海神の島
サメへの愛が燃えたぎり迸り、そして「ロマンティックな話を書こう!」という思いつきと融合した結果の産物。半分ぐらいがメシの話になっているが、書いた当人は民話的な神話っぽいものを目指していたんです。
あの海の中に、わたしは入ってゆける。
けれど、あの海の中では、わたしは生きてはゆけない。
ここは、古い火山が造り上げた島。
海神たる大鰐様を、お祀りする神域。
わたしは、ここで生きていく。この水底の「海神の宮」で。
穏やかな光が降り注ぐ。聞こえてくるのは潮騒。揺れて流れる波の音。
見上げれば、水晶の窓の向こうに、水面が煌めいている。
真っ白な凝灰岩の床に、波紋を潜りぬけた光の輪が踊っている。
この空間を支えるように四方に聳えているのは、白い珊瑚の柱。折り重なり積み重なった、海の歴史そのものだ。
柱になった部分は、もう真っ白な骨。
けれども、あの天井の向こう側、海の中に突き出た先端は、生き生きと呼吸をして、そして海で暮らす生き物たちを育んでいるのだ。
珊瑚の柱。石灰岩の柱。凝灰岩の柱。溶岩の柱。まるで深い森のように林立する。
海と大地が交わるこの森の奥が、彼女と大鰐様の暮らす世界。
海底から地底へ。差し込む光に宿る模様は、踊る輪から寄せて返す波へと変わり、そうしてすっかり辺りは暗くなる。それに慣れるために、少しだけ待つ。
ぽつぽつと、蛍のような光が見えはじめると、やがてこの洞窟中が、一面の星空のような光のさざめきに呑み込まれる。
白い衣を翻して、地底の宇宙を、彼女は二本の足で進んでゆく。
青い水底に沈んでいくような階段を降りた。地底湖の水面までの階段の段数を数えて、月の満ち欠けと照らし合わせる。明日の晩はきっと大潮だろう。
呼吸をしっかりと落ち着けて、大きく息を吸い込んで、それから潜る。
(ああ、水の中の世界は、何と美しいのだろう!)
真っ青に輝く「港」から、ぽっかりと暗い溶岩洞へ、何の躊躇もなく進む。
押し合いへし合い、山盛りに積み重なって、ネムリブカたちが寝ていた。微笑をこぼしてそれを見る。夜間は珊瑚の隙間に眠る魚たちを片っ端から血祭りに上げていく、獰猛な集団になる彼らだが、こうして眠っている様は実に愛らしい。
先に見え始めた光の方へ向けて、さらに進んでいく。
少し反った鼻が特徴的な、いつものヤジブカが、出口で彼女を出迎えてくれた。
この島のサメたちは、全て大鰐様の眷属だ。だから彼女とも話ができる。
(大鰐様はどちらに?)
自分が水に入る音ぐらい、大鰐様には聞こえているはずだ。だから彼女が溶岩洞を抜ける頃には、その近くに来てくれているのが常だった。
(オ食事中)
よく見れば、ヤジブカは何やらうずうずと身を震わせている。大鰐様の食事がまき散らす血の匂いにあてられているのだろう。
サメには狂食という習性がある。誰かが狩った獲物に食らいつくと、その血の匂いに反応して、周辺にいるサメたちも凶暴さを増してしまうのだ。
(ありがとう。じゃあ、食後にね)
間の悪い時に来てしまったと思いつつ、水面に顔を出して、肺の空気を入れ換える。
それから、海底と間違えてオオセを踏まないように注意しつつ、珊瑚礁の輪に囲まれた島へと泳いでいく。この堡礁の中央にある島に、人と海を繋ぐ社はある。
社に人が来るのは、年に二度ある大祭の時だけだ。巫女は物心つく前の子どもの時に選ばれて、この社へとやって来る。そうして、先代の巫女から、大鰐様と共に生きることを学んで育つ。
彼女を育てた先代が亡くなったのは、ずいぶん前のことだ。
代々の巫女の墓所は、島の奥の黒い洞窟の中にある。石段を上がった先に、亡骸を寝かせる場所がある。何年も何年も寝かせて、白い骨だけが残ったら、それを残らず拾い集めて、外海へと向かう。そうして、深い深い海の底へと、その骨を沈めてゆくのだ。
亡骸をそのまま海に帰さないのは何故か、と問うた彼女に、答えを呉れたのは大鰐様だった。
「巫女の肉は聖なるモノだ。海のものは食べてはならない。だから肉は大地に返す。誰にも汚されぬ骨になった時、彼女は我らの世界へと還ってくるのだ」
聖なるモノなら、なおさら食べさせてあげたいと思ったけれども、これが大鰐様や海のものたちの敬意の表れなのだろう。
島に生える木々から実をもいで囓る。それから社に向けて歩き出した。
海の巫女だからといって、魚や海藻ばかりで日々を過ごしているというわけではない。年に二回の大祭の時には、米やら豆類、干した野菜やらキノコなどが、丁寧に包まれて捧げられる。
なお、基本的に海産物は届けられないが、鰹節だけは別である。海の神様に海の幸を捧げるのは不思議だったが、先代によれば「ここまで人の手が入ったものは、むしろ人と海との繋がりの象徴になる」ので、問題はないらしい。
そういった捧げものや、島の木々や、周囲の海の恵みのおかげで、食べ物に不自由したことはいまだかつてない。道具類なども、何十年かに一回の儀式の時に新調されるので、何も問題ない。むしろ苦労するのは服や、こまごまとした日用品の方だ。
年に二回の大祭の時に着る儀式用の衣装の他は、日常着と称する動きにくい衣装が何着か捧げられるだけである。とても、それを着て海に潜る気にはなれない。
なお、外界の者と口を聞くことは禁じられている。なので、潜りやすく泳ぎやすい服を捧げものにして欲しいと訴えることはできない。そういうわけで、手持ちの材料を駆使しつつ、彼女は先代から教わったように服を縫う。一針一針丁寧に、ゆっくりと作業を進める。この社にあるのは全て限られたモノ。何一つ無駄にしてはならないのだ。
木陰でちくちくと針仕事を進める。花々が咲き乱れ、蝶や蜜蜂が飛び交っている。この島で手に入る、果物以外では唯一の甘味が、蜂蜜だ。蜂たちを怒らせずに、必要なだけをお願いして分けてもらう。先代の真似からはじめて、今では虫たちとも話ができる。
虫の声、木々の声、この神域の生き物たちすべての声を、彼女は聴く。
風の色合いが変わった。遠くで雨が降り始めたのだ。午後の雨がやって来る。
縫いかけの服を持って、社の中に入る。窓からの明かりで作業を続けていると、しばらくして急に辺りが暗くなった。そう感じた次の瞬間には、驟雨が島を包む。
(浅瀬の子どもたち、雨が上がったら見に行きましょう)
膝がやっと浸かるかどうかという浅瀬には、小さなウチワシュモクザメの子どもたちがいる。彼らの調子を見に行くのは、彼女の午後の日課である。
自分が出産に立ち会ったのもあるだろう。ただ、シュモクザメ目の中でも群を抜いて小さなウチワシュモクザメは、成体でも庇護欲をそそる程度の大きさである。
彼女は大鰐様の巫女として、全てのサメおよび海の生き物たちに平等に慈しみの気持ちを抱いているが、大きな魚が来ると怯えたように丸くなってしまうトラザメたちは、特に可愛らしいと思うし、魚の癖に海底を歩き回るのが趣味というモンツキテンジクトラザメたちには、思わず頭を撫でたくなるような心も抱いている。
なお、大きなサメたちには、一緒に泳ぎを楽しみたいと思ったり、格好良い姿をずっと眺めていたいと思ったり、抱きついてみたいと思ったりしている。
もちろん、彼女のそんな思考はサメたちにも筒抜けである。先日はミズワニと浅瀬巡りをした。そういえば、思いの外浅いところで、ネコザメがサザエを囓っていた。
(夕食はサザエにしようか。あと、海葡萄を供物の酢で和えたら、良い一品になるのでは……そうすると、サッパリした白身魚も合わせたい……あ、アサリ!)
澄まし汁に使うアサリの砂抜きが、そろそろ一段落した頃だ。裁縫をしようにも灯りが足りない状況なので、まずはアサリの砂抜きをより入念にしておくことに決めた。
塩水を取り替えるついでに、厨にある貯水用の石甕の中を確認する。
(思ったよりも使ってたな)
島には泉も湧いていて、真水には困らない。だが、泉まで汲みに行っていては、雨上がりの子ザメ見舞いに差し支える。それになにより、こんな大雨の中、森の奥まで行くというのは、いかに代々の巫女によって道が開かれているといっても面倒だ。
というわけで、彼女はありったけの器を抱えると、大雨の中に出た。土砂降りの雨水で器を軽く濯ぐと、それらを社の周囲に並べる。器はみるみる真水で満たされていく。
石甕がいっぱいになるまで、雨の下と厨とを往復した。ぼちぼち雨足が弱まってくる頃には、石甕は真水で満たされた。器に残った水を、彼女は美味しくいただいた。捨てるのはもったいないので、残りは今日の夕食だ。
と言いながら、夕食の確保はまだである。
彼女は短刀を腰に差し、槍と草の繊維で編んだ網とを持って、社を飛び出した。
ウチワシュモクザメの子どもたちは、今日もみんな元気なようだった。
よしよしと何匹かの背を撫でると、砂に槍の柄を突き刺し、網だけ持って移動した。
腰ほどの深さの浅瀬で、じゃれついてくるツマグロを避けながら、彼女は海に潜る。
先日ネコザメを見かけたあたりを泳ぎ回れば、サザエが岩にいくつもへばりついているのが目に入る。本日いただく二つ分だけを網に回収して、ウチワシュモクザメたちの浅瀬まで、一度戻る。ネコザメたちは、この網に回収されたサザエには基本的に噛みつかないが、中にはそそっかしいのもいる。以前、よけておいたつもりのアワビをトラザメに取られた時には、ずいぶんと落ち込んだ。なお、そのトラザメについては、大人しく撫で撫でさせてくれたので許すことにした。
槍を引き抜いて、再度海に潜る。ツマグロたちは心得たもので、槍を持ってくると衝突しない距離まで避けてくれた。網の時にはじゃれついてくるのに、不思議なものだ。
息を整え、大きく空気を吸い込んで、潜る。鯛や甘鯛などが捕れたら最高だが、内海で捕まえるのは難しいだろう。これは少し欲張りすぎだ。というわけで、ぐっと目を見開いて海底の砂を見極める。
見つけた。潜れる程度の浅いところに、ヒラメがいる。大きさも夕食に丁度良い。
ひょいと身を翻し、ヒラメのそばへと近づく。同じ底生性でも、ヒラメはカレイに比べてかなり俊敏な動きをするが、サメと泳ぎ戯れる彼女には造作もない。
(美味しく食べさせていただきます)
祈りながら、ヒラメの頭に槍を突き刺した。
ふっと、視界が暗くなり、彼女は目を上げた。
巨大なホホジロザメが、彼女のすぐ頭上を泳いでいた。
(大鰐様)
彼女が呼びかけると、ホホジロザメはゆっくりと彼女の周りを泳ぎ回った。
(網でも使えば良いだろうに)
海神様とは思えない、庶民的生活臭に溢れる声が、頭に響いた。
(私、潜って漁をする方が、好きですから)
漁は全て、命のやり取りだ。けれど、目の前でいただく命の相手に向かい合える方が、彼女には合っていた。それに網だと、目当て以外の命も巻き込みかねない。
必要なものを、必要なだけいただいて生きること。
それは先代から代々に受け継がれた、巫女としての心得だ。
(……外海で迂闊に血を撒くなよ)
(心得ています)
彼女とて、その危険性はよく分かっている。この堡礁の内側だけだ。
海神様の神域である、この内海でだけ許される、我儘なのだとは分かっている。
海面から顔を出し、ふぅっと息を吐き出した。
空を見上げると、二重の虹が島の上に架かっていた。
ほぼ毎日見上げる虹。けれども、毎日毎日、見上げるたびに、美しいと心から思う。
社の島へと真っ直ぐに泳ぐ。その傍らには大鰐様がいる。
これが彼女の日常で、そうして世界の全てだ。
夕食の献立は、アサリの澄まし汁に、海葡萄の酢の物、サザエの壺焼き。ヒラメはどうしようか少し悩んでから、酒蒸しにした。
供物として毎年、樽で酒が届けられるのだが、先代から「大鰐様の許しが出るまでは、直接飲んではならない」と言われている。しかし、そのまま何にも使わないのも勿体ないので、時々こうして料理に使っている。
よく乾かした小枝を竈に入れて、御神灯から分けた火を入れる。しばらく調子を見て、太めの薪を足し入れると、これも先代から譲り受けた包丁を取り出した。
普通魚は三枚おろしにするが、ヒラメは五枚おろしである。背鰭と臀鰭の付け根である縁側を切り落とすと、七枚おろしと呼ばれる。もっとも彼女は、縁側は切り落としたら、すぐに刺身のまま食べてしまうが。
上身背と腹、下身背と腹、そして骨。無駄を出さないように丁寧に捌く。蒸し上がりの作業に入ったら、腸や骨などと、一部の肉を手のひらに盛って、海へ向かう。
岩場の潮溜まりに顔を出すと、一匹のトラザメがいた。おやつよ、と言いながら、手に盛った肉や骨を落とすと、バリバリと食べる。当番にでもなっているのか、毎日違うサメが待っている。トラザメはトラザメでも別の個体になっていたり、日によってはドチザメやネコザメが待っていたりする。
厨に戻って料理を仕上げる。澄まし汁の塩加減は心得たものだ。サザエの壺焼きにも、少し酒を足した。五日に一度まとめて炊きあげた米を干しておいたものを、少量の真水で煮戻す。支度万端に整えると、お膳に皿を並べ、それらを盛りつけた。
社の一部は、海にせり出して造られている。先は階段になっていて、海の中へと入っていくことができるが、この階段を下りた海には、基本的に入ってはいけない。大鰐様に、入るように命じられた時だけだ。今まで、一度もそんなことはなかった。先代によると、この階段の先に入るのは、とても厳粛なことだそうだ。まだその時ではないのだろう。
神聖なマツリの場に向き合うように膳を置き、感謝の祈りを捧げる。
そして両手を合わせると、「いただきます」と唱えた。
毎食毎食、命をいただいて自分たちは生きている。これは、陸でも海でも変わらない、この世界の理だ。大鰐様も、子ザメたちも、自分も、誰かの命で生きている。
「ごちそうさまでした」
綺麗に食べ終えると、両手を合わせて一礼する。それから、膳の後ろに少し下がって、海に向けてもう一度深々と頭を垂れる。
ざぱっと水音がして、眼前の海から、誰かが見つめてくるような気配がした。
上げかけていた頭を、もう一度深々と下げてから、彼女は膳に手を伸ばした。
そのまま、海へ視線を向けないように気をつけながら、厨へと下がる。手早く洗い桶の中に食器類を突っ込むと、彼女は、衣紋掛けに掛けっぱなしにしていた神衣を、大急ぎで外して持ってゆく。手を伸ばすのも億劫で、腰帯は伸ばした足の指で掴んで投げ上げる。
それらを落とさないように気をつけながら、全速力で階段の方へ向かう。
暗い色の髪を長く伸ばした青年が、赤い西日を浴びながら、階段に腰を下ろしたまま、無造作に、長い二本の足で海面を叩いていた。振り返って顔を見せる。にやにやと笑う顔には、子供っぽさと老獪さが同居している。前寄りの髪の三分の一ほどが真っ白なこともあって、なおさら年を推し量りにくい。
「大鰐様!」
ばさりと投げつけるように、神衣を羽織らせる。青年は慣れた手つきで袖を通した。
「騒がしいぞ」
「人が食事している時に、入れない海から来るだなんて……」
「顔を出したのは食後だが?」
「ということは、途中から見てらしたってことですかね?」
妙に引っ掛かる言い回しだったので、単刀直入に訊いてみた。大鰐様は素直に頷く。
「縁側が見あたらなかったな。誰かにやったわけでもないようだが」
思わず肩がはねる。
「……ということは、つまみ食いをしたということかな?」
にたりと笑うその笑顔が恐い。元がホホジロザメだからか、ほとんど人間と同じ顔のはずなのに、輝く白い歯が全部牙に見える。
「しましたゴメンナサイ!」
素直に土下座した。大鰐様は、縁側のつまみ食いの一つや二つで、お怒りになる方ではないはずである。現に、今も腹を抱えて笑い出された。
「あはは、面白い奴だな」
ひとしきり笑われた後、大鰐様はきりりと真面目な顔になって、こう仰った。
「アサリの澄まし汁の残りを寄越せ」
「巫女の残飯を召し上がる神様ってどうなんですか」
「いいや、明日のお前の朝飯だろう。だから残飯ではない!」
きりっと無駄に格好をつけて言われても、威厳の欠片もないのは何故だろうか。
「私の明日の朝ご飯が……」
またアサリを仕込み直すのも面倒である。献立は変更だ。
「明日の昼には鰹を仕留めてきてやる。タタキなど、どうだ?」
「すぐにお持ちします!」
しおしおと項垂れていたのが嘘のように、彼女は厨に走っていった。
「色気より食い気だな」
腰帯を締めながら、大鰐様は笑った。
「まぁ、仕方のない話だ」
外界から隔絶された島の中で、言葉で話せる相手は、先代巫女亡き後は自分一人だ。魚や陸の生き物たちとも心を通わせるが、複雑な話の相手には向かない。
(だが、とびきり複雑な話をしてやらねばならん)
しばし考えに耽っていると、巫女が満面の笑みを浮かべながら、アサリの澄まし汁を持ってきた。精緻な細工が施された、漆塗りの椀と箸である。神への供物用だ。
「うん、美味いな」
「お口にあって幸いです」
「この姿の時には、人間と変わらない味覚だと、何度も言っているだろうに」
初回、血が入っていた方が良いのでしょうかと問いながら、槍を持ち出してきた記憶は今でも苦笑の種だ。血の匂いは獲物を教えてくれるから敏感になるだけで、血が好きだというわけではないのだが。
巫女は気恥ずかしげに頭を掻く。先代の癖だ。その先代の癖でもあった。
「いやぁ……お昼前に地底宮から上がってきたら、ヤジブカがそわそわしていて。内海でのお食事は珍しいですよね」
「ああ、久しぶりにマグロを捕まえてな。さすがに喰いきれん量だったので、中の連中にも分けてやろうと思ってな。アオに追いつかれる前にと焦ったら、自分の食い扶持を外で食べるのを忘れてしまったのだ」
「ああ、なるほど」
ホホジロザメはサメの中では最強に分類されるサメだが、最速の称号はアオザメのものだ。そのアオザメにしても、マグロには遙かに及びもつかないのであるが。
「……あれ? 大鰐様、マグロは自力で仕留められたので?」
アオザメに速さで適わないホホジロザメの大鰐様が、そのアオザメをすらせせら笑える海の最速王であるマグロを、どうやって捕まえるのか。
「延縄に掛かったばかりのがいたんでな」
一度サメ型で噛みついて息の根を止めてから、人型になって仕掛けを外したらしい。
「ついでに、生きているサメどもも逃がしておいた」
マグロの延縄に引っ掛かるサメは、目的外のいわゆる「外道」である。高く売れる鰭を全て切り落とされた後、生きたまま海に放り込まれ、そのまま溺れ死んでいく。
大鰐様は、まだ生きているサメが延縄に掛かっていたら、なるべく彼らを逃がしてやることにしている。可哀想だからとか、そういう感傷的な理由ではない。
サメは珊瑚礁の生態系の頂点に君臨する。サメが減ることは即ち、珊瑚礁の生態系の破壊に結びつく。そしてサメは、寿命が長い。魚類などすぐに増えると人間は思っているのかもしれないが、サメが大人になり、十分に子を産めるようになるまでは、かなりの年数が必要だ。種によっては二十年以上かかる。
であるから、多少狩られる分には仕方ないとしても、狩られすぎと見えるものに対しては、海の神としてやはり見過ごすことは出来ないのである。
余談であるが、この近辺の漁師たちの言葉に「神撰」というものがある。延縄などで、丁寧に仕掛けが外されたものを見つけた場合に、「ミケになった」などのように用いる。海神様のお食事なさる領域に入り込んだ、ということを知った彼らは、次からはこの領域を避ける形で漁をする。
もっとも、この決まり事は巫女の知らないことである。彼女にはそんな外海まで泳いで行かねばならない事情はない。この堡礁で全ては足りている。
西空の残照もすっかり消えて、東の空に、満ちかけの月が浮かんでいる。
「明日の晩は、大潮ですねぇ」
神前とも思えない、のんびりした声で、巫女はぐぅっと手足を伸ばした。
「『緑玉』の飾りの修繕は終わったか?」
同じく横でぐぅっと手足を伸ばしながら、大鰐様がお尋ねになる。
「あっ」
見事に忘れていたことを、立った一音で端的に表現してくれた巫女に、もはや大鰐様も乾いた笑いを洩らすしかない。
「明日、日が昇りきるまでに終わらせておけ。大潮の神事に使う」
その言葉に、巫女ははっとして、大鰐様の方を向いた。
大鰐様はにやりと笑って、空を見上げたまま、言葉を続けられた。
「お前もこれで、一人前の巫女だ」
彼女は、とびきり輝く笑顔で、「はいっ!」と元気に返事をした。
「よし、星読みのおさらいだ」
大鰐様はそう告げて、巫女に自分のすぐ隣に寝転がるようにと指示をした。
二人の視線の先が、星を追って何度も重なる。大鰐様の問いかけに、巫女ははきはきと答えていたが、やがて反応が鈍りはじめる。
「あの四つの星はハイムルブシと……」
説明を途中で止めて、大鰐様はそっと微笑まれた。巫女はすやすやと寝ていた。
夜明けが近づくと目が覚める。布団の上に起き上がった巫女は、まず首を傾げた。
たしか大鰐様に、星読みについて教わっていたような記憶があるのだが。
その瞬間、こともあろうに祭神様に寝床まで運んでいただいたのだということに思い至って、恥ずかしさにのたうち回る。もはや一度や二度の話ではないし、むしろもっと幼いことにはよくあった話だ。しかし、ついに一人前の巫女として「大潮の神事」に参加することを認められたというのに、これでは子どもの時と変わらない。
赤くなったままの顔で厨の鍋の中を覗き込む。アサリ汁は綺麗さっぱりと消えていた。
海葡萄の酢和えを呑み込んで、社近くの果樹から適当なものをもぐ。それらで小腹を満たすと、網と小刀を持って、今日は岩場の方へ貝を探しに行く。ちょっと水の中に入って手を伸ばすと、足糸でがっちりと岩にくっついたヒオウギガイを見つけた。まずは一つを小刀で切り出すと、貝をひらいて中身を検分する。良い貝柱だ。そのまま小刀で貝柱を切り取ると、軽く海水で濯いでから口に放り込んだ。本当は加熱調理した方が良いのは先代から教わっているが、たまにはこうして食べるのも美味しい。
このヒオウギガイの殻は、珍しい朱色だったので、取っておこうと考えて網に入れた。
潮溜まりには危険な生き物もいるので、細心の注意を払いながら食料を探す。
ガンガゼは目立つし避けやすい。ゴンズイ玉などは見た瞬間に逃げることにしている。この海ナマズは食用にもできるが、背びれと胸びれの棘に毒があるのだ。素手で挑むような相手ではない。しかも、死体を踏んでも毒で痛い目を見るのである。
ヒョウモンダコも恐ろしい。黄色に青の斑が出た姿は、すぐにそれと見分けがつくけれども、とても小さい上に、普段は岩などに擬態しているので、とても厄介だ。
が、何よりも警戒すべきはイモガイだ。この島には、百ではきかない種類のイモガイが棲息している。非常に美しい貝殻を持っているので、神事の飾りに使われるものもある。
しかし、このイモガイ、生きている時には猛毒の銛を打ち込んでくる、非常に恐ろしい貝でもある。しかもゴンズイと違って、激痛ではすまない。下手をすると死ぬ。
巫女で良かったなぁと思うのは、このイモガイの声も聞き取れることだ。
耳を澄ませて、声の聞こえるイモガイには絶対に近寄らない。聞こえなくても、可能な限り近づかない。浜辺で干からびたものでも、長い鉄箸でつまんで、とことん天日干しにしなければ、絶対に素手では触らない。ただ死にかけているだけで、実は生きていましたなどという事態であったら、あまりにも危険だからだ。
潮溜まりで食料を漁り終えると、貝の身や貝柱を焼いて、例の米と一緒に食する。
普段なら、朝からでもちょっと泳いで食べ物を取りに行くのだが、今日は特別だ。
小腹が空いた時用に、木の実を干しておいたものを用意して、大鰐様から出された緊急の課題を仕上げに取り掛かる。
『緑玉』の飾りの修繕である。
ミドリイシは珊瑚の一種類であるが、この『緑玉』とは、鉱物名では苦土橄欖石とよばれる宝石である。マグネシウムのネソ珪酸塩鉱物で、明るい黄緑色をしている。橄欖石を含む橄欖岩は、地中の奥深くでマグマが固まって生成される深成岩であるが、島を形成する火山活動か地殻変動かの時に地表に出て来たのか、この島では小さなものなら、そう苦労せずに拾うことができる。
そうして拾われたもののうち、特に大きく透き通って美しいものを、金細工で繋いで作り上げられ、そして代々受け継がれてきたのが、この『緑玉』の飾りだ。
神事で巫女がつける装飾品は、美しい貝殻や真珠や珊瑚などのように、海からもたらされた様々の恵みを用いて作られたものだ。しかし、この「大潮の神事」の時だけは、『緑玉』の飾りを身につけることになっている。
耳飾りと腕飾りは問題なさそうだ。髪飾りも、少々傷がついているようだが、修繕まで必要なほどに損傷はしていない。足飾りは先代が修繕した。その年に先代が亡くなってしまったため、今まで使われる機会もなく仕舞われていたのであるが。
溜息をついて、金床と木槌と金鎚、そして三種類の矢床を用意する。
まずは、手早く直せそうな帯飾りをひっくり返す。こちらは飾りの裏側にある、留め具の針が曲がっているだけである。金床に転がした針を、矢床で掴んで打ち直す。金の含有量の高い柔らかな金属なので、さしたる苦労もなく真っ直ぐに戻る。
次に、最難関の首飾りの修繕である。まず、金鎖が切れたのがいけない。金を針金状に伸ばして、途中で切っては丸め、丸めては新しい針金を差し込む。差し込んだ針金をまた丸めて……という工程を繰り返して、鎖を作り上げる。太いものと細いものとを用意し、それらを組み合わせて、時々金輪を挟みながら、丹念に編み上げる。
非常に細やかに神経を使う作業である。一区切りつける度に、用意した果物や何やが消えてゆくのは、仕方のないことだろう。
出来上がった頃には、太陽は高く中天に昇っていた。鍛冶道具一式を片づけると、作業で凝った筋肉を解すように、外に出て思い切り伸びをする。
海の方から、大鰐様が、人の姿をとってやって来られるのが見えた。
その手には鰹が握られている。しかも、横縞がまだ見えている。あの縞は鰹が死ぬと消えてしまい、その後は縦縞が現れてくるのだ。
巫女は喜んで飛び上がると、挨拶もそこそこに厨から道具を揃えてきた。
昼食は、新鮮な鰹の刺身、そしてタタキである。
さすがは海神の獲物、大物の鰹は、彼女の腹を満たして余りあるほどだった。もちろん余った部分は、例の「おやつ」である。今日はドチザメが二匹いた。
「ご馳走様でした」
心底の感謝を込めて、彼女は満面の笑みを大鰐様に向ける。
「修繕は終わったようだな」
軽く鼻をひくつかせ、においを探ってから、大鰐様はそう仰った。
「はい」
「よしよし。さて、では『大潮の神事』の準備に取り掛かるか」
「はい」
祭神様が御自ら神事の準備をするのは、ここでは普通のことである。重要な神事は、全て海神である大鰐様が指示を下し、巫女はそれに従って手筈を整える。
「今回は最初だから、次回以降にはない手順が多くある。全て覚える必要はない」
「はい」
御倉の中から道具を取り出しながら、大鰐様が指示を出す。
焼き物の壺はなかなか重い。見た目の割りには薄手に作られているようで、覚悟したほどの重さはなかったのが、幸いと言えば幸いだろうか。
本殿の中に道具一式を並べる。ついでに神事の際の正装も並べた。大急ぎで作り直した首飾りの出来については、「スジが良いな」とお褒めの言葉を授かった。
「では、これよりお前に重大な仕事を命じる」
すっと改まった雰囲気になって、大鰐様は大きな壺を示した。
「洗骨の儀だ。先代の骨を洗い浄めて、この壺の中に入れてくるように」
一呼吸分、沈黙がその場を支配した。
ああ、そんなに時間は経っていたのか。
「本殿の前に安置所を設えるので、そこに置くように」
「……はい」
壺を抱えて、洞窟へ向かう。あの洞窟には海のものは入れない。海神様の神域なのに、海神様が入ることが許されない、ただ一つの場所だ。
真昼でも影の差す森の中を、迷いのない足取りで進んでゆく。
洞窟の中で、先代は既に、白い骨になっていた。その一つ一つを取り上げては、洞窟の中を流れる川で洗い浄め、壺の中に収めてゆく。以前に教わったとおり、大鰐様と先代とが教えてくれたとおり、まず足先の骨、腰から胸へ、そして両腕、首。
次に自分が寝る時のために、手箒で丁寧に床を掃く。それらの塵も壺に収める。
最後に頭蓋骨を持ち上げる。先代のことを思い出すと、懐かしさで涙が溢れてくる。
頭蓋骨を洗い浄めると、それをごとりと壺に収めた。壺はぎりぎりの大きさに作ってあるようで、口縁部から少し骨が盛り上がっている。
それを抱えて社に戻れば、注連縄で囲われた安置所が出来ていた。
指定されたとおりに壺を置いて、亡き師に最大限の敬意を示す。
「ついてこい」
告げられるままに従って行けば、辿り着いたのは、あの海へ続く階段だった。
「許す」
そう言って大鰐様は、巫女に手を差し伸べた。おそるおそる、その手を取って、一段、また一段と水の中へ歩みを進めていく。
足に階段の感触がなくなり、完全に海の中に入った。既に胸まで水に浸かっている。
「今宵、お前は『海のもの』となる。この意味が解るか?」
大鰐様の問いに、巫女は首を傾げる。
大鰐様は、優しく苦笑した。
「私の伴侶になるということだ」
巫女は相変わらず首を傾げている。そもそも、「伴侶」という言葉の意味が解っていないらしい。さて、どうしたものかと、内心に少し思案して、まぁどうでもいいか、という結論になっていない結論に落ち着いた。
「私と一緒に生きてもらう、ということだ。もっと傍で、ずっと長く」
巫女は今度は反対側に首を傾げた。
「今までと何か変わるのですか?」
「まぁ、変わるな。お前は、人より長い時を生きることになる……不死ではないが」
ああ、と初めて巫女は納得した。先代もこの「大潮の神事」に参加したはずだが、現に今は骨になっている。
大鰐様は、どこかとても悲しそうな、寂しそうな微笑みを浮かべていた。
「海神として、私は遙かな時を生きてきたし、これからも生きてゆく……鮫は魚たちの中では比較的長命な方だが、それでも人の命の長さには及ばない。だが、その人の命の長さですら、私にとっては短すぎる……心を持つものは孤独に耐えられない。お前には、私の寂しさに寄り添ってもらいたいのだ」
受け入れてくれるか、という問いに、はい、と巫女は微笑んで答えた。
大鰐様は、彼女の頭を何度か撫でると、息を止めろ、と告げた。
言われたとおりに息を止めると、頭を押されて、海水の中に浸けられた。
すぐに力は弱まって、今度は海水から引き上げられる。もう一度、もう一度と声を掛けられて、都合三度、海水の中に潜った。
三度目に海面から顔が上がり、そうして目を開く。
(色が、ない!)
見渡す限り、世界は灰色だった。美しい海の青も、陸の緑も、浜砂の白も、空の青さえもが、灰がかって色を失っていた。
恐怖にかられて周囲を見回す。何もかも灰色だ。ただ大鰐様にだけ、色が残っている。
だが、大鰐様の目は、人の姿を取っているときの、いつもの目ではない。
サメの姿の時のような、平たく真っ黒な目となっている。
物心ついてから初めて、彼女は大鰐様に恐怖した。
「さぁ、おいで」
右手には大鰐様の左手の、左手には大鰐様の右手の指が絡みつく。そのまま、海の中に引きずり込まれた。怯えと畏れから、ほとんど息がもたない。最後の残りの泡を吐き出して、海水を吸い込んでしまってから、彼女は異変に気がついた。
(……息が出来る)
まるで陸にいる時と同じように、彼女は海中で呼吸をしていた。
驚きのままに、大鰐様の方を見る。目は相変わらず人のものではなかったけれども、今は不思議と強さは感じなかった。
不思議と穏やかな気持ちで、二人、海の底を歩いてゆく。視界は変わらず灰色だ。
(さぁ、しっかりと、耳を澄ませて)
繋いだ両手から、いつもより大きく明瞭に、大鰐様の声が聞こえた。
言われたとおりに耳を澄ませる。
最初はか細い音だった。だが、やがてそれは幾重にも重なり、束となり、歌声の糸となる。貝たちの歌声、海草や海藻たちの歌声、何万種もの魚たちの歌声、その他の海の全ての生き物たちの歌声。そして、それらを支え、いっそう豊かにする珊瑚の歌声。
灰色だった世界に、次々と光が差し込み、世界が色を取り戻していく。
命を育む、海そのものの歌声。
紡ぎ上げられた歌声の糸が、新しい世界を鮮やかに織り上げてゆく。
ずぅん、と足下から突き上げるような音を感じた。
それが大地の歌声なのだと感じた時、輝きで世界は満たされた。
(ああ、そうか)
巫女はすっかり理解した。
陸のものである自分が、海の神である大鰐様の伴侶になる、というのが、どういう意味を持つのか、を。
大鰐様の巫女とは、大地の力と海の恵みによって生まれた、この島そのものなのだ。
大鰐様の伴侶になるというのは、大鰐様の守る海と、この島とが育む全ての生命の「母」になる、ということだ。
今、自分は世界の本当の美しさを知ったのだ。
日が傾き、空が橙色に染まる。
神事の装束をすっかり身につけ、同じく正装した大鰐様に導かれて、巫女は先代の骨壺を抱えて、あの階段から海へと向かった。
海の中から見上げる夕暮れは、淡い紫色をしていた。
大鰐様が、祈りの言葉を唱えると、緑色の光が海のあちこちに灯った。
ふわふわと揺れるクラゲたちが、その緑色の光をはね返して、虹色に煌めいている。
色とりどりの魚たちが、ひらひらと優美に泳ぎ回る。
静かに歩き続けていくと、目の前に巨大な珊瑚礁の壁が現れた。その一角には、さながら門のように、外海に通じる口がぽっかりと開いている。
差し招かれるまま、その門に向けて歩いてゆく。
「王! 王!」「我らの王!」
ネムリブカたちの群れが、そう叫びながら、まるで黒い雲のように踊りめぐった。
門に立つと、それは断崖の縁で、下は急速に深い海になっていた。
そこで大鰐様は初めて、先代の巫女の骨壺に触れた。
ここで、旧き巫女は完全に、「海のもの」へと還るのだ。
彼女は万感の思いを込めて、壺を大鰐様の手に渡した。
歌声が海に響く。大鰐様の手から、骨壺がはなれる。静かに水底へ沈んでゆく。
知らず、彼女も歌っていた。溢れてくる響きを、海へと伝える。
二色の歌声に見送られて、先代は海へと還っていった。
とん、と大鰐様が門を蹴り、さらに外海へと進む。巫女も門を蹴り、後に続いた。
二匹のクロヘリメジロザメが現れて、二人をそれぞれに乗せた。やがて、あのヤジブカが一族を連れてやってきた。ぐるぐると周囲を旋回するのは、何百というシュモクザメたちの群れだ。さらに、ツマジロの群れ、カマストガリザメの群れが加わり、その隙間をアオザメが勢いよく泳ぎ抜ける。美しい模様をしたトラフザメが、長い尾を振る。
オグロメジロザメが姿を見せると、ゆるりと海の底から、ヨシキリザメが姿を見せた。それに続き、カグラザメが優美に尾を振りながら現れる。
「王! 我らの王!」
サメたちの声がいっそう響く。
巨大な第一背鰭と胸鰭とが特徴的なウバザメが、回廊のように大きな口を開く。
縦縞模様も鮮やかなイタチザメが、先触れを告げるように躍る。
クロトガリザメの群れに導かれるように、周囲のサメたちとは比較にならないほどに巨大な影が、海の中に現れた。ジンベエザメである。
ばぁん、と大きな水音が響く。オナガザメたちが、その長い尾で海面を叩いたのだ。
「王! 王! 我らの王! 我らの主! 綿津見之神!」
ジンベエザメが現れると、すぅ、と、大鰐様は、クロヘリメジロザメの背に立った。
「遠きの道程、大儀であった」
そう大鰐様が声を掛けると、ジンベエザメは小さな少年の姿になった。
「海神の新しきよ、いざ、言祝ぎ奉らむ!」
少年の透き通る声に、集まったサメたちはいっそう賑やかに躍る。
「今宵の大潮、我らの世界に、新たな生命と、新しき母の門出を祝え!」
大鰐様のよく通る声が、海に響く。海に歓喜の声が溢れる。
満月の光が、青い海の世界を照らした。
それぞれの一族の長と思しき個体が、次々と人の形をとる。その一人一人に、巫女は心の底からの感謝を伝える。海の中には歌声が満ちていく。
ふわりと、白い粒が視界を横切った。
「同胞らよ、祝え! この海に溢れる、全ての生命らよ、謳え!」
白髪の老人の姿をとったカグラザメが、高らかに告げる。
海の生き物たちの歌に乗って、白や薄桃色の粒が海中に解き放たれる。
珊瑚たちの産卵だ。
その一粒を、大鰐様は指でつまむ。促されるまま、巫女も一粒をつまみ取った。
一粒ずつの命の塊を、互いに互いの口に含ませ、そして呑み込む。
「成れり! 成れり! 我らが『母』よ!」
ジンベエザメの少年が唱う。
サメたちの踊りめぐる泳ぎはいよいよ激しくなり、それから、静かに静かに、潮の引いてゆくように去っていく。
カグラザメは深海へ戻り、ヨシキリザメも姿を消した。シュモクザメたちの群れは遠くに離れ、オナガザメたちはもう一度大きく海面を打ち鳴らして去った。
「安かれ! 幸あれ!」
ふわりと海面に浮き上がると、少年もジンベエザメの姿へと戻る。クロトガリザメたちを引きつれて、彼もまた海の彼方を目指して去る。
二人を乗せるクロヘリメジロザメと、そして、あのヤジブカとが残った。
「地底宮へ」
先導するようにヤジブカが泳ぐ。外海から、溶岩洞を抜けて堡礁の内へ。
ふわりと、大鰐様の身体が浮いた。
「此度の役目、大儀であった」
その言葉を聞いて、巫女もふわりと身体を浮かせた。
二匹のクロヘリメジロザメは、くるりと優雅に身体を捻り、外海へと戻っていった。
地底宮へ続く道を、ヤジブカが先導する。
緑色の光と満月の光とが満ちて、海の中はとても明るい。
やがて、岩の階段が視界に入る。
「ご苦労だったな。下がれ」
大鰐様の声に、ヤジブカもまた身を翻す。
手を引かれるままに、巫女は地底宮の陸へと上がる。
溶岩の柱、凝灰岩の柱、石灰岩の柱、珊瑚の柱の林を抜けて、水晶の窓を見上げる。
「見ろ」
指さされた先には、無数の珊瑚の卵たちが漂っていた。
お互いが呑み込んだ命を確かめ合うように、二人は口を重ねた。
飾りの『緑玉』が、月の光を受けて煌めく。
「お前は、これからきっと何百回も、この光景を見るだろう……私と共に」
大鰐様の言葉に、巫女は微笑んだ。
「はい」
でもきっと、何百回こんな月夜を数えても、今日の記憶が色あせることはないだろう。
この海の中に、わたしは入ってゆける。
そして、この海と共に、わたしは生きてゆく。
ここは、古い火山が造り上げた島。
海神たる大鰐様を、お祀りする神域。
わたしは、ここで生きていく。この水底の「海神の宮」で。
※ハイムルブシ :八重山方言で「南十字」のこと。
一カ所とはいえ、ウチナーグチを入れたせいか、琉球のニライカナイっぽくなってしまったかもしれませんが、一応、ヤマトの神道を参考にしてます。作中に出てくる「神撰」も神道の用語です。
ところで、この話は随所に裏の意味が仕込んであります。
例を挙げると、大潮の神事の時に巫女がつけるのが「緑玉」こと宝石名ペリドットであるのには、複数の意味が込めてあります。
細部の仕掛けが分かると、もう一度楽しめる話のつもりであります。
※2014.02.24. ルビを大幅に追加(そういえば童話カテゴリだった)