これから毎年この式に出るのかと思うと今からでも転校したい気分だ。
菫子は凝った身体を解し、周りにいた教師に促されるままホールを後にする。その途中である意味これが菫子にとっての入学式になるので、特別に参列した両親が手を振っているのを見つけ、照れながらも手を振り返した。
「ごめんなさい、少しここで待っていてくれる?」
何か忘れ物でもしたのか、案内していた教師は焦ったようにそう言うと菫子を残し小走りで来た道を戻って行った。緊張気味だった先生を新米教師かなと一人で推理していたが、ただ待つだけではつまらないので周囲を物珍しそうに観察し始める。
すると少し離れたところ賑わう生徒たちの集団を発見した。興味本位で近づくと、そこにあったのは大きな掲示板。そこにはクラス割りが張り出されているようで、多くの生徒たちでごった返しているようだ。
おそらく菫子のクラスもそこに書かれているだろう。少し気になり覗こうとするも、平均より小さい背では生徒の集団は突破できぬ壁として立ち塞がる。これは無理だと早々に諦め、トボトボと待ち合わせ場所に戻ろうとしたその時、突然人垣がモーゼの十戒の如く割れた。そして同時に女の子たちの黄色い声が飛び交い始める。
何が起こったのか気になって背伸びをしてみると、その真ん中を歩く少年が目に入った。何を隠そう、先ほど挨拶をしていた鷹ノ宮和樹だ。隣にもう一人少年を連れて周りの視線など物ともせず堂々と歩いていた。
二人はクラスを確認するとその場で二、三言葉を交わし、和樹は何かを探すように辺りを見回し始める。
あ、やばいかも、と視線を逸らそうとした瞬間、ばっちり目が絡んだ。そして逃げる間もなく和樹は菫子の方へと歩いてきた。
「そんなところで何しているんだ?」
「先生にあちらで待っているように言われまして」
「ふーん。クラスは見たのか?」
「……えっと、人がいっぱいでしたので」
「あぁ……潰されるな」
さっと目線を逸らした菫子に、和樹はふっと鼻で笑う。その「小さくて大変だな」という言外に伝える態度に、笑顔の裏でギリギリと歯ぎしりをしてしまうのは仕方ないことだ。
パーティー以来、和樹は何度か桐島家に訪れていた。死亡フラグ筆頭の人物ではあるが、家から出してもらえない暇人の菫子にとって和樹との交流は、思いのほか有意義なものだった。
今のように軽い冗談を言い合えるほどには、良い友人関係になっていると菫子は思っている。そのせいでどうやら姉と兄には嫌われているみたいだが。
初対面のことを思うと、物凄い進歩で感慨深いものがある。そう菫子が浸っていると、和樹は菫子の手を取り引っ張るように歩き出した。
「ほら、行くぞ」
「えっどこにですか?」
「どこって掲示板。見たいんだろ?」
「ま、まぁ、それは見たいですけど」
でもどうせ教えてもらえるんだけどなーと思いながらも手を引かれるがまま歩けば、周囲の視線が一気に集中する。和樹への視線もそうだが、「あの女は誰だ」という菫子への視線の方が多い。
女の子の鋭い目つきと陰口に恐々しながら、なるべく顔を見せないよう下を向いて後に続く。
その間手を放せ手を放せ、と再び念を送ってみるが、もちろん通じることはない。
「あれ和樹、どこ行ってたの?」
「あぁ、少しな」
和樹に引きずられて掲示板の前に到着すると、先ほどまで和樹といた少年が隣に立っていた。
「ふーん」と興味が無さそうに言った少年は、和樹が手を引く菫子に気が付くと顔を覗き込んで好奇心に満ちた目を向ける。
「あ、もしかして君が菫子ちゃん?」
(あれ? この子どこかで……)
その少年の顔に、菫子は和樹を見た時のような既視感を覚えた。まさか、と嫌な予感が胸を過る。
ウェーブのかかる明るい茶髪に同じく茶色の目。愛くるしい笑顔を浮かべる少年は、母性本能をくすぐる可愛らしい顔立ちをしている。そんな少年は、菫子に人当たりの良い笑顔を向けた。
――あぁ、この子は……
「僕は橘朔也。よろしくね」
(こ、こいつも攻略キャラだーーーー!!)
入学早々に遭遇した新たなる死亡フラグに、思わず天を仰ぐ菫子だった。
◇◆◇
ホームルームが終わった教室。今日の行事は始業式だけなので、簡単な報告だけで終わりあとは帰るだけなのだが、未だに教室内には多くの生徒が残っていた。キョロキョロと周りを観察する子や、友人と楽しそうに会話する子。それぞれが思い思いに過ごしているように見えるが、ほとんどの生徒の視線は教室の一角に注がれている。
その中心人物である菫子の心は、お葬式のように暗かった。
朔也と出会った後、クラスを確認した菫子は和樹と同じクラスだと知り、再び天を仰いだ。
この数分だけでこんなにも女の子たちからの視線が痛いのに、クラスまで同じなんてこれからどうなるんだと、自分の運命を呪いさえした。
そして菫子がいないことに慌てた教師が飛んできて、今度は教師に引きずられるように職員室へ向かうのだった。
そこで簡単にクラスについてなどの説明を受け、担任の教師と一緒にクラスに赴く。
一応休学明けではあるが、その扱いはほぼ転入生。そのため教卓の前で簡単な自己紹介を行ったのだが。
「初めまして、桐島菫子と申します。これからどうぞ、よろしくお願い致します」
実に模範的で面白味の欠片もない自己紹介。
だがそれは、ただ菫子がものすごく緊張していたせいである。
初めての学校。初めての人前。和樹以外の初めての同級生。前世では何度も経験したはずの記憶は彼方に消え去り、頭の中は真っ白になっていたのだ。
もっと明るくするんだったと若干後悔しつつ、深く頭を下げてからゆっくり顔を上げると、何故か教室は息遣いさえ聞こえないほどの静寂に包まれていた。
(……え、あれ? 普通ここで拍手とかじゃないの?)
クラス全員の視線が菫子に集中しているが、和樹以外目を見開いて固まっているという異様な光景。
何か失敗したのか!? と涙目で担任に視線を送ってようやく我に返った担任が「あっほら、みんな拍手で迎えてあげましょう!」と言ったことで、ようやくパラパラとした寂しい喝采を受けたのだった。
第一印象に失敗したとズーンと落ち込みながら席まで歩く菫子だが、彼女と周囲の心情には些か相違がある。
クラスメイトは子供らしからぬ自己紹介に呆気にとられたのもあるが、それ以上に菫子の容姿に驚いていた。
今まで見た誰よりも整っていて、芸能人だと言われても疑問さえ湧かないほどの美少女。その容姿に、男の子も女の子も、揃ってぽかんと見惚れてしまったのだ。第一印象としてはある意味これ以上にないほど良いだろう。
だがそのためほとんどの生徒が気後れしてしまい、放課後になっても誰からも話しかけて貰えず。
そして現在はといえば――
「和樹からよく聞いてるよ。面白い子だって」
「変な奴だって言ったんだ」
「えー、同じじゃない? ねー菫子ちゃん」
「ははは……そうかもしれないですわねー」
菫子の両隣に座っているのは、和樹と朔也。迎えに来ると言った兄弟を待っていた菫子の下に和樹がやって来て、少し話しているうちにいつの間にか隣のクラスの朔也まで隣にいたのだった。
ようやく和樹に慣れてきたという所に、さらにもう一人増えた攻略キャラ。いつかは出会うと思っていたが、こんなに早く出会うとは。不可抗力を含めすでに三人に関わっている。菫子の目にはもはや彼らが死神のように見えていた。
そんな菫子の心情を知らない二人は、菫子を挟み何事もないように会話している。時折話しかけられるが曖昧な返事で誤魔化していた。
この状況からの脱出の糸口を探していると、「桐島さん」と教室の入り口から担任が呼んでいるのが見えた。
この機を逃すか! とばかりに「呼ばれているので、これで失礼しますわ」と笑顔で告げ、二人の返事を待たず足早に担任の下へ向かう。「ばいばーい」と手を振る朔也は無視だ。
教室を出れば、少し申し訳なさそうな顔をして担任が待っていた。子供好きの優しい性格で、ほんわかした雰囲気を持つ女性教師だ。
「ごめんなさいね、お話し中に」
「いえ、大した話ではないので大丈夫です」
「そう。それでね、医務室の先生に桐島さんを呼んでほしいって頼まれたの。一緒に来てくれる?」
医務室の先生。心当たりのある人物が思い浮かび、一、二もなく頷き担任に連れられて初等科の校舎を後にした。
そして辿り着いたのは理事長室や応接室などがある通称『特別棟』。
保健室は各校舎にあるが、医療行為を行える医務室はこの建物にしかない。普通に過ごせば、滅多に入ることのない建物だ。
そこのある部屋の前に着くと、「それじゃあ私はここで」と担任は踵を返し来た道を戻っていった。
『医務室』と掲げられた部屋の前に残された菫子。コンコンと扉をノックすれば、「どうぞ」と中から男性の声が返ってくる。
部屋に入り、目に入ってきた男性の顔を見て菫子は顔を綻ばせた。
「こんにちは、西條先生」
「おー久しぶりだな、菫子」
部屋にいたのは白衣を纏った男性。黒い短髪に黒縁の眼鏡をかけ、少し日焼けした肌と逞しい身体つきをしたワイルドなイケメン。
彼は菫子の入院中に研修医として担当をしていた、西條稜。現在二十八歳、独身だ。
「本当に来たんですね」
「お前の親からお願いされたからな」
「うぅ……す、すみません……」
「あー違う違う。元々打診があったんだよ。お前の親が頼んでなくてもここに来るのは決まってたんだ」
「お前が気にすることじゃねーよ」と菫子の頭をガシガシと撫でる。西條にとって幼い頃から担当している少女は妹、もしくは娘のように思えてしまい、どうも甘やかしてしまうのだ。
しばらくして本来の目的を思い出した西條は、「そこに座れ」と自分の目の前の椅子に座らせた。
「とりあえず診察するか」
慣れた手つきで体温や脈を測り、結果をスラスラとカルテに記入していく。
前世の記憶を思い出してから約四年。その多くの時間をベッドの上で過ごしていた菫子は、極端に体力がなく、身長も小さく育ってしまった。免疫力も低下したのか、ちょっとしたことで熱が出ることも多く、担当医だった西條には今でも頭が上がらないほどお世話になっている。
そして診察を終えた西條は、真剣な顔でカルテを眺めた。
「少し脈が速いな。疲れたか?」
「……少しだけ」
「環境が変わるからな。慣れるまでは無理するなよ、早々に休むことになるぞ」
容易に思い描ける光景に、菫子は眉を顰める。学生生活初っ端からその様な展開は避けたい。
転生した菫子はデッドエンド回避以外にも目標を定めていた。その一つは学生生活も満喫すること。せっかく新しい人生を手に入れたからには、恋に、遊びに、勉強に、新たなる青春を謳歌したいのだ。
専らの課題は体力アップと、菫子は決意を新たにする。
診察を終えたが、兄弟を待つためそのまま居座る菫子にお茶を出し二人は談笑した。
「その制服懐かしいな」
「昔と変わっていないのですか?」
「あぁ。俺がいた頃と同じままだ」
西條は花之宮学園の卒業生で、高等科から学力特待生として入学したらしい。
そして西條も『Flower Princess』にも登場してくるキャラクターだったりする。
だが西條は攻略キャラではなく、ヒロインの悩みを聞いたり助言をしたりする、所謂お助けキャラだ。ちなみにゲーム内に登場するキャラだが、菫子と直接関わるシーンはない。
脇役の彼だが、この乙女ゲームでは絶大な人気を博していたらしい。男らしく、包容力があり、ワイルドな雰囲気で多くの大人の女性の心を奪っていたと前世の姉の言動を思い出す。「何故彼が攻略できないんだ!」と前世の姉が嘆いていたのを鮮明に覚えていた。それもそうだ。ゲーム開始時には彼は三十四歳。いくら若く見えても、完全に犯罪である。そう諭しても、「愛に年齢なんて関係ない!」と頑なに認めようとせず。同じくそのことを嘆いたファンによって、彼の同人誌が多く発行されたとかされていないとか。
そんな遠い日の姉の姿を思い出していると、医務室の扉がノックされた。
西條の返事と同時に開けられた扉の前には、今の姉と兄が笑顔で立っていた。
「菫子! 迎えに来たわよ」
「いい子で待ってた?」
医務室に入って来た撫子と椿は、菫子の姿を見るや否や抱き付いて愛で始める。
そんないつも通りの兄弟の様子を、西條は優しい顔で見つめていた。