杏と菫
それはある日の昼休み。花之宮学園初等科のとある教室は修羅場と化していた。
「ちょっと! それどういう意味よ!?」
女の子特有の甲高い叫び声に、ガヤガヤとしていた教室はシン……と静まり返った。
声の主は黒髪を縦ロールにしている少女。
可愛らしい顔を真っ赤に染めて怒りを露わにする少女の前には、迷惑そうな顔をした栗色の髪をサイドに纏めた少女が座っていた。
「そのままの意味だけど。もういい? うるさくて集中できないんだよね」
栗色の髪の少女はさもつまらなそうにそう言うと、興味を無くしたのかふいっと視線を動かし手に持つ本を読み進めた。自分を歯牙にもかけないその態度は、縦ロールの少女の怒りを助長させるには十分なもの。少女は悔しそうに固く唇を噛み締めた。
しかしこれ以上言っても無駄だと悟ったのか、少女は声を上げることは無くふんっ! と身体を反転させ鼻息荒く、足音も荒く教室から出ていった。教室の片隅をひと睨みするのを忘れずに。
そんな女の戦いが繰り広げられていた最中。
教室の片隅にいた菫子は、身体を縮こませてぶるぶると震えていた。
学園生活も二年が経過し、無事五年生に進級した菫子。これまでの学園生活は色々とあったが、そこそこ平穏なものだったと言えるだろう。
クラス替えでは、図ったかのように和樹、朔也、ひかり、そして環奈と同じクラスだった。友達が少ない菫子を心配して、西條が裏で手を回したらしい。にやにや笑っていた西條を思い出し、絶対そうだと確信していた。
もちろんそのことは嬉しいが、和樹と朔也と一緒なのは正直喜べなかったりする。
菫子は朔也とも蟠りが無くなり、友達と呼べる関係になった。そして「和樹は名前で呼んでるんだから、僕も呼んでね」と有無を言わせない笑顔で「朔也さん」と呼ばせられた。
死亡フラグのことを考えれば、まぁいいことだろう。しかしその代償として、さらに女の子たちから恨まれることになったのだ。
嬉しいような悲しいような。そんな複雑なスタートを切った新しい学園生活だったが、早々に事件が起こった。
事の発端はクラスメイトの縦ロールの少女こと、香坂理沙。政界の重鎮を祖父に持つ彼女は容姿にも優れ、少々高慢で自尊心の強いご令嬢だ。
その日、理沙は昼休みに入ると友人たちを引き連れてある少女の下へ向かった。
「ねぇ、杏子さん。お願いがあるんだけど」
「いいかな?」と理沙が声をかけたのは、栗色の髪をした同じくクラスメイトの五条杏子。大物女優の母を持ち、自身も芸能界で活躍し現在ドラマに映画にCMにと引っ張りだこの天才子役だ。
突然話しかけられた杏子は読んでいたドラマの台本から顔を上げると、不思議そうな顔で理沙を見つめた。
「お願い?」
「うん。あのね、今度ドラマの撮影現場に連れて行ってほしいの!」
理沙は両手をパンッと合わせ、「お願い!」と可愛らしく小首を傾げる。その姿は実に愛くるしく、自分の魅力の引き出し方をよく知っているようだ。
相手が男の子であればコロッと諭されてしまいそうだが、当の杏子は理沙の仕草と発言に訝しげな顔を向ける。
「どうして?」
「私ね、今度子役のオーディションを受けるの。だから一度本物の撮影現場を見ておきたくて」
「ごめん、無理」
嬉々として理由を語る理沙に、杏子はきっぱりとその頼み事を断った。まさかこんなにあっさり断られるとは思わなかったのか、きょとんと目を丸くし動揺を見せる理沙。
「えっ、な、なんで?」
「関係ない人は連れていけないし」
「ちょっと見学するだけ! 絶対邪魔しないから」
「そういう問題じゃないよ」
理沙は断られるもめげずに頼み込み、周りにいた女の子たちも「いいじゃない」「連れてってあげなよ」と援護の声を上げるが、杏子は一貫して意思を曲げない。しかし、何度言っても諦めない理沙たちのしつこさに杏子ははぁとため息を吐くと、咎めるような厳しい目つきで彼女たちを射抜いた。
「あのね、撮影所は遊び場じゃないの」
だから何度頼まれたって無理なものは無理だから。
杏子の強い口調と視線に、理沙たちはうっと言葉を詰まらせ黙り込んだ。それを見てようやく納得したかと安心し、杏子は「ごめんね」と理沙に告げると再び台本を読み始めた。
だが理沙は不満気にむっと頬を膨らませると、小さな声でボソッと悪態をつく。
「――なによ、母親が女優だから役が貰えてるくせに」
その言葉に、杏子はピクッと台本を捲る手を止めた。しかしすぐに顔を上げると、理沙にとびきりの笑顔と応援の言葉を贈る。
「オーディションは応援してるから頑張ってね。……まぁ香坂さん程度の顔の子はたくさんいるだろうけど」
皮肉と共に。
「……な、なにを」
杏子の発言に一瞬ぽかんと呆けた理沙だが、言葉を理解するとピクピクと顔を引き攣らせた。
そんな理沙の様子などどこ吹く風と、杏子は彼女を無視して「そうだなー……」と教室をぐるりと見回し、目的の人物を指差して告げる。
「桐島さんなら、文句なしで合格しそうだけどね」
その台詞に、教室の片隅で静かにひかりたちと語らっていた菫子は固まった。
(え、今……名前を言われた……?)
いやいやそんなまさか。首を振って現実逃避するも、目の前から注がれる同情の視線と、教室中から注がれる好奇の視線が、これは現実だ告げている。菫子はゴクリと唾を飲んでギ、ギ、ギと壊れたぜんまい人形のように首を動かすと、笑顔の杏子と憎悪すら含んだ鋭い目の理沙とバッチリ視線が絡み、サーッと顔面を蒼白させ心の中で叫んだ。
(ま、巻き込まれたぁーーーーー!?)
学年が上がっても、菫子の学園生活に安寧は訪れない。これが悪役の定めかと、ひっそり枕を濡らすのだった。
そんな出来事があり、現在菫子のクラスには少々気まずいムードが漂っている。
理沙たちはもはや口癖のように、「偉そうにしちゃって」「ちょっとテレビに出てるからって」等と、聞こえるか聞こえないかの絶妙な声量で杏子の陰口を叩く。
しかし一方の杏子はと言えば、理沙たちなど全く眼中に無く。涼しい顔で台本を読んだり、クラスメイトと話したり、その様子は普段となんら変わりない。その相手にすらならないという態度が、さらに火に油を注ぐ形になっているのだが、杏子が意図してやっているかは不明だ。
ついでに菫子も理沙たちから険しい顔で睨まれているが、それは杏子の発言が原因というよりも、理沙が朔也に好意を抱いているからだったりする。正直その手の嫉妬の念は三年生の頃から受け続けているため、不本意ながらも慣れていた。
結局、理沙たちが勝手にピリピリしているだけで、他の者は触らぬ神に祟りなしといった具合に距離を置いたり、興味が無かったり。意外にも、いつも通りの学園生活を送っていたりした。
菫子は簡単すぎる授業を聞き流しながら、こっそりと授業を受けている杏子の姿を眺める。
「五条杏子……か」
渦中の少女の名を囁き、うーむと腕を組んで思考を巡らせた。
五条杏子。
彼女もまた『Flower Princess』に登場するキャラクターの一人だ。しかも朔也ルートのライバルキャラとして登場する、菫子と同じ悪役キャラだったりする。
学園に入る前から子役として芸能界で活動し、あらゆる新人賞を総なめにした天才子役。そんな肩書きからか学校でいじめに遭い、酷く傷ついたところを朔也に助けられ、惚れてしまう。そして朔也への恋心を菫子に利用されてヒロインを苛めてしまうが、ある時我に返り、自らの行動を恥じる。その後真摯にヒロインに謝罪し、自ら学園を去っていくのだ。
菫子と同じライバルキャラだが、そのさばさばとした性格と潔い最後は、ライバルキャラでありながらかなりの人気を得ていた。菫子とは雲泥の差である。
同じライバルキャラなら、是非ともこっちに転生したかったと嘆いたのは仕方ないことだ。
やはり彼女もゲームとの違いは然程見られない。あえて言うなら、まだ朔也に惚れてないくらいだろうか。
だがさばさばした性格というのは、慕われやすい一方で反感も買いやすい。今はまだ理沙たちが騒いでいるだけだが、それがいつ本格的ないじめに変わるかも分からない。そうなれば、杏子が朔也に恋をする可能性は十分にある。
菫子とて、ゲームに登場する全てのキャラと関わろうとは思っていない。死亡フラグになりうる可能性だけ潰し、あとは自分を巻き込まないなら色恋沙汰は勝手にやってくれ! という考えでいる。現に杏子とは同じクラスになったものの、あいさつ程度しか言葉を交わしたことがないのだ。
しかし何を思ってかは分からないが、杏子はあの場で菫子の名を出した。
それは理沙をこき下ろしたいが為なのか、それとも菫子に悪意を持っているからなのか。
前者なら放って置いてもいいのだが、後者であれば話は違う。
もしも何らかの理由で杏子が菫子に悪意を持っていたら? その状態で杏子が朔也に惚れたら? ヒロインが現れて朔也と恋をしたら?
そうしたら、杏子はどう出る?
菫子の脳裏には、忌々しい限りの菫子死亡シーンが再生された。
(あ。死ぬかも)
エンディングまでの過程を想像してみた結果、見事死亡フラグが立ち、菫子は思わず机に突っ伏した。
想像したのは、最悪の展開。
もしも杏子が菫子に悪意を持っていたら。そんな杏子が朔也に惚れれば、朔也とよく話す菫子に嫉妬し、菫子への悪意を増幅させるかもしれない。
もしもその状態のまま高等科に上がり、ヒロインが登場して朔也と恋をしたら。菫子への悪意がヒロインへも向かい、ゲームのシナリオ通りにヒロインを苛め、さらにその罪を嫌いな菫子に擦り付けるかもしれない。
その先は、いつもの死――
(さすがに考えすぎかな……いや、でもゼロじゃないし)
杏子の性格上あり得ないと思いたいが、嫉妬に駆られた女は何をするか分からない。ゲーム内の菫子がいい例だ。そのため悪意を持たれているなら、死亡フラグが無いとは言えない。
菫子はうぅーと小さく唸り、頭を掻き毟りたくなる衝動を必死に耐えていた。
(……いや、落ち着いて菫子。そう、シナリオなんかに屈してはダメよ!)
そう気を鎮めるように自分に言い聞かせ、ふぅーっと深く息を吐き出す。
そして顔を上げた菫子の瞳には、静かな闘志が宿っていた。
(どうやったって私とゲームキャラを接触させたいのね……。いいわ、望むところ!)
どこの誰とも分からない相手に心の中でそう宣言し、「ふふ、ふふふふふ」と一人不気味に笑う菫子は、今が授業中だということを完全に忘れていた。
その日、花之宮学園初等科のある教室では、どこからともなく不気味な笑い声が聞こえてきたと、幽霊騒動があったそうな――
早速何か対策を練らねばと意気込んだ菫子だが、杏子との対峙はその日の内に訪れる。
放課後、菫子は一人美術室で水彩画を描いていた。
学年が上がっても相変わらず弱い身体は頻繁に風邪を引き、今日までの課題提出に間に合わず、放課後まで残って書き上げることになったのだ。ちなみに教師は先ほど放送で呼び出されて席を外している。
菫子ははぁーと重いため息を吐きながら、サラサラと描かれた花に色を付けていた。ここで素晴らしい花の絵を完成させられたらいいのだが、あいにく菫子には絵の才能は無い。
そして完成したのは子供にしては上手いが、何とも平凡な花の絵。
じっとその絵を眺め、前世の記憶があっても才能という枠は超えられないなとしみじみ感じる菫子だ。自分の才能の無さに苦笑いを零すと、タッタッタと廊下を走る音が聞こえ、次いでガラガラと美術室の扉が開かれる。
先生が帰って来たかなと菫子が顔を上げるが、そこには息を切らした杏子が立っていた。
「あれっ、桐島さん?」
「ご、五条さん?」
思わぬ杏子の登場に、菫子の心臓がドキリと音を立てて跳ねる。対して杏子は「私の他にもいたんだー、良かったー」と安心したように笑うと、菫子の隣に座って絵を描く準備をし始めた。
「五条さんも絵の提出ですか?」
「うん。ちょうど美術の日に仕事で来れなかったから間に合わなくって」
「急がなくっちゃ」と言って机に広げられたのは、菫子とほぼ変わらぬ画力で描かれてた花の絵。
(こ、これが才能の差……)
「……お上手ですね」
「そう? ありがとう。けど桐島さんの方が全然上手いじゃん」
杏子としては本音を言ったつもりなのだが、あいにく菫子にとっては皮肉にしか聞こえない。しかも居残りの理由もドラマ撮影のため。体調不良の自分とは大違いだと、杏子との差にハハハ、と乾いた笑いしか出なかった。
「……」
「……」
しかし、その後二人は何かを話すことはなく。杏子が生み出すテンポの良い筆の音が、その場を支配した。
教師が来るまで帰るに帰れない菫子は特にやることもないので、黙々と絵を描く杏子の横顔を観察する。
丁寧に手入れされている栗色の髪は艶やかで美しく、ぱっちり二重の瞳は強い力を感じさせ、スッと通った鼻筋はどこか日本人離れした印象を受けた。
(父親って日本人じゃないのかな?)
ゲームでの設定は知らないが、今の杏子の母親は未婚の母として杏子を産み、父親は公表されていないのだ。そう思うとハーフ顔にも見えるが、菫子にそのことを知る権利は無い。
そんなどうでもいいことを考えながら杏子の観察を続けるが、見れば見るほどうーんと首を傾げる羽目になる。
(……悪意はない、のかな?)
せっかく訪れたチャンス、菫子は杏子の本心を見極めてやろうと意気込んだのだが、拍子抜けするほど何も無かった。菫子を見て「良かったー」と笑ったり、迷わず隣に座ったり、今も会話は無いが特に警戒しているようには感じられない。杏子からは菫子への悪意は全く感じられなかった。
あれは考えすぎだったかなと思うも、可能性は捨てきれないと菫子は穴が開くほど杏子を見つめる。しかし、ジロジロ見続ければ気が付かれないわけがない。杏子は困った顔を菫子に向けた。
「えっと……桐島さん、私の顔に何かついてる?」
「へっ?」
「さっきからずっと見てるから、何かなーって」
「あ、ご、ごめんなさいっ! 失礼でしたね!」
「ううん、何もないならいいんだけど」
菫子もさすがに不躾だった反省し、慌てて杏子に謝罪して視線を逸らした。杏子は菫子の慌てように不思議そうな顔をするが、特に追求をすることはなく。止めていた筆を再び動かし始め、絵の完成を急いだ。
結局その後は教師が帰って来るまで、二人の間に会話は無かった。




