閑話 椿の決意
本編には直接関係ありません。
前世の記憶を戻した菫子の入院中の話を兄、椿視点で淡々と語ります。
医療知識はありませんので、違っていてもスルーでお願いします。
本編と書き方が変わりますのでご注意を。
「どうですか?」
くるりと回って真新しい制服を披露する妹はそう言うと、期待を込めた目を向けてきた。
その大きな瞳はようやく学園に通えることが嬉しいのか、キラキラと輝き。ふっくらとしたその頬は少し興奮気味なのか、桜色に色付いていて。
そんな妹の姿は言うまでもなく――
「うん、すごく可愛いね」
「えぇ、本当に!」
僕の言葉に、隣にいた姉さんがうんうんと力強く頷いた。
そんな僕らの言葉に、妹は少し困ったのか「ありがとうございます」と苦笑気味に笑顔を浮かべる。
そして「写真撮りましょう!」と姉さんが意気揚々に妹に飛びつくのを見守りながら、僕は少し昔のことを思い出していた。
僕には二人の兄弟がいる。
優しくて頼りになる姉と、無邪気で明るい妹。
男兄弟が欲しいと思ったこともあるけど、二人は僕にとってとても大切な存在で、大好きな兄弟だ。
特に妹は、僕よりずっと小さくて守ってあげなきゃいけない存在で、みんなで大切にしてきた。少し我儘だったけど、無邪気に僕に甘えてくる妹が可愛かった。
だけど、あの日。
三年前のあの日から、妹は変わった。
その日、僕はいつも通り姉さんと一緒に学校へ行っていた。
いつも通りの授業を受けて昼休みに入った時、突然先生に呼ばれた。「今すぐ一緒に職員室に来てくれる?」と焦った様子の先生に不思議に思いながらも、大人しく職員室まで付いて行く。
そして中に入ると、顔は青白くさせハラハラと涙を流した姉さんがいた。
「椿! 菫子が……菫子がっ病院に運ばれたって!」
僕の姿を見つけると、姉さんはそう叫んで抱き付いてきた。その時は全く意味が分かっていなかったけど、ただ姉さんが泣いている姿が悲しくて、辛くて、僕も一緒に泣いたんだ。
すぐに運転手が迎えに来て、そのまま二人で病院まで連れていかれた。道中もずっと泣いている姉さんの手を握り、早くいつもの笑顔に戻ってくれることを願っていた。
病院までの道のりは、とてつもなく長く遠く。
永遠の時間のように感じられた。
病院に着くと、入り口で待っていた父さんの秘書がすぐに駆け寄ってきた。よく家にくる彼の顔も、やっぱり青白い。
逸る気持ちを抑えながら病院の廊下を進み、奥にある部屋の前に案内された。部屋のプレートには、妹の名前が書いてある。
そして僕はドアを開け、目に入ってきた光景に息を呑んだ。
そこはどこまでも真っ白な空間。
そしてどこまでも人工的な空間。
そんな空間の中に、妹は眠っていた。
母さんは妹の手を握りながら涙を流し、父さんはその隣で母さんを抱きしめながら、少し怖い顔で妹を見つめていた。
僕と姉さんに気づいた父さんに呼ばれ、僕らも妹に近づく。いつもの明るい妹の面影はどこにもない静かに眠るその姿を、僕はじっと眺めた。
そっと妹の頬に触れてみると温かいはずなのに、どこか冷たくて。このまま消えてしまうんじゃないかって思えて怖かった。
「ねぇ……早く起きて」
小さく呟いたその言葉は、きっと届いていない。
だけど、そんな事しか僕には出来なかった。
「早く起きてよ」
じゃないと、みんなの笑顔が戻らない。僕も上手く笑えないんだ。
それから数日経ったある日、妹は目を覚ました。
願いが通じたと思って、僕はすごく喜んだ。みんなも、やっといつもの笑顔に戻った。これでいつも通りに戻れる。
――そう思っていた。
妹が目を覚ましたことが嬉しくて、みんなでベッドを囲み妹に話しかけた。
その時。
「ぁ……な、で……」
僕たちの顔を見ると、妹は目を大きく開けて固まった。
言葉にならない声を発しながら、驚きと動揺の表情を滲ませる。
そしてその身体は次第にガタガタと震え出し、僕たちから逃げるように距離を取ろうとした。
「ぁ、ぁ……ゃ、いや」
ベッドの上で縮こまりながら、小さな悲鳴を上げる妹。その顔は酷く怯えていた。
安心させようと父さんが抱きしめても、母さんが手を握っても、僕と姉さんが話しかけても、悪化するだけ。
――そして
「やあぁああああああああ!!」
妹の悲鳴が、部屋の中に響き渡る。
それは断末魔にも似た、絹を裂くような悲鳴だった。
その声に、顔に、行動に、みんなが固まった。
妹は僕らから逃れようと暴れ出し、叫び、涙を流した。
いち早く正気を取り戻した父さんが必死で妹を宥め、母さんも父さんの隣で一生懸命話しかけている。だけど僕と姉さんは呆然として、ただただ暴れる妹を見つめることしか出来なかった。
そしてすぐにお医者さんが飛んでくると、妹は眠らされた。再び眠りについたその顔には涙の跡が残り、腕や足は暴れた拍子に出来た傷のせいで血に塗れていた。
その後も妹は僕らを見ると怯え、暴れ、叫んだ。
泣きながら、血を吐きながら、僕らを拒絶する。
その姿は、僕にはとても異様で恐ろしいものに見えていた。目の前にいるのは、妹ではない別の誰かなんじゃないかって思えてならなかった。
ある時、僕だけ妹のお医者さんに呼ばれた。
「君のお父さんやお母さん……妹さんに痛いことをしなかった?」
何を聞かれているのか、よく分からなかった。
痛いことなんて、そんな事、誰も妹にしていない。だって、妹はいつも笑顔だった。無邪気に笑いながら、僕らに甘えていたんだ。
「痛いことなんて、してない」
そんな事してない。そう伝えると。
「そうか、ありがとう。ごめんね」
お医者さんはそう言いながら、僕の頭を優しく撫でた。
気付かないうちに泣いていたみたいだ。
そして数日後、僕らは妹の病室へ入ることが禁止された。
妹のいない家で、いつも通りのいつもと違う日常が始まった。
いつも笑顔で溢れていたはずの家は、異様に静かで。母さんはいつも悲しい顔をして、父さんは難しい顔をしていた。姉さんは明るく振舞っていたけど、みんなが見てないところで泣いているのを僕は知っている。
僕もいつも通り笑わなきゃって思ったけど、どうしても上手く出来なくて。学校へ行ってもうまく笑えず、友達にとても心配された。でも、どうすることもできなかった。
そんな日々は、数ヶ月続いた。
そして久しぶりにお医者さんに呼ばれた僕らは、妹のいる病院にやってきた。
そわそわした様子の僕らに、お医者さんは「そろそろ会っても大丈夫かもしれません」と伝えた。それは、いつもの日常に戻れるかもしれないということ。
すぐに会いに行こうとする母さんに、お医者さんは妹を刺激しないようにするために、一日一人ずつの面会を薦めた。もちろん「それでもいい」とみんな揃って答えた。
みんなは妹に会えることを喜んでいたが、僕は素直に喜べなかった。
会った時また、あんな状態になったら。怯えられたら。そう思うと、僕は怖くて堪らない。
妹の悲鳴が、いつまでも耳の中にこびり付いて僕を苦しめる。
そして次の日から、妹との面会が始まった。
父さん、母さん、姉さんと続き、僕が会う日になった。
みんなはもう大丈夫そうだと笑顔で伝えてくれたが、それでも不安は消えず手の震えが止まらない。
そして父さんに連れられて、ついに妹の病室の前まで来た。
けど身体が強張り、その先に進めなくなってしまった。妹の悲鳴が、幻聴となって聞こえてくる。
そんな僕の状況に気が付いた父さんは、がしがしと乱暴に僕の頭を撫でた。力強く、だけどその手はとても優しくて。そのまま撫でられていると、涙が込み上げてきた。
妹のあの悲鳴が恐ろしくて。怯えられることが怖いと思う自分が情けなくて。妹が怖いと思う自分は兄失格なんじゃないかって思えて。そんな自分がすごく嫌になって、気付いた時には父さんにしがみ付いて泣いていた。
しばらくして少し落ち着いた僕に、父さんはゆっくりと目線を合わせるように屈んだ。
「椿。この先にいるのは菫子、お前の妹だ。他の誰でもない、お前の守るべきたった一人の妹だ」
何度も何度も言い聞かせるように父さんは繰り返す。
その言葉は少しずつ僕の身体に染み渡った。
そうだ。この先にいるのは僕の家族。僕の妹。守ってあげなきゃいけないのに、僕がしっかりしなくてどうするんだ。
いつしか、身体の震えが止まっていた。
それを感じ取った父さんは僕の背中を力強く押した。
そして僕は、妹の病室へ入る。
最初に入った時と変わらない、どこまでも人工的で真っ白な空間。
けどそこにいる妹の姿は、最後に見た時よりも細く、小さく、弱弱しくなっていた。
静かに近づき、そっと小さな手を触れる。その手は、とても温かかった。
そして僕の手に反応したのか、ゆっくりと妹の瞼が開いていく。
妹は少し視線を彷徨わせると、一拍後には僕と目が合った。ドキリとした気持ちを隠し、妹の名前を呼んだ。
「……菫子」
「……つ、ばき……に、さま」
僕の手を握り、僕の名前を呼び、そして笑った。
それは、紛れもなく僕の妹。
いつもと同じ、僕の大切な妹だった。
「菫子、大丈夫だよ。僕が守ってあげるから」
小さな手を握り返し、僕はこの日誓った。
この弱くて愛おしい妹を、何からも守ることを。
そして入院してから季節が一回りを過ぎた頃、ようやく妹は退院の日を迎えた。
家に帰って来た妹は、病院での日々など嘘みたいに昔のように明るかった。楽しそうに笑い、無邪気に甘えてくる。
家族も使用人たちも、みんな笑顔に戻った。
いつもの日常が帰ってきた。
だけど、妹は変わった。
少し我儘だった妹は、少し謙虚になった。
ただただ甘えただった妹は、周りを気遣うようになった。
僕よりずっと子供だと思っていた妹が、たまに僕よりずっと大人のように見えた。
でも、僕は気にしない。妹は少し変わったけど、僕にとってはただ一人の妹に変わりないのだ。
それに僕はこれまで以上に、妹が愛おしく思えていたから。
だけど、変わってしまった妹は何かに怯えるようになった。
みんなでいる時、たまに怯えた顔をする。
眠っている時、夢の中で何かに怯えて泣いている。
妹は僕に気付かれていることに気付かず、それらを器用に隠していた。
妹が何に怯えているのか、僕は何も知らない。
もしかしたら、父さんたちは知っているのかもしれない。
けど聞いてしまうと、またあんな状態に戻ってしまうんじゃないかと思えて、怖くて何も聞けなかった。
――でも、それなら守ってあげればいい。
「――椿? 何やってるの?」
姉さんの呼ぶ声に、はっと我に返ると、二人は不思議そうな顔で僕を見ていた。
いつもなら一緒になって飛びつくのに、ぼーっとしていたのを心配したのだろう。優しい姉と妹に「ごめん、すぐ行くよ」と笑顔を向けると、途端に花が咲くような笑顔が返ってきた。
そう、何も知らなくたっていい。
あの日誓ったように、何からも、どんなことからも、守り抜りぬけばいいのだから。
「椿兄さま!」
僕に向けられるこの笑顔が、消えることのないように。
無邪気で明るい僕の妹。
弱くて愛しい僕の妹。
守れなかったと涙するのは
そう遠くない未来の話――
いずれ訪れる後悔を知らない、兄のお話。