朔也の事情 1
「お休み、ですか?」
「あぁ。一昨日からな」
和樹から教えられた情報に、菫子はきゅっと唇を噛み締めた。
朔也が立ち去ったあと結局菫子は動く気力を無くしてしまい、椿の委員会が終わるまでそのまま外で呆然と立ち尽くしていた。その結果案の定風邪を引いて熱を出し、そうなれば過保護な家族が学校に行かせるわけもなく。丁重な看護と共にベッドの住人と化したのは、いつものことである。
そして三日後。熱も下がり学校へ行こうとした菫子を「今日も休む?」「無理しちゃダメだよ」と引き留める家族に苦笑いしつつ、大丈夫だと必死に宥めてようやく学校向かうことが出来たのだ。
三日ぶりの教室に入れば、ひかりと環奈がいち早く駆け寄って来て「風邪はもう大丈夫?」と気遣ってくれた。心配してくれる友人たちの言葉を嬉しく思うが、「大丈夫です、ありがとう」と言葉少く返し、その足は和樹の下へと向かう。
学校を休んでいた三日間、考えていたのはもちろん朔也のこと。これからどうしたらいいのかをひたすら悶々と考えていた。熱はある種、知恵熱でもあるだろう。
しかし、考えたからといって別段いいアイディアが思いつくわけもない。さらには後味の悪い別れ方に自分から会いに行くことはどうにも憚られてしまい、とりあえず和樹に探りを入れてみることにしたのだ。
近づく菫子に気が付いた和樹は、挨拶も無しに「相変わらず身体弱いな」と意地悪気に笑う。いつもならむっとするところだが、それを無視し挨拶もそこそこに朔也の様子を聞いてみれば、返ってきたのは朔也も菫子と同じく休んでいたという答えだった。
「風邪が流行っているんだな。お前はいつも通りだけど」
「……そうですね」
「朔也も今日は来てるかもしれないな」
「……そうですか」
「……まだ治っていないのか?」
曖昧な相槌に様子に具合が悪いと思ったのか、和樹は菫子の顔を覗き込む。その声にはっと我に返った菫子は「いえ、もう全然大丈夫ですわ」と話を切り、そそくさと和樹のそばから離れた。
去っていく菫子のうしろ姿を、和樹は怪訝な顔で見つめていた。
「――さん、――しまさん、桐島さんっ」
「はっはい!」
三時間目が終わりぼーっとしながら授業道具を片づけていた菫子に声を掛けたのは、担任の女教師。声をかけても反応が無い菫子の腕を揺さぶり、その存在を気づかせた。
菫子はというと、朔也が休んだのは自分のせいかもと罪悪感に陥っており、授業にも集中出来ず一時間目から終始上の空だった。腕を揺さぶられようやく担任に気が付き慌てて顔を上げれば、眉を下げて心配そうにこちらを見つめる視線とぶつかる。
「顔色が良くないわ。医務室で休んできなさい」
「大丈夫です。少しぼーっとしてしまっただけで」
「西條先生から桐島さんの大丈夫は当てにしないようにって言われているのよ」
その言葉にぐうの音も出ず、菫子は項垂れた。
菫子をよく知る医者の言葉を言った担任は、困ったように笑いながらしゅんとする頭をふわりと撫でる。そして「行きましょうか」と優しくその小さな手を引き医務室へと向かった。
「ではあとはお願いします」
「はい、お疲れ様です」
担任は菫子の容体を西條に伝え、「お大事にね」と菫子に声をかけて医務室を出ていった。
西條は担任が部屋から退出するのを見送ると「さて」と椅子から立ち上がり、扉の前から動かない菫子の目線に合わせるように屈み込んだ。
「熱は無さそうだな」
「……」
「なにぶすっとした顔してるんだ」
「ひゃ、ひゃにひゅるんでひゅかっ」
西條が担任に伝えた言葉を根に持ってぶすっと頬を膨らませる菫子。拗ねた仕草を見せる菫子に西條はニヤリと笑い、柔らかい頬っぺたをむぎゅっと左右に引っ張った。
突然の暴挙に菫子は声を荒らげるが、西条は人差し指を立てると声を静めて菫子を叱責する。
「しー。先客がいるから静かにな」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
カーテンで閉ざされたベッドを指差され菫子は咄嗟に謝るが、少し赤くなった頬を両手で抑えて「わたくしのせいじゃないのに」と小さな声で文句を言う。
その言葉に西條はもう一度笑うが、ふざけた雰囲気から一転。真剣な医者の顔つきに変わった。
「あんまり寝れなかったんだろ。隈が出来てる」
「うぅ……」
「ほら、少し寝てろ」
この医者に誤魔化しは通用しない。優しく、しかし強制的にベッドへ誘導されてしまえば、抵抗など無意味なこと。それを重々知っている菫子は、大人しくベッドに潜り込んだ。
横になり隣を見上げれば、微笑む西條が菫子の頭を優しく撫でる。その手がとても心地良くて、ここなら大丈夫だと、何故かそんな気持ちが芽生えた。
初めて会ったのは三年前。その間に、菫子にとって西條のそばは不思議と安心できる場所になっていて――
「お休み」
どうしてだろうと考えようとするが、自然と落ちてくる瞼に抗うことが出来ず。「お休みなさい」と言ったか言ってないか自分でも気付かぬまま、すっと穴に落ちたように意識をまどろみの中に落とした。
規則正しい寝息が聞こえてくるまで、西條は静かにその小さな頭を撫で続けていた。
◇◆◇
「……んぅ……いま、なんじ……」
どのくらい寝ていたのか。
寝起きでまだぼんやりとしているが、朝よりだいぶ軽くなった身体をゆっくりと起こす菫子。妙に頭がスッキリしていて、長い時間眠っていたようにも感じられた。
ベッドから降りてカーテンを開けるがそこには誰もおらず、不思議に思い部屋を見回す。いなくなった部屋の主を探していると、机の上に西條の文字で【少し出ています。緊急の場合はこちらに】と番号の書かれたメモを見つけた。ふぅんとそれを眺めると、視線を時計へと移す。
時計の針は、一時半を指していた。
「……お昼、食べ損ねた」
ぼそりと呟く。
中途半端な時間にもう一度寝ようかと考えるが、冴えきった頭では二度寝に持ち込めそうもない。早々に諦めてふかふかのソファーに座り込み、する事もないので明るい日差しが差し込む窓の向こうへと視線を向ける。
医務室の窓からは初等科のグラウンドを見ることができ、今の時間は上級生が楽しそうに笑いながらサッカーで汗を流していた。菫子はその光景と自分の現状を見比べ、これは完全にサボりだなと思わず笑う。体調は良くなったので本来なら教室に戻るべきだが、どうにも足が動かない。少し考えるも、結局まぁいいやとその身をさらにソファーに沈み込ませた。
「……どうしようかな」
無意識に零したその言葉は、静かな部屋に異様なほど大きく反響した。
――その時。
「……だれ」
閉ざされたカーテンの向こうから、小さな声が聞こえてきた。
寝起きなのか少し掠れているその声は、ここ三日ずっと悩まされた声で。菫子はギクリと身体を強張らせる。
そしてシャッと音を立てて開かれたカーテンの先から現れたのは、想像通りの人物だった。
「……菫子、ちゃん?」
「お、おはようございます橘さま。起こしてしまいましたか?」
「……ううん。大丈夫だよ」
まさか菫子がいるとは思わなかったのだろう、朔也は目を見開き驚いた表情のまま立ち尽くしていた。熱があるのか、目が潤み、頬が少し赤い。だが西條がこの場を離れたということは、それほど熱は高くないのだろうと判断し菫子は勝手に安心した。
「……」
「……」
しかし、二人の間には四度目の沈黙が訪れる。
お互いあの日のことを気にしてしまい、なんと声をかければいいのか分からなかった。
無言のまま気まずい空気が流れるが、ここままじゃダメだ! と意を決して話しかける。
「あ、あの、こちらに座りませんか?」
「……うん」
あの日とは逆に、菫子が朔也を隣に誘う。
ポンッとソファーを叩く菫子に朔也は少し怯むように視線を彷徨わせたが、恐る恐るといった様子で頷いてソファーに座った。
二人の距離は、あの時より少しだけ遠い。
隣に座らせたはいいが、これからどうしようかと菫子は必死に考えていた。
あの日のことを謝ろうにも、菫子から謝るのはおかしい。本来なら知りえない朔也の事情。それを知っていると知られるのはまずい。後に追求されてしまえば、言い訳が難しくなる。
話の切り出し方が分からずどうしたものかと内心唸っていると、口を開いたのは朔也だった。
「――――ごめんね」
それは小さな声。
聞き逃してしまいそうなほど小さいが、菫子にはしっかりと届いたその声。
菫子が隣に顔を向けば、こちらを見ていた朔也と視線が絡む。そして、今度ははっきりと告げた。
「……ごめんね、菫子ちゃん」
それは、今までの行動のことか。それとも、『嫌い』と言ったことに対してのことか。
それとも両方のことなのか菫子には分からなかったが、返す言葉はこれしかない。
「――気にしていませんわ」
『自分にも非があったから』
その言葉を飲み込み、涙目の朔也を安心させるようにニコリと笑いかけた。
菫子の言葉と笑顔にほっとしたのか、朔也の口元が緩んだ。それを確認して続ける。
「……理由だけでも聞いてもいいですか?」
菫子の問いかけに、朔也の身体は強張った。
そんな朔也に申し訳ない気持ちが湧き上がるが、菫子が謝るためにはどうしても問うしかない。こうなってしまった以上、少しの蟠りも残したくないから。
怒られた子供のように身体を縮こませた朔也は、「あのね」と問いかけに答えた。
「……僕さ、全然家族に会えないんだよね」
そう言うとソファーの上に足を引き上げ、両手でぎゅっと抱え込み小さくなる。
「会えない?」
「……うん。お父さんもお母さんも外国で仕事がいっぱいあるみたいで、あんまり家に帰って来ないんだ」
寂しそうな、苦しそうな、そんな悲しげな声で言葉を紡ぐ。
「みんな一緒だったのだって、一ヶ月くらい前かな」
妙に饒舌なのは、熱のせいだろうか。
「あの日も、ほんとは帰ってくるはずだったんだけど、仕事になっちゃって」
それは、菫子と庭園で話した日のことだろう。だから母親との電話の後、朔也はあんな顔をしたのか。
朔也が自分の現状を寂しげに話すのを隣で聞いていた菫子だが、確信を得たいが為にある事を問いかけた。
「……では、いつも家に一人で?」
「ううん、叔母さんの家に行ってるよ。……けど――」
その先の言葉は続かず、朔也は口を閉ざして顔を伏せてしまった。
しかし、菫子には十分にその先の言葉を予想する事が出来る返答。
そして、確信した。
(やっぱり、ゲームと同じだ……)




