嫌い
澄み切った高い空。吹き抜ける風は少し肌寒く、秋の訪れを感じさせる。
授業も終わり委員会活動に勤しむ兄弟を待つ菫子は、一人で学園内を探索していた。広大な敷地を持つ花之宮学園には行ったことのない場所が多くあり、学園探索は菫子の日課の一つでもある。
今日は学園の中央にある庭園に来ていた。咲き乱れる色とりどりの花々や、前衛的なデザインの噴水は、その空間に癒しを与える。自然豊かで美しいこの庭園は、校内デートしたい場所一位にも輝く学園内でも特に人気のあるスポットだ。
ちらほらと見かける初々しいカップルを尻目に、菫子は噴水近くのベンチに腰を下ろしてのんびりと景色を楽しんでいた。
そのままぼーっと過ごしていると、遠くの方から聞き覚えのある声が菫子の耳に入ってくる。
誰だろうと耳を澄ませてみれば、あまり会いたくない人物の声だと気が付いて眉を顰めた。
(……橘朔也だ)
声の主を思い浮かべ、さらに眉間の皺が深くなってしまう。
サマーパーティーの一件以来、菫子は朔也を避けていた。それはもう徹底的に。
常に周囲を警戒し、姿を見つければすぐに方向転換したり、話しかけられても挨拶だけして素早く逃げたりと、神経をすり減らしながら頑張っていた。
多少強引なところもあったが、朔也絡みのトラブルは目に見えて少なくなったので良しとしている。ちなみに和樹とも少し距離を置いてみようかと試みたが、目に見えて不機嫌になったので即日に終了となった。
絡まれるのも面倒だから移動しようと腰を上げれば、こちらに向かって歩いてくる朔也が目に入る。慌てた菫子は咄嗟に近くの茂みに身を隠した。
「――うん、……うん、わかった」
朔也は誰かと電話をしており、先ほどまで菫子がいたベンチの近くで立ち止まる。
息を殺すように身を潜める菫子だが、いつもより暗い声色の朔也が気になって茂みの隙間からそっと様子を盗み見た。
「……そのまま向こうに行くよ。……うん。じゃあね、お母さん」
電話の相手は母親のようだ。会話を終えて電話を切った朔也だが、そのままじっと携帯の画面を見つめていた。
菫子はその姿に息を飲んだ。
それは、今にも泣き出しそうな、酷く悲しげな顔。
初めて見た、笑顔ではない朔也。
――そしてその姿は、ゲームの朔也を彷彿とさせるものだった。
そんな朔也の姿に気を取られた菫子。少し身体を動かした時に茂みがガサリと大きく揺れ、その音にハッと反応した朔也が茂みへと視線を向けた。
不審に思った朔也は恐る恐る茂みを覗き込み、しゃがんで身を隠す菫子を発見したのだ。
「……菫子ちゃん何してるの?」
「――か、かくれんぼですっ」
咄嗟についた嘘に、二人の間に沈黙が走る。
苦しすぎた言い訳にじわじわと顔を赤くする菫子だが、朔也は特に詮索もせず「そっかー」と軽く返した。余計にいたたまれなくなっていると、朔也は傍にあるベンチに座り隣をぽんぽんと叩く。
「その鬼まだ来ないんでしょ? 少し僕とお話ししない?」
そう問いかける朔也は、いつも通りの笑顔だった。
「……はい」
「ありがとう」
少し考えた菫子だが、今更逃げても仕方がないかと腹を括り、その誘いに乗ることにした。スカートに付いた葉をぱっぱと払い、隣に腰かける。
「今日もいい天気だねー」
「本当に。でも少し寒くなってきましたわ」
「そういえば身体弱いんだっけ。気を付けないとダメだよ?」
「はい、ありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
「……」
「……」
世間話もすぐに終わり、再び二人の間に沈黙が続く。
(き、気まずいな……)
思い返しても、朔也と世間話なんてした記憶もなく。早々に誘いに乗った事を後悔する菫子に対し、朔也は足をぷらぷらと揺らしながら、どことなく楽しそうな様子で再び話し出した。
「菫子ちゃんって和樹と仲良いよね」
「……そう、でしょうか。わたくしよりも橘さまの方が仲が良いと思いますけど」
「えーそうかな? だって菫子ちゃんって和樹のこと好きでしょ」
「なっ、違いますっ!」
いきなり切り出されたそれに、菫子はなんでそんな噂が立ちまくっているんだ! と苛立ちを覚えながら否定する。勢いよく否定されて少し目を瞠らせた朔也だが、すぐに食えない笑みに変わった。
「そうなの? かっこいいし、頭もいいし、あの鷹ノ宮家だよ?」
「ただの友達ですわ」
「でも二人のお母さんもすごく仲良いんだよね?」
「それはそれ、これはこれです」
「へぇー。僕、二人って婚約者になると思ったんだけどなー」
「それはありえませんっ!」
「……ふーん」
妙に突っかかりを感じる言葉に菫子はその都度青筋を浮かべ、婚約云々に至っては食い気味で否定した。
すると朔也はその否定の言葉を聞くと、スッと目を細めた。どこか冷たく感じるその視線に菫子は一瞬怯みそうになるが、負けじとキッと睨みつける。
そして二人の間には、三度目の沈黙の時間が訪れた。
風の音が、水の流れる音が、木々のざわめきが、その場を支配する。
ほんの数秒のはずなのに、逸らせないその視線はとても長い時間そうしているように感じさせた。
――その時。
プルルップルルップルルッ
『――っ!』
静寂を切り裂くように、規則正しい機械音が鳴り響く。
「あっ、わたくしのです!」
自分のポケットから鳴っていることに気が付き、菫子が慌てて携帯を取り出して見れば、椿からの着信だった。気まずい空気を一掃してくれた着信に、なんていいタイミングなのお兄様! と兄の好感度を上昇させて意気揚々と出ようとした時、はたとその存在を思い出した。
チラリと隣に視線を送ると、朔也はひらひらと手を振りながら笑っていた。それを了承の意と取り、菫子はぺこりと頭を下げてからベンチを少し離れて電話に出た。
「椿兄さま、終わりましたか?」
『ごめんね菫子、まだ時間がかかりそうなんだ。だからもう少し待っててくれる?』
「分かりました。終わったらまた電話してください」
『うん、じゃああとで……あ、もう外は寒いからちゃんと校舎の中で待ってるんだよ?』
「はい、椿兄さまも委員会頑張ってくださいね」
『ありがとう』
相変わらず過保護な兄に、苦笑して電話を切る。
ふぅと一息ついてベンチに戻れば、そこには顔を伏せて真剣な顔で携帯を見つめる朔也がいた。菫子は思わず足を止めたが、足音に気が付いて顔を上げた時には再び笑顔に戻っていた。その笑顔に違和感を覚えるも、再び隣に腰を下ろした。
「お兄さんから?」
「はい。兄さまがまだ時間がかかると」
「そっか。じゃあ鬼はまだ来ないんだね」
「……そ、そうです、ね」
そういえばそんな設定すっかり忘れていた。
菫子はさっと視線を逸らし曖昧に笑って誤魔化す。しかし朔也はそんな菫子の様子を歯牙にもかけず、小さく言葉を漏らした。
「……仲良いんだね」
「え、兄さまのことですか? そうですね、仲は良いと思いますわ」
朔也の問いかけに、菫子は電話での椿の言葉を思い出す。
『もう外は寒いからちゃんと校舎の中で待ってるんだよ?』
この言葉は、菫子を心配して言ってくれたもの。
椿は優しい。いつも自分のこと以上に菫子を気にかけてくれる。溢れんばかりの愛を、惜しげもなく注いでくれる。
言葉で、態度で、愛されていることを教えてくれる。
もちろん椿だけではなく、父も母も撫子も同じで。
そしてそれは、菫子をひどく安心させてくれるものだ。
――間違っていないのだと、実感させてくれるものだから。
「優しくて頼りになる兄さまたちが、わたくしは大好きですから」
打算的な部分もあるが、それを抜きにしてもやはり家族からの愛情は嬉しい。家族を想い思わず出た言葉に、少し照れながら笑う菫子。
そんな菫子の言葉と笑顔に、朔也はぐっと唇を噛んで顔を伏せた。
てっきりいつものように「そっかー」と軽い口調で返ってくると思っていた菫子は、いつもと様子の違う朔也に首を傾げる。
「……橘さま?」
「……」
「あ、あの」
「――しいな」
躊躇いながら話しかける菫子に、変わらず伏せたままの顔は窺うことはできない。そしてもう一度菫子が声をかけた時、朔也はぽつりと言葉を零した。
「……んで……なんで、菫子ちゃんは…………なの」
その声はとても小さく、所々しか聞き取ることができない。
しかし、声色からは菫子に対する焦りや苛立ちが確かに感じ取れた。
その声に菫子の胸が嫌な音を立てて騒めき出す。
脳裏に過るのは、やはりゲームの記憶で――
思い出した場面は、今と同じ学園の庭園。
違うのは朔也も菫子も成長していることと、主役が、ヒロインが、共にいること。
【菫子ちゃんのせいなんだね?】
怪我をしたヒロインを抱き上げ、菫子に軽蔑の眼差しと声を向ける朔也。それに対し菫子は悔しそうに唇を噛み締めながらも、なおヒロインを睨み続ける。
【あなたさえいなければ……!】
そう呟く菫子の眼は、ヒロインへの憎悪に満ちていた。
【……いらないのは君じゃない?】
そう吐き捨てる朔也の眼にも、菫子への憎悪が溢れていた。
(――違う……違う、違うっ、それはゲームの話だ!)
ゲームの記憶に引きずられそうになる自分を必死で諌めるよう、大きく息を吐き出す。
そして頭を駆け巡るゲームの記憶の中に、ある事を思い出した。
同時に、自分の軽率さを呪った。
――あぁ。失敗した。
「あ、あの、橘さまっ」
失敗に気が付き焦って声をかけるも、もう遅く。
「……そろそろ帰るね」
菫子の声を遮るように朔也が立ち上がる。
追いかけるように菫子も立ち上がるが、何を言ったらいいのか頭の整理が追い付かず、口は開くが、そこから音が漏れることはない。
言い淀む菫子に、朔也は「ごめんね」と呟き菫子に向けて笑顔を作った。
そして、ある言葉を言い放つ。
「僕、菫子ちゃんが嫌いだな」
そう言い切った朔也に、菫子は言葉が出てこなかった。
何も答えない菫子に朔也はもう一度「ごめんね」と呟き、背を向けて去っていった。
菫子は小さくなっていくその背を、ただただ見つめることしか出来なかった。
泣きそうな朔也の声が、
無理やりに作った朔也の笑顔が、
酷く傷ついたようなその姿が、目に、耳に、焼け付いて離れなくて。
『僕、菫子ちゃんが嫌いだな』
菫子を傷つけるはずの言葉が、朔也自身を傷つけているように見えてしまったから――
 




