第四章 風
リックは、更に三日かかってようやく馬に乗れるようになった。それでも身体のあちこちが痛むが、トゥヌが施した水棲族の治療薬が功を奏し、僅か三日で動けるようになったのは奇跡と言える。それほどの傷だった。
トゥヌがフードを被り顔を隠して新たに馬を調達し、出発の準備を整えている頃。
デュイトレンは聖地ハラドまであと2日という所に来ていた。
この三日、馬だけを休め自分は殆ど寝ず、水を少し摂るだけで食料も余り口にしていない。精悍な顔に、さすがに疲れの影が落ちていた。
今はただ、一刻も早く兄を殺した者を知りたい。兄の無念を晴らしたい。その想いだけがデュイトレンを突き動かしていた。
例えば、確執から兄を殺したのはヘンザックで、死んだ兄を蘇らせようとしたのが父なのか。もしくは、殺したのは父で、それを悔い蘇らせようとしたのか…。その場合は何故殺さねばならなかったのか。何故亡霊を蘇らせたのか。
しかし考えても考えても、思うのはエレクバーンの死のみで、城に蠢く大きな闇や誰かが自分を消そうとしているのかも知れないことなどどうでも良い気がしていた。
デュイトレンの心に、カズロの森以降影を潜めていた雨雲が立ちこめる。
この先は己の力のみと、自らが決めたことだ。もう誰も頼ってはならない。
思い出されるのは、ボラットやノラ、入り口通りの住人の豪快な笑い声、人を憎んでいるにも関わらず力を貸してくれたトゥヌ、そしてすぐに言い合いになる無礼な態度のリックだ。あの者は、ちゃんと目覚めただろうか。リックを置いていくと告げた時、トゥヌはきっと助けると誓ってくれた。
…これ以上巻き込むことなど出来ない。
デュイトレンはぐっと手綱を握りしめる。この感情を何と呼べばいいのか、分からなかった。
「あともう少しだ。頑張ってくれ」
馬の首を軽く叩き語りかける。青い炎の正体が分かった今、ハラドに行って何が得られるのかも分からない。それでも、進むよりなかった。
歩き出した馬の足元には、午後の太陽が影を作り出している。
その馬上のデュイトレンの影に、音も無く忍び寄るもう一つの影があった。
布がはためくようなその影は、ゆらゆらとデュイトレンに近付く。
気配に気付いたデュイトレンは、素早く馬を降り剣を構えた。
そこにいたのは、トレクの町外れにいたあのローブ姿だった。フードの下からは瞳の無い暗い眼窩が覗いている。その姿はまさしく死神のようだった。
「お前か、連れを襲ったのは。狙いは私だろう、卑怯なことを…。誰に操られているのか知らぬが、元の骸に戻してやる。これ以上我が王家の名を汚す前に」
ローブの濃い緑は王家を示す。デュイトレンの瞳に静かな怒りが灯った。
そのローブに隠れた骨がかたりと鳴る。
『笑止。我は傀儡に非ず』
不気味な声が、骸骨からと言うよりも地の底から聞こえてくる。白い骨の手を上げると青白い光が灯った。
あの夜見た炎だ…。
青い炎がデュイトレンを照らす。咄嗟に馬を叩いてその場から離し、自分も地面を蹴った。炎が宙を焦がす。
骨の死神は青い炎を纏い、ゆらりと近付いてくる。
炎さえ避けられれば、恐れる相手ではない。デュイトレンは一瞬で間合いを詰めるとローブごと叩き切った。
バァンという大きな音と共に骨がバラバラになって崩れ落ちる。衝撃で、切られたローブの裂け目から光る何かが飛び、デュイトレンの足下へと転がった。
「これは…」
拾い上げたそれは、かなり古い石のペンダントのようだった。装飾も今程精巧ではないが、大地から芽吹く草を模して刻まれた紋様に見覚えがあった。王家に伝わる国史の中で見たもの。
「ベイゼル…?」
同じ神の側近の一族から分かれ、八百年前に滅びたという亡国のベイゼル。その紋章だった。
「っ!」
ペンダントに気を取られたデュイトレンの頬を炎がかすめる。地面に散らばっている骨が、カタカタと鳴りだした。青い燐光が転がった骨に鬼火のように宿る。その炎が集まり一塊になって再びデュイトレンに襲いかかった。
間一髪で避けると炎は一旦飛び散ったが、またも塊に戻っていく。
「…貴様らの真の目的は何なのだ!何を恐れて私を襲う!?」
『恐れているのはそなたの方だ』
青い炎がバラバラになった骨を包む。炎の中で、骨が繋がっていくのが見えた。
『再び魂が燃え尽きようと構わぬ。焼き殺してやろう、セル・ウェンの小倅よ!』
再び立ち上がった骸骨は青い炎を全身に纏ったままデュイトレンへと突進する。
掴み掛かろうとする右腕を避けながら右へ回り込み腕を断つ。骨は砕けたが炎はなおも剣先をつたいデュイトレンへ襲いかかる。剣を渾身の力で振ると風圧で青い火の粉が散った。
骸骨は右腕を失ったことなど感じていないかのように、今度は左腕をデュイトレンの胸の辺りへ伸ばす。乾いた骨の指は、青く燃えながら何かを掴もうとしていた。
暗い眼窩はデュイトレンを見ていない。その身体の奥にあるものを引きずり出そうとしているようだった。
その姿はあまりにも浅ましく、凄まじい。デュイトレンは思わずゾッとする。
伸ばされた指先を叩き切ると、地の底から唸り声が聞こえた。
『痛い…痛い…そなたの魂も焼いてやる…この魂の痛み、思い知らせてやろう…』
「貴様は一体…誰なのだ。ベイセルの死者なのか」
『誇り高きベイゼル…我がベイセル…』
声と共に青い炎が揺らめく。
『神の側近の血を継ぐのは、我らだけで良い!!!』
炎が大きく膨らんだその時だった。
「!!」
デュイトレンは咄嗟に目を庇う。
凄まじい爆発音と共に、青い炎と骨の破片が飛び散った。周囲の土を巻き上げた爆風が、粉々に砕けた骨も運んでいく。
風が収まるのを待って目を開ける。舞い上がったボロボロのローブがぱさりと地面に落ちた。
恐らく口を封じられた。デュイトレンは掌の中のペンダントを強く握り直す。
滅んだ国の死者。同じ神の側近の血を引く王位継承者の死。
デュイトレンは、闇の中で何かが蠢くのを感じていた。
「だからさ、けいしょうのぎの途中で何かがあって、そいつらが復活しちまったと。で、あいつの兄さんが殺されちまったってことだよ」
身体のあちこちが包帯だらけのリックは、馬に揺られながら隣のトゥヌに話した。
『デュイトレンがみた青い炎、ほろんだ国の死人のものだと?』
「そう。親父さんが兄さんを蘇らせようとしたんじゃなくて、俺を襲った奴らが復活した時に燃えた炎なんだよ」
二人は宿を発ち、再び街道を東へ進んでいた。
リックはトゥヌから、気を失っていた間のことや水棲族に伝わる様々な話を聞いた。その中で、神の一族が分裂し興した国の一つが、凄惨な滅び方をしたのを知ったのだ。
『はっぴゃくねんまえほろびた、ベイセルというくに。民、どれいのよう。ちからおごり、ひと以外のしゅも敵にまわした。そしてセル・ウェンとせんそう、さいごにのこった王族、のろってのろって、死んだ』
その話を聞いた時、ふとあのローブ姿の骸骨を思い出した。デュイトレン達セル・ウェン王族とよく似た色のローブ、いかにも恨みをもって死んでいったというような骸骨達。何より神の一族の力により燃える青い炎。
あいつらはそのベイセルとかいう国の死人なんじゃないのか?
「俺の推理によると、セル・ウェンを恨んで死んでったベイセルの王族が、セル・ウェンの新しい王様が決まるその日を選んで復活して、復讐しようとしたんだ」
考えもしなかった話に、トゥヌはうーんと唸る。着眼点は鋭い。
『けれど、なぜいまなのか?』
「そりゃ、あいつの兄さんが今までで一番優秀だからじゃないか?」
トゥヌは今度は別の意味で唸った。
馬はゆっくりと進む。まだ痛む身体に負担が掛かる為、走る事は出来なかった。リックは構わないと突っぱねたが、この先を考えるなら辛抱するようトゥヌに諭されたのだ。
トゥヌは何事にも落ち着いた物腰の男で、外見からは想像しにくいが人間でいうと20歳くらいらしい。裏表のない物言いに、リックは信頼を寄せるようになっていた。
『だれかが、その日、わざと死人を、起こしたかもしれない』
「そうだな、それこそヘンザックって奴かもな…」
そう言って、リックはすっと黙った。トゥヌも黙って前を向く。
少しの沈黙の後、リックがぽつりと言った。
「あいつの親父さんが骸骨共を操ったり…兄さんを殺したりなんか、してないと思うよ」
トゥヌは黙ったままだった。
「そうだろ?」
リックは、トゥヌに問いかける。
じゃないと…辛過ぎる。
『おまえは…』
「ん?」
『もう少し、ことばつかう、まなべ』
「は?」
『一国の王、おやじとはいわない』
リックはきょとんとする。
二人は顔を見合わせた後、笑い出した。
入り口通りの連中を思い出す。誰かが面白いことを言っては、よくみんなで笑っていた。その日の暮らしにも困ってる奴ばっかりだったけど。
俺は仲間運だけはあるんだ。
「やっぱり走ってこうか」
『またくすり、のみたいか』
それだけは勘弁と、青ざめてリックは言った。
他愛のない会話を交わしながら進む二人の上空を、一羽の大きな鳥が飛ぶ。
トゥヌは空を見上げた。
『かぜびと』
短く言って上を指差す。リックも同じように空を見上げた。
逆光の中、人の腕よりも長い大きな翼を羽ばたかせ旋回しているのは、一見鳥のようだがよく見れば顔は人のようにも見える。
リックは水びとのトゥヌに続き空を翔ぶ異形の種を見るのも初めてだが、様々なものを一気に見過ぎていちいち驚かなくなっていた。
『おかしい』
不自然な旋回にトゥヌが何かを感じる。時折鋭く啼く声は、鳥が警戒している時のそれに似ていた。
「何か言ってるみたいだ。分かるか?」
『ことば違う。分からない』
風びとと呼ばれた者は、何度か旋回すると東の方角へと翔んでいく。
「嫌な予感がするな…」
そう言うなり、リックは馬に合図を入れ走り出した。トゥヌも溜め息をつきながら後を追う。
風びとは、カズロの半分ほどの大きさの森の上空でまた旋回した。
その森の姿を見た瞬間、リックの身体に痛みが走る。
「!」
近付くと、その惨状がより明白になる。木々は焼けただれ、巨大な鳥の巣のようなものが散乱している。焼けた木肌には、青い残り火が燻っているものもあった。
「ここにも来たのか…!!」
上空の風びとは悲痛な声で一啼きすると、大きな羽音と共に降り立った。
風びとは、獣びととも呼ばれる種族の一種である。背に大きな翼を生やし、鷹のような爪のある脚をもつ。木に巣を掛けて暮らし、大きさは馬ほどで地上に降り立っても小柄なリックは見上げなければならなかった。
「あんたの住処か?あいつらが来たんだな?」
リックが話し掛けたが、言葉が通じないのか風びとはしきりと辺りを見回す。
水びとと違い腕以外は人とそう変わらない為、怯えた表情はよく分かる。身体こそ大きいもののまだ少女のようで、黒目がちの瞳に涙を浮かべていた。
「仲間は?無事か?」
『ここ、ひともう住んでない。ことば話すひつようない。だから分からない』
トゥヌが言う。トレクの町より東は人の居住区がない為、多くの異形の種が棲む。その大半が人語を解さない。解す必要がなかった。
風びとの少女は、不安げにリックとトゥヌを交互に見ている。リックは森を指差した。
「見てもいいか?」
意味が分かったのかどうか、風びとは頷いた。
リックは馬を下りると、ゆっくり森の中へ入って行った。木が燃えるだけではない異臭がする。ズキンズキンと、身体の痛みが増すようだ。
森は燃えた部分が抉り取られたようになっており、遮る物がないそこだけに陽の光が射し、幾つもの焼けた黒い塊を照らしていた。
トゥヌの丸い大きな目に怒りが灯る。リックは声を震わせた。
「なんだよこれ…!!」
風びとの少女は、黒い塊と化した、虐殺された仲間の遺体の前で泣き崩れた。
『ゆるせない』
トゥヌが怒りを込めた声で吐き捨てる。
泣き続ける少女に声を掛ける事は出来ず、リックとトゥヌは、ただ立ち尽くしていた。
その頃、ウォンベル城の謁見の間にはいかつい顔の大男の姿があった。十年前に脱いだ正装に、窮屈そうに身体を押し込んでいる。
跪いた先にはカライラと、セル・ウェン現国王セイルバルトがいた。
セイルバルトは六十手前の筈だが全く年齢を感じさせない。玉座に座り隆とした姿で、頭を下げている大男、ボラットを見つめていた。
「久しいな、ボラット」
「は。またこうしてお目にかかる日がくるとは思っておりませんでした」
セイルバルトはふっと小さく息をついた。
「此度のことはカライラから聞いていよう」
「…ご無念をお察し致します」
「我らは…『神の側近』という血に縛られ過ぎていたのかも知れぬ。祖の力を絶やさんとしてきたことが、結果としてこの悲劇を招いたのだ」
「陛下の所為ではございません。失われたものの大きさは、私などには計り知れませんが…これもセル・ウェンの運命でございましょう」
セイルバルトとボラットのやりとりを、カライラは静かに聞いている。
「我が国だけに留まらぬ。いずれはアレカンドラ大陸全土を巻き込む事になるであろう」
ボラットは頭を垂れたまま僅かに顔をしかめた。セイルバルトの威厳に満ちた低い声が続く。
「デュイトレン…。あれが不憫ではあるが致し方ない。カライラとそなたに任せるゆえ必ず成し遂げてくれ」
「御意」
ボラットはすっと目を閉じる。
カライラは父の言葉を聞き終えると一礼し、黒髪をなびかせボラットの横を通り過ぎ退出していく。
いつしか、ウォンベル城を夕陽が真っ赤に染めていた。
その夜、ノラは不思議な夢を見た。
五・六歳の頃のリックが、こちらに向かって懸命に手を振っている。笑っているような泣いているような表情で、時々服の袖で目元をこすっている。
そのこどもらしい仕草にノラは思わず微笑み、両手を広げて「おいで」と声を掛けて目が覚めた。
ボラットは十年振りに城へ上がりまだ戻っていない。
夢の中の懐かしいリックの姿に、ノラは昔のことを思い出す。
夫ボラットの曾祖父の素性が明るみとなり城を下がったばかりの頃、ボラットが盗みに失敗したこどもを連れ帰った。それがリックとの出会いであり、貴族という階級を捨て入り口通りに生きる決意をした日でもあった。
こどもがいないボラットとノラは身寄りのないこども達を多く育ててきたが、リックは特に印象に残るこどもだった。(今も決して大人ではないが)
腕白でよく悪戯をしてはボラットに拳骨を喰らっていたが、不思議と人の心がよく分かる。きっと殿下のお力になれるだろう。
ただ、夢の中のリックの何とも言えない表情に、一抹の不安がよぎる。
何か哀しい事が起きる前兆でなければいいのだけれどー。
焼けた森に、朝日が射す。
リックとトゥヌは、泣き疲れて眠ってしまった風びとの少女の傍らで朝を迎えた。
火を怖がる少女のために焚き火も起こさず、暗い夜の闇の中で怒りと悲しみを抱えたまま、誰も一言も話さなかった。
それでも、朝日の光がそれぞれの身体を温め心を包み込む。
目を覚ました少女が、翼を2度ほどはためかせた。
「埋めてやろう」
リックがトゥヌと少女に向かって言う。トゥヌは頷き、少女は小首を傾げた。
二人が立ち上がり仲間の元へと向かって行くのを見て、何をしようとしているか理解したようだった。
布で口を塞ぎ、道具などないので折れた木の枝で土を掘る。リックやトゥヌより歳こそ下のようだが、風びとの少女の力は強く、二人が一掻する間に三掻はしている。
「早ぇなぁ」
思わず感心して言うと、少女がリックの顔を見た。
「俺、リック。こっち、トゥヌ」
リックは自分とトゥヌを指差しながら身振り手振りで名前を言う。
「名前は?な・ま・え」
最後に少女を指し名前を訊いた。
少女はまた首を傾げて暫く考えたあと、小さな声で言った。
「ロー」
「ロー?」
少女はこくりと頷く。
「リック?」
「そう、リック」
「トゥヌ?」
『トゥヌ』
二人の名前を確かめるように呼んで、少女は泣き笑いのような表情になり風びとの言葉で何かを言った。
ありがとう。
多分、そう言った。リックはぐっと涙を堪える。トゥヌは穏やかにローと名乗った少女を見つめていた。
三人は再び土を掘り、亡くなった風びと達を一体一体丁寧に埋葬していく。
その中で、半分炭になった大木の下に折り重なっていた二体の亡骸を見つけた時、ローの顔色が変わった。
瞳から大粒の涙をこぼし、亡骸の傍らに膝をつく。
『…かぞくだろう』
トゥヌが言う。リックは改めて激しい怒りを覚えた。
「青い炎があったってことは絶対にあいつらの仕業だ。蘇った死人ったって元は人だろ?
こんなことするなんて信じられねぇ。神の側近とか言って何様のつもりなんだよ。絶対に狂ってる」
『かみにつかえる、しかくない』
ローは声を殺して泣いている。
『かならず、むくい受ける』
トゥヌは静かに呟いた。
泣いているローの代わりに、リックとトゥヌは家族を掘った穴へと横たえる。
全ての風びとを葬った頃には、陽は西へ傾きだしていた。
沢山の盛土の前で、トゥヌが目を閉じ祈りを捧げる。リックとローも、それに倣った。
神への祈りではない。リックは神の存在など今まで考えた事もない。
ただただ、風びと達が安らかに眠れるようにと、それだけだった。
ローは、目は虚ろげながらも涙は乾いている。昼過ぎから出てきた風は、残った森の木々とローの羽根を揺らしていた。
「俺達は、先に行った仲間を追っかけて東へ行くんだ。一緒に来るか?」
ローはまっすぐにリックを見る。言葉は分からないが、意味を理解しようとしているようだった。
「一緒に行こう」
リックはもう一度繰り返す。
「イッショニイコウ」
ローも言葉を真似て繰り返した。
リックはニカッと笑って東を指差す。ローは翼をはばたかせ、鷹の脚で地面を蹴って舞い上がった。
「おー!」
地上のリックとトゥヌの上で、くるりと輪を描く。その顔は微笑んでいた。
ローは見事な飛翔で空を舞う。それを見上げながら、リックはトゥヌに呟いた。
「俺、ワイヤにいた頃は、神とか、他の種族っての?そんなこと考えたこともなかった。ましてや王子様の面倒見る事になるなんてさ。でもさ、なんか…変わんねぇなーって。城に住もうが水ん中住もうが木の上に住もうが、みんな一緒じゃん。怒ったり泣いたり笑ったり家族がいたり…。当たり前のことなんだろうけど、俺、なんか…」
気持ちを言葉にすると、するりと逃げていくのがもどかしい。トゥヌは思わず笑った。
『みんな、つたわってる』
言葉が通じないローにも、水びとの長である父にも、同じ人でありながら育った環境がまるで違う王族のデュイトレンにも。
こいつは、異なるものを自然とまとめる力があるのだろう。
トゥヌはリックを見て笑いながら思った。本人は全く気付いていないのだろうけれど。
それは、「神の側近の力」と同じくらい得難い力かも知れない。
「腹減った、なんか食おう!」
『その前にからだ洗う、ほうたい変える。土だらけ』
「へいへい。おーい、ロー!降りて来いよー!」
リックは空へ手を振った。
身体の痛みは、いつしか消えていた。
小さな火を起こし、荷の中から干した塩漬肉やパンなどを取り出す。ローはそれらが珍しいようで、一つ一つ手に取っては裏返したり匂いを確かめたりしている。
『手、あらう』
「洗ったよ!なぁ、ロー」
リックが手の平を見せると、ローも真似て手を見せる。
『ちゃんとあらう』
「洗ったって!なんか、トゥヌは親父みたいだよ。ホント」
『そんなとし、ちがう!』
「親父じゃなきゃ若年寄だ。ロー、トゥヌはわかどしより」
「ワカドシヨリ」
『ロー、それ、おぼえてなくていい』
わいわいと賑やかに簡単な食事を取る。リックは、この場にデュイトレンがいたらどんな風だったろうと想像する。ローには凄ぇ優しいんじゃないかな。
「あいつ、今頃どこらへんかな」
『もう、ハラド、ちかくだろう』
ローは、口の周りに干しパンの欠片を付けながら二人の顔を見た。
兄上は継承の儀の際には既に力について知っていた筈。どう思ったのだろうか。きっと同じように思っただろうー。
感情を押し殺し黙々と馬を進めるデュイトレンを呼び止める声がした。
「殿下」
その陰気な声にハッとする。後ろから聞こえて来た声に振り向く。
そこには、ローブ姿の痩躯の男が立っていた。
「ヘンザック…!どうやってここへ…!?」
「お戻り下さい、殿下。進んではなりません」
「貴様…よく私の前に姿を現せたものだな。知っていることを全て話せ。でなければ今度こそ斬る」
デュイトレンは剣を抜いた。
ヘンザックは臆する様子も見せず、幽鬼のようにただ立っている。
「何故ベイゼルの亡霊が蘇ったのだ」
「・・・・」
「兄上の死にベイゼルの亡霊は関係しているのか」
「・・・・」
「答えろ!」
ヘンザックの喉元に剣先が突きつけられる。ヘンザックは暗い目でデュイトレンを見ながら、絞り出すような声で言った。
「そこまでお知りになられましたか…。もうこれ以上はお止め下さい。お小さい頃から存じ上げている殿下の苦しむ姿を見るのは、私とて心が痛みます」
「ほざくな!貴様は兄上を裏切ったのだろう!?」
「殿下、私は…」
「黙れ!」
デュイトレンは剣を振り上げた。
ヘンザックは顔を背ける事もなく、デュイトレンを見ている。
「私が…エレクバーン殿下を暗殺したとお思いですか」
一瞬、ボラットの声が聞こえたような気がした。
デュイトレンは剣を振り下ろした。
布の裂ける音と共に、切れたローブが地面に落ちる。
「殿下…」
「貴様が何を仕組もうと、私は必ず真実を突き止めてみせる。…父上とて、手出しはさせない」
デュイトレンはそう言うと馬首を翻す。
ヘンザックはその背に向かって言った。
「ベイゼルの亡霊は…魂を起こされてしまったのです」
デュイトレンは馬の動きを止めた。
「…私を襲ったベイゼルの亡霊は、神の側近の血を継ぐのは、我らだけで良いと言った。彼奴らの意志で蘇ったのではないと言うのなら、誰が魂を起こしたと言うのだ。貴様が全て企んだ事ではないのか」
ヘンザックがどんな表情をしているのか、デュイトレンには見えない。
「ここで殺さないのは貴様と同じ卑怯な人間になるのが嫌だからだ。覚えておけ。企みが全て明らかになった時、罪人は必ず裁かれる」
そう言い捨て、デュイトレンは馬を走らせた。
「殿下…」
走り去るデュイトレンの姿を見つめながら、声にならない声でヘンザックは呟く。
落ちたローブを拾い上げると、顔に押し当てる。
その痩けた頬には涙が光っていた。
「殿下…」
再び呟くと、痩せた身体の周りに小さな青い炎が灯り始めた。
段々と数が増え身体を取り囲むと、ヘンザックは燃え尽きるように消えた。