第三章 さざめき
東の空が赤く燃える。
夜通し馬を駆ったデュイトレンとリックがようやく街道に出た頃、道筋を示すように太陽が昇り始めた。
リックは長過ぎた夜を改めて思い出し、盛大に溜め息をつく。
あの石は、この災難の予兆だったのかも知れない…。前を行く、石と同じ瞳を持つデュイトレンを一睨みし、更に続く長い道のりを思いがっくりとうなだれた。
「疲れたのか」
カライラと分かれて以降終始無言だったデュイトレンが、前を向いたまま久し振りに口を開いた。
「そりゃそうだろ…一晩でいろんなことがあり過ぎだよ。あんただって疲れただろ。
この先に水場があるから、一休みするか?」
「無用だ」
…かわいくねぇ…。リックはデュイトレンの背中に向かって舌を出した。そのタイミングでデュイトレンが振り返る。
舌を出したまま固まったリックを一瞥すると、また前に向き直った。
朝焼けに目を細める。
「…ボラットの足はどうしたのだ」
「へ?」
急に話を振られきょとんとしたが、リックはすぐにあぁ、と呟いた。
「昔、ドジなガキが盗みで失敗して警備兵のヤツらにとっ捕りそうになった時、そいつを逃がそうとおっさんが体張ってヤツらを食い止めたんだ。相手は五人だったかなおっさんは丸腰だったけど。そん時にやられた傷が元で歩くのが結構辛いんだ」
本人は絶対にそうは見せないけど、と付け足す。
「そのガキが俺。そっからはおっさんとノラ姐さんに育てて貰ったようなもん」
「…お前の両親は?」
「親?気付いた時には一人だったから顔も知らねぇなー」
屈託なく話すリックの様子に、デュイトレンはボラット夫妻や入り口通りの住人達の顔を思い浮かべた。寂しいと思ったことはないのだろう。
「俺も、山ほど訊きたいことあんだけど」
「余計に疲れたくなければ無駄口を控えろ」
…喋らせといてなんなんだよぉ!リックはギリギリと歯噛みして悔しがる。
二頭の馬も、笑うかのようにブルルと鼻を鳴らした。
その後は暫く黙々と進み、馬を休ませようとデュイトレンが言った時には太陽はいつの間にか二人の真上に来ていた。
近くには中規模の宿場町があり、旅人や物資を運ぶ荷馬車などの姿が多い。
町の中では人々が姦しく行き交い、その様子をデュイトレンは興味深げに眺めていた。
「面白いか?」
馬を繋ぎ、いつの間にかどこかに行っていたリックが戻って来て言う。
手にしていたチーズを挟んだ大きなパンを、デュイトレンへとポンと投げた。
「・・・・」
「何だよ、ちゃんと買ったよ。ここのチーズは旨いんだ。ワイアに一番近い宿場町だから色んなとこのいいのが集るし、客がひっきりなしだからパンもいつも焼き立てなんだぜ」
次の宿場は…と続ける。
「物見遊山ではない」
「分かってるけど、あんた土地土地の旨いもん食ったり見物したりした事ないだろ?それくらいは息抜きしろよ」
悪びれた様子もなく、リックはパンに齧りつく。
デュイトレンは暫く手元のパンを見つめた後、同じように齧りついた。
立ったまま、しかも馬の傍で出来立てのパンを齧るのは、当然生まれて初めてである。
デュイトレンにとって、リックのような傍若無人というかそもそも王族に対して全く礼儀をわきまえない者は初めて出会うタイプである。無礼な事この上ないのだが、驚くことに何の計算もなく言ってくる言葉が時に心に届く。教養はないが頭はいい。
ーただ、この者にとって兄の死は所詮他人事であり、昔自分に仕えた者の知己というだけで忠誠を強いる相手でもないという思いが距離感を生み、エレクバーンが死んだ夜から纏わりつく孤独感を強めていた。
一方、リックはリックで全く平然な訳ではない。ただでさえ王族なんかにどう接していいのか分からない上に、いきさつが複雑過ぎて扱いを持て余す。
高潔という言葉を知っていたら当てはめただろう、一本筋が通ったところは感心するがどうにも肩が凝るし、言わずにいれない一言がどうも余計らしい。
そもそも交わることなどない筈だった水と油のような二人は、それぞれの想いをパンとチーズと一緒に呑み込む。
「ほほを出発ひたら、ゆうははにはカズロの森あはりだな」
リックは、パンをくわえたまま見ていた地図を指で弾いた。
「…もう少し馬を休めたら発つぞ」
「馬には優しいな、あんた」
どういう意味だとデュイトレンが言いかける前に、リックは慌てて出発に備えて準備をし始めた。
カズロは、セル・ウェンでも特異な生態系をもった広大な森林地帯である。王都から聖地ハラドへの直線上にあるが、その特異さ故に街道は二日分程の距離を余分に大きく迂回して作られ、人が立ち入る事は禁じられていた。
人の手が入らない森は巨大な木々が生い茂り、希少な動植物が多く生殖している。また、異形の種が棲むとも言われていた。
アレカンドラ大陸で異形の種を呼ばれるものには、獣人、水棲人などがある。人と同じく知性を持ち、大半の種は外部と接触せず独立した社会を形成している。多くが特殊な姿と能力を持っており、人間社会からは忌まれる存在であった。
「日が暮れる前に森の手前で今日は野宿にするか、夜でもひとまず次の宿場まで街道を進むか。どうする?」
鞍に荷を積み直しながらリックが訊く。
デュイトレンは鐙に足を乗せながら言った。
「森を進む」
「本気か?あそこには化け物がいるって言うぜ!?」
「もしそこで死ぬ事になるなら、それは自分が弱かったということだ。怖ければ今からでも戻れ。誰も責めはしない」
「馬鹿言え、そんなこと出来るか」
リックは渋々と言った様子で馬に跨がった。
宿場を発つ時には真上だった太陽が二人の背を照らす頃、カズロの巨大な森が見えてきた。
周囲の山々と決して溶け込まない異様な雰囲気をたたえ、それを感じ取るのか近付くにつれ馬達の落ち着きがなくなる。
馬をなだめながら、デュイトレンは森を見やった。
カズロの森は、人を試すのだー。何年か前、エレクバーンはそう言っていた。意味を問うと、いつか自分で行ってみるといいと穏やかに笑ったのを覚えている。
「行こう」
リックに向けてなのか、馬に向けてか、それとも自分へか。
短く言ってデュイトレンは森の入り口へ進む。
リックは大きく深呼吸を一つして、デュイトレンに続いた。
森の中に一歩入ると、天を突くような巨木と辺り一面の深い緑が作り出す、濃密な空気にまず驚いた。
みっしりと繁る巨木の葉が太陽を遮り、まだ明るい時分の筈だが斜光は森の中に届かず薄暗い。恐らく太陽が真上にいても光を十分に受けられない足下の植物は、それでも逞しい生命力で歪に変化を遂げ地面一体を覆っている。
鳥なのか蟲なのか、甲高い鳴き声が森の奥から響く。
目の前に現れた蝶は、光る鱗粉を散らしながらひらひらと森の暗がりへ消えていった。
「すげえ…こんなとこがあったなんて…」
思わず息を呑んだリックと、言葉こそ出さないがデュイトレンも同じ思いだった。
例えようのない、ざわざわとした不思議な感覚に捕われる。
遥か昔からあるこの森は、天地の声を聞いたという祖先ー神の側近達とも対話したのだろうかー。
デュイトレンはこの森で初めて、祖の力の存在を信じられる気がした。
「すぐに真っ暗になる。どっか安全そうなとこをまず探さなきゃな。
…安全なとこがあればだけどさ」
森に圧倒されながら、ゆっくりと馬を進める。地を覆う植物の中には、馬に触れた途端
威嚇するように蕾を開くものや反対にパッと身を縮めるものなどがあるようで、歩く度に大騒ぎしているように見える。それがどこか微笑ましい。
「この森は、生きてんだなぁ」
ずっと植物達の様子を見ているデュイトレンに、リックが嬉しそうに言った。
この仏頂面の王子は、動物とかこういう植物とかが好きなのかも知れない。かわいいとこもあるじゃんか。
ぼんやりと思ったその時、リックの右足が強烈に引っ張られた。
「うわっ!!」
鐙に乗せた右足の膝から足首にかけて鞭のような蔦が巻き付き、植物と思えない力で下へと引っ張る。まるでリックを引きずり落とそうとしているかのように。
「なんだこれ…!」
落ちまいと踏ん張りながら、腰に差した小刀に手を伸ばした。
バシュッ!
ゴムが切れるような音がして、巻き付いていた蔦が切れて飛んでいく。
次の瞬間には、デュイトレンが剣を収めていた。
「…あー、えーと、助かった」
「生きていると分かっているなら用心しろ」
「(ぐっ)…」
前言撤回だ。
「しっかしこの森で野営地決めるのは難しいな。下はこんなだし、木の上だってどんなヤツらがいるか分かんないし。…ん?なんか向こうで光ったな…」
リックが森の奥の暗がりを指差す。木々の奥から、ちらちらと何かが反射するような光が漏れている。
「行ってみるか?」
リックの言葉にデュイトレンは軽く頷き、注意深く光の方へと進む。
辺りはどんどんと暗くなり、光が一層強まって見える。
「これは…」
やがて見えてきた光景に、二人は言葉を失った。
そこには、木々に隠されていたかのような沼があった。
真円に近い沼の上では光の鱗粉を散らす蝶の群れが乱舞し、その無数の光を水面が受けて輝いている。今にもキラキラと光の音が聞こえてきそうだった。
「すげぇきれいだ…」
リックは光に誘われるように、馬を降り沼へと近付いた。
覗き込んだ水面は怖い程に澄み、見る者を引きずり込むような深潭は青よりも更に濃く、水底に夜空があるようにも見える。
思わずリックはもう一歩踏み出した。
「気をつけろ」
「え?」
腕を掴まれ我に返ると、思っていた以上に身を乗り出していた事に気付く。
「ああ、悪い…、あんまりきれいで…」
「…今日はここで野営だ。水もあるし、あの草の這っていない岩場の上なら少しはましだろう」
「そ、そうだな」
リックは自分の頬を2回ほどピシャピシャと叩くと、荷物からランタンを取り出し灯りを点けた。
その灯りよりも光る蝶達は、ひとしきり舞った後再び闇へと消えていった。
二人は、沼近くの平らな大きな岩へと移り、小枝を集めて焚き火を起こした。
木に繋いだ馬は、森の雰囲気に慣れたのか大人しく草を食んでいる。
「この様子なら、ここはそう危険ではないだろう」
「そうだといいけどな。俺達もさっさと飯にして、もう休もう」
簡単な食事を取った後は、森は一気に静寂に包まれた。
疲れからか、リックは横になった途端すぐに寝息を立て始めた。
その寝付きの良さに呆れ半分感心しながらデュイトレンも横になると、昨夜城を抜け出し、今こうして固い岩の上で寝転ぶまでに起こった事を、一つ一つ思い出していた。
パシャンという水音を聞いたような気がして、デュイトレンは目を覚ました。いつの間にか眠っていたようで、慣れない環境で寝たせいか痛む身体を起こして辺りを見回す。
森は静まり返り、沼の水面だけがゆらゆらと動いていた。
魚か…。
その時だった。
『神に仕える者よ…』
デュイトレンは素早く剣を取り構えた。
「…何者だ」
『剣を収めよ、遥か昔より我らは朋輩』
「朋輩?」
デュイトレンが聞き返したその時、目の前の水面が盛り上がり始めた。
「水びとか!」
水面に対して構え直す。
異形の種の一つ、人里離れた沼や川に棲む者達は、水棲族または水びとと呼ばれている。水中からのその声は、一人二人と増えていった。
『ふふふ、ふふふ。今世の若き側近は面白い』
『あれとはまた違う。ふふふ、ふふふ』
「あれとは何だ」
『あれは死んだ。死んだ』
「もしや…兄上のことか?兄上を知っているのか!?」
『我らは汝の心をよく知る。近しい者を失い、哀しいだろう。無力な自分が憎いだろう。心知れぬ者との先の見えぬ旅は怖いだろう。神に仕える者も、長い長い時を経て今やただの人だ、弱い。弱さを隠すに必死だ』
「貴様ら…」
『隠すな、我らは汝の味方。求める真実を見せてやろう』
真実という言葉に、デュイトレンはどきりとした。
「…うるさいな…なんだ?」
ようやく声に気付いたのか、リックはまだ覚醒しきらないまま起き上がり何気なく沼に目をやった。水面は一層さざめきを増し、岩に立つデュイトレンと同じ高さまで激しい水音と共に一気に盛り上がった。
「うわっ!?なんだよあれ!」
流れ落ちる水の中から、異形の男が現れた。
形は人と似ているが、ギョロリとした目と口元が水中の生き物を思わせる。肌は鱗で覆われ、鋭い爪のある足で水面に立った。
後に続くように、今度は一見人と変わらない長い髪の美しい女が二人、水面から上半身を現して笑みを浮かべる。水中の下半身には、足の代わりに蛇のような尾があった。
『神に仕える者よ、真実を知りたいだろう』
真実?リックは、水上の異形を見つめたまま動かないデュイトレンを仰ぎ見た。
『人間は嘘をつく。裏切る。汝の心がこれ以上傷つかぬよう守ってやろう』
水中の女が、妖しく美しい声で歌い始めた。哀しいような恐ろしいような旋律が、森の闇を震わす。
リックは突然目眩を覚え倒れ込んだ。
「なん…だ…?」
その呻くような声にデュイトレンがハッとする。
『その人間を殺すのだ。それはいつか汝を裏切る』
「何を…」
『他人を信じてはならぬ。汝の祖が、分かれ、消えていった様を我らは知っている。そこにはいつも人間の心の闇があった。我らなら汝に真実を与えてやれる。その為には血を捧げるのだ』
まるで水の中にいるみたいだ…うまく息が出来ない…!リックは薄れる意識の中、デュイトレンが自分を振り返るのが見えた。その表情は分からない。
女達は二人がいる岩場まで泳いで来ると、岩に手を乗せ歌に乗せて語り掛けた。
『死ぬのが厭なら自分が殺せばいい。親でもない、友でもない、誰でもない人間だもの』
『ふふふ、人間なら出来る。殺し合う事が出来る』
「そ、ん…な…こ…っ…」
リックは言葉が続けられない。最早何も考える事が出来ない。
ぼんやりと見えるデュイトレンの剣が、こちらを向いたような気がした。
咄嗟に、リックは身につけたままだった小刀を振りかざした。
森に、悲鳴がこだました。
『ぎゃあああああっ!!』
一人の女が頭を押さえながら水中へ沈んでいく。水面には切られた髪が浮かんでいた。
歌が止み、リックは呼吸が楽になるのを感じた。女の方へ向けられた小刀をぱたりと落とす。
デュイトレンは、もう一人の女へと剣を向けた。
「水棲族の女の力は髪に宿ると聞く。これ以上手荒な事はしたくない。退いてくれ」
残った女は怯え、慌てて水中へと消える。
水上の男が咆哮を上げた。
『愚かな人間め…!!』
水面を蹴るようにして、デュイトレンへと飛び掛かった。
鈍い音がして、男の鋭い爪を剣が食い止める。
「何故襲う?祖とは朋輩ではなかったのか!?」
『一つだった頃の神に仕える者達と、汝らは違う。醜い人間共と同じだ。…面白い奴だと思ったが、所詮汝もただの人間だ!」
男はそう吐き捨て、剣ごと噛み砕こうとするように歯を剥き襲いかかる。
デュイトレンの喉元に喰らいつこうとした瞬間。
男の身体が横へ吹っ飛んだ。
体当たりをしたリックが、その場に崩れ込む。
「こいつは、手荒な事したくないって、言ってるだろ!」
まだ息が整わず、切れ切れになりながらも男に叫ぶ。男は倒れたまま唖然とした表情を浮かべた。デュイトレンも、驚いたようにリックを見た。
「何が憎いのか知らねぇけど、そんな相手を殺すのが、あんたらの、礼儀なのかよ」
『・・・・』
リックのまっすぐな視線を受け、男は何か考えるように黙り込んだ。
やがてゆっくりと後ろへ下がり、沼へと飛び込もうとした。
「待て!お前達の言う真実とは何なのだ!」
『…我らの知る真実は、汝らが求めるものとは違うのかも知れぬ。探せ、神に仕える者よ。神の加護は最早人間にはない。どれ程の事が出来るか見せて貰おう』
そう言って男は水しぶきを上げ、暗い水底へと消えていった。
「はー…。…どうなることかと思った…」
緊張で張りつめていた身体から力を抜き、リックは岩に突き座り込んだ。
「あいつら、人間が心底嫌いなんだな」
「異形の者達は、容姿やその特異な力を忌まれ人間から迫害を受けて来たのだ。憎まれても仕方がないだろうな」
「だからって、初めて会う相手を殺すのはおかしいだろ」
憤るリックに、デュイトレンは突然ふっと笑った。
「なんだよ」
「…お前の言葉だから、あの者は退いたのかもと思ってな」
「?」
「あの者達は私の血筋を知っていた 。恐らく兄上がここに来たことがあるのだろう」
「そっか…。そん時は何があったんだろうな」
デュイトレンは、ちょうど椅子のような高さの岩に腰掛け、何事も無かったように静かな水面を見つめた。
「俺さ」
リックはポツリと呟いた。
「あいつらがあんたに、俺を殺せって言った時。…殺されるかなと思った。少しだけ」
バツが悪そうなリックに、デュイトレンは顔を向けた。
「…私も、お前は私を殺そうとするかも知れないと思った。けれど、お前が持っていた刃はあの者達に向いていた」
穏やかに言われたリックは一瞬面食らう。その後、へへと笑った。
「あんたも、あいつらを切った」
そうだなと、デュイトレンも微かに笑う。
リックは初めてデュイトレンの素顔を垣間見た気がして、またへへと笑った。
その後は、焚き火の炎のゆらぎに照らされながら、二人で沢山のことを話した。
「神の側近」という一族がいたこと。城のこと。デュイトレンの兄のこと。町のこと。入り口通りの仲間のこと。中でもリックが一番驚いたのは、ボラットのことだった。
「ボラットは、十年前に城を下がるまで宰相を務めていたのだ。政もさるごとながら剣の腕も武官並みで、私は幼い頃から随分鍛えられたな。それがある日、ボラットの曾祖父が盗賊だったという噂が立ち、真偽を問うと本人が認めたのだ。今思えば、政敵だった者がボラットを失脚させる為に調べ上げたのだろう。ボラットはノラを連れ城を去り、私はずっと行方を知らなかった」
「ノラ姐さんも?」
「ノラは元は歴とした貴族の出だ。十年前はもっと華奢で、大変な美女だったぞ」
ええ~っとリックが声を上げる。
「ボラットは地位を失ったが不幸ではなかった。お前達を見て、そう思う」
優秀な兄の陰で、父から省みられることがなかったデュイトレンにとって、ボラットは父代わりだった。そのボラットが一度は酷な道を辿たものの、人に恵まれ自分らしく暮らしてきたことを心から喜んだ。
リックは城の生活など想像も出来ないが、きっと窮屈で閉ざされているだろうデュイトレンの環境を思いチクリと胸が痛んだ。
「…にしても『かみのそっきん』の力って何なんだろうな。大昔にいたって言っても単なる言い伝えだろ?」
「私もそう思っていた。けれど、この森に来て…我が祖の力を信じられる気がしたのだ。…うまく説明は出来ないが」
兄エレクバーンは、力とは何かを知った時どう思ったのだろうか。
「兄上は、神の側近の末裔であるということに誇りを持っていた。祖に恥じぬ良き王に必ずなったと思う」
「…見つかるといいな。兄さんのためにも、本当のことが」
焚き火にくべられた小枝が爆ぜる。
暗い森の外では、星が静かに瞬いていた。
「そろそろ休もう、少しでも眠っておかなければ。もう彼奴らも襲っては来まい。水びとには水びとの誇りがある」
リックは頷き、伸びをひとつした後ごろりと横になった。
水びとの沼を発った後、リックとデュイトレンはひたすらに馬を進めた。しかしカズロの森は深く、容易には人を通さない。
ようやく森を抜けたのは、踏み入った翌々日の朝だった。
「あぁー!久し振りに太陽を拝んだ気がする。全く、とんでもない森だったぜ!」
二度とごめんだ、とリックが叫ぶ。
道などない為迷ったのもあるが、何より森の奥に進めば進むほど見た事も無い獣や植物が次々と現れ、しかも揃って攻撃的だった。
デュイトレンも、獰猛な森の生き物達を思い出し苦笑する。
「今日は絶対に宿に泊まる!」
そう言うとリックは地図を広げ、街道へ戻る道を探し始めた。一番近い宿場まで、半日ほど。
「そこは何が有名なのだ?」
「さすがにここまでは来た事ねぇから分かんねぇな。行ってみてのお楽しみだ」
つい先程まで散々森に苦しめられていたのが嘘のように、リックは楽しそうに言った。
それから宿場町までの間、デュイトレンは旅立って三日目にして初めて道々の景色を見ながら進んだ。
ワイアでは見られない藁葺きの屋根やのどかな田園風景が心を和ます。
決して大きくはないセル・ウェン国内ですら、自分の知らないものは数知れない。デュイトレンは、いっそ晴れ晴れとした気分だった。
「何笑ってんだ?」
「笑ってなどいない」
「笑ってんじゃんか」
相変わらずの言い合いにも慣れた。
束の間穏やかな時間が流れ、二人はトレクという鄙びた宿場町に辿り着いた。
小さな町だが目抜き通りには一通りの店が立ち並び、数人の旅人がそれぞれ休息を取ったり目当ての物を買い求めたりしている。
宿は通りの一番端にあり、馬を預けた後愛想の良い親爺が部屋へと案内した。
「俺、ちょっと町見てくるけどどうする?」
「いや。気にせず行くといい」
それじゃ、とリックは荷を置くなり通りへと出掛けた。
町中の通りと言っても、徒歩で半時間もあれば端から端まで行けてしまう。
こういうとこで盗賊ってやっていけるのか?などとつい考えていると、ある後ろ姿が目に留まった。
町の外れの木立へと歩くローブ姿。フードを被り顔は見えない。
そのローブはデュイトレンや姉カライラと同じ物に見える。
こんなとこまで、また追っ手か?
デュイトレンに知らせるか一瞬迷ったが、リックはそのローブ姿をそっと追いかけ始めた。気付かれないようにするのはお手のものだ。追っ手かどうか確かめてやる。
ローブ姿の人物はどんどんと木立の中へと入って行く。彷徨うような足取りで、まるでローブだけがふらりふらりと歩いているようだった。
人間じゃないかも知れねぇ…。リックは森で出会った水びとを思い出した。
木立の中程まで来ると町並みは見えなくなり、小さく沢の音が聞こえてくる。ローブ姿の人物がふっと立ち止まると、リックは充分に距離を取ったまま木の陰から様子を窺っあた。
その場に同じローブを着た者達が、周囲から一人二人と集まり、円を描いて並びだす。
五人目が集まったところで、その内の一人が中心に向かって手をかざした。
それを見てリックは思わず声を上げそうになった。
ローブから覗いた手は、白い骨だった。
その骨の指先に、青白い小さな光が灯ったかと思うと徐々に大きくなっていき、メラメラと燃え始めた。
青い炎だ…!!
デュイトレンから聞いた炎を目の当たりにして、不気味な青の色に背筋がゾクリとする。
これは知らせないと、と引き返そうとした瞬間だった。何かが頭の中に響いた。
「おわっ!?」
隠れていた木に青い炎が襲いかかり、見る間に炎に包まれる。更に炎は飛びかかるようにリックの服へと燃え移った。
「うあああっ!!」
熱さではない、燃えている所から引き裂かれるような激痛が襲う。
何も考えられない。ただ叫ぶしか出来ない。
立っていることが出来ず、リックが崩れ落ちたその時、頭上を黒い影が飛んだ。
影はローブの五人へと飛びかかる。
「ゴアアアアッ!」
ローブが切り裂かれ、隠されていた姿が現れる。それはいずれも人の成れの果てー骸骨達だった。この世のものとは思えない断末魔と共に、影になぎ倒されて行く。
炎を操っていた者だけはゆらりゆらりと攻撃を避け、影とリックの様子を見ているようだった。
やがて再び炎を骨の手に宿らせ自らの全身を炎で包んだかと思うと、一瞬で燃え尽きたかのように消えてしまった。同時にリックの身体を焼く炎も消える。
骸骨達を蹴散らした影は、気を失っているリックへとゆっくり振り返った。
宿に残ったデュイトレンは、窓からの景色を眺めながらヘンザックが変わった頃のことを思い出そうとしていた。真剣に国の将来を想い、能弁ではないがエレクバーンとは意見を交わす間柄だった男が、いつしかあらゆる手を使い栄達の道を選ぶようになった。
何か兄上と確執が生まれ、それが継承の儀での兄上の死に繋がったのか…?青い炎は凶兆だったのか。
そう考えていた時、ドアが開いた。咄嗟に剣を取る。
そこには、フードを被ったローブ姿の何者かが、同じローブに包まれた自分の背丈程の何かを担いで立っていた。
「何者だ」
デュイトレンの問いに、フードの下の口が動いた。
『お前の、なかま、けが』
独特な声でそう言って、担いでいたローブをベットへ置く。
「その声…お前は…?」
デュイトレンは警戒しながらローブをはぐと、身体のあちこちが焼けただれぐったりとしているリックが現れた。
「…何があった!?」
『やつら、いた。こいつ、あとつけた。見つかって、やかれた。青い、ほのお』
「青い…炎…!?」
リックの傷を診ようとしていたデュイトレンは愕然として手を止めた。それを見たローブの男はデュイトレンに代わり傷を確かめ、小指ほどの小さな瓶を取り出した。
『われらの、くすり。きず治す』
瓶の中に入った軟膏のような物を傷に付けていく。リックは意識を失ったまま目を閉じている。微かな息だけが、命を取り留めていることを伝えていた。
ローブの男は静かにフードを外した。
現れたのは、大きな目に魚類を思わせる口元。
『おれの父、もりでお前たちにあった。おもしろいといった。おれもそう思った。あとついてきた。そうしたら、やつらもいた』
ローブの男は、カズロの森で遭った水びとの男の息子だった。沼の男より小柄で人間の言葉を使い慣れないようだが、顔つきや声が沼の男に似ていた。
「連れを救ってくれたのか。…感謝する。奴らとは誰なのだ。青い炎について何か知っているのか?」
『やつら、起こされたもの。亡霊』
「亡霊!?」
『言いつたえ。…起こされたもの、からっぽのたましい燃やすとき、青いほのお上げる』
「空っぽの魂?」
水びとの息子は頷く。
「死者が起きる…蘇るなどと信じられん…。…我が兄の継承の儀の際に、青い炎が現れ東へと消えたのだ。兄は儀で命を落としたと言われているが…もしや…もしや兄上は…蘇らせられようとしていたのか…!?」
『起こされようと、したか、すでに起きたあとのもののたましい燃えたか、それ分からない。けれどほのお逃げたなら、起きてないかも知れない。なにか、あった』
「誰がそんな…?ヘンザックにそんな力があったのか…!?」
『お前のいちぞく、ほのお知るもの、つかえるちからある。ほのおは、ぶきになる』
「な…!!」
デュイトレンは言葉を失う。あの日あの場にエレクバーンと共にいた王族は、一人しかいない筈だった。エレクバーンが正式に王位継承者になることを誰よりも心待ちにしていた父王。
「兄上が死に…父上が蘇らせようとしたというのか…?」
その時、リックの身体が微かに動いた。
「…あいつ…邪魔するなって…。俺も…あれと同じ目に遭わせる…って言った」
「気がついたのか!今はいい、話すな」
「あれって…兄さんの事だ。あいつら…ただの、骨の人形…操られてる…誰かに…」
リックはそれだけ言うのが精一杯だった。苦しげに再び意識を失う。
『いったい、意志があるものいた』
デュイトレンはリックを見ながら唇を噛んだ。
兄は過失などで命を落としたのではない。殺された。
その兄を父は蘇らせようとした?
そして、真実を探す自分達へ亡霊が刺客として放たれた。王族が持つという力で青い炎を燃やして。
放ったのは誰か、デュイトレンは考えたくなかった。
何について知られるのを恐れたのか。兄の死の原因か、それとも蘇らせようとしたことか。思えば、姉も刺客として命を受けたのかも知れない。
全てに、絶望してしまいそうだった。
ただ、関係のない者をーリックを巻き込んでしまった。
『おれの父言う。にんげん、こころにやみ』
「…その通りだ。ひとは、弱い」
水びとの息子もリックを見やった。
『こいつのこころつよい。けれど、きずひどい。青いほのおのきず、ほかとちがう。助からないかも、知れない』
デュイトレンは、リックが横たわるベットの傍に跪いた。
助かってくれ…!そう願うことしか出来なかった。
薄暗いカズロの森の中で、異形の男が沼のほとりの岩に立ち水面を見つめていた。
男は沼に棲む水びとの長で、人間を憎みデュイトレンとリックを襲った。
遥か昔、神の側近達が人々を束ね導いていた頃、異形の種も今のように人里離れることなく人と共生していた。人にはない力を共に持つ者として神の側近達とは互いに協力関係にあり、友好を結んでいた筈だった。
いつの頃からだろうか、神の側近達が変わってしまったのは。力を忌まれ、追いやられるように異形の種は人間世界から姿を消した。祖先の無念は脈々と受け継がれ、人間への憎悪は絶える事はなかったが、その分今の末裔達よりもよほど神の側近についての伝承が残っている。
ふと、男は口の端に笑みを浮かべる。
あの末裔と赤毛ー。息子が追いかけて行ってしまったが、止めはしなかった。
静かな水面と向き合う男の後ろで、カサリと草を踏む音がする。
『…珍しいな。人がこう続けざまにここを訪れるとは。何用だ。どうせろくな用ではあるまい』
問われた者は答えない。
『去れ。今日はもう人と話をしたくない。特に汝とはな』
振り返らず、男は言い捨てた。
背中で剣が鞘から抜かれる音がする。
息子よ、無事であれ。
身構えながら、男はそう祈った。
青白い光に、リックは目を覚ました。
そこは青くぼんやりとした光が周囲を照らし、地面の感覚がない。
リックは自分の身体を見回した。傷痕どころか服も破れてもいない。
確か青い炎に焼かれて…。そっか、俺、あん時死んじまったんだなぁ。
最後の仕事は…あの夜色の宝石だ。あれはボーのおっさんとこに置いて来たっけ。
あいつはどうなったろう。この先一人で大丈夫か?って、死んだヤツに心配されたかないか。
リックは自分でも可笑しくなって笑った。声は吸収されるように聞こえない。
ここは何処だ?間違っても天国には来れないだろうけど…地獄ってほどでもなさそうだ。
耳が痛くなるような静まり返ったその空間で、リックの前に、ふっと人の姿が現れた。
肩まである漆黒の黒髪に、穏やかな笑みを浮かべた端正な顔立ちの少年。
デュイトレン…?リックは呟いて、今の今まで名前を呼んだことがなかったことに気付いた。
少年は、十歳ほどの少女と七・八歳ほどの少年を連れている。三人ともよく似た面差しで揃って美しい。一番年長の少年は、はしゃぐ幼い二人を慈しむように見守っていた。
あれは兄さんか…。
リックは、三人の春の日だまりのような温かい様子に思わず微笑んだ。家族ってこんな
感じかな。
不意に、年長の少年がリックを見た。少年を幻だと思っていたリックはドキリとする。
少年からすれば、リックの方が幻のように見えているのかも知れない。
少年は、リックに何かを言った。声は聞こえない。
ただ、寂しげな表情に胸が締め付けられるようだった。
リックはえ?と聞き返す。
少年はもう一度口を開いた。
「どうか、守って。私の分までー」
声は、頭の中に響いてくるようだった。
少年は、幼いカライラとデュイトレンの手を引き光へと消えていく。
リックは少年が残した言葉の意味が哀しくて、3人が消えた光の方へと手を伸ばした。
光の眩しさに、目を閉じた。
「・・・・」
次に見えたのは、煤けた板張りの天井だった。
『きづいたか』
特徴ある声と共に、視界に大きな目をした男が入って来た。
リックは、何かを掴むように右腕を上に伸ばしてベットに横たわっていた。
目には涙が溢れていた。
「俺…?」
『二日、死にかけた。もう、助かった』
「あんた…森で…?」
『息子。なまえ、トゥヌ。おまえ、リック。連れにきいた』
「連れ…そうだ、あいつは?…ッテテ…」
起き上がり掛けた時、全身に引きつるような痛みが走り顔をしかめる。
『むりきんもつ。連れはさき行った』
「先に…?一人でか!?」
トゥヌと名乗った水棲族の息子は、小さな瓶から出した軟膏をスプーンに盛る。
『泣くほど、さみしいか』
「泣くって…、うわっ、なんだこの涙!違う、あいつの事じゃなくて、いや、あいつの事ではあるんだけど…」
『いみ、わからない』
トゥヌはリックの口にスプーンを突っ込んだ。そのあまりの味に、リックは悶絶する。
『ぬるより、食べるほうが、よくきく』
「…逆に死んじまうよ!」
やっとの思いで薬を飲み込んだリックは、抵抗も満足に出来ない身体を呪った。
トゥヌは自分が何故ここにいるのかを説明する。リックは町外れで青い炎に焼かれかけた後半死半生で宿に運び込まれ、ここでデュイトレンに何か言った気はするのだが、その一切の記憶が曖昧で、ただ猛烈な痛みだけを身体が覚えていた。
『かみにつかえるもの、お前に、すまなかったと、つたえてくれと言った』
トゥヌの言葉を、リックは天井を睨みながら聞いた。
初対面でいきなり剣を突きつけられて、お供に駆出されて、道中ずっと険悪で、森で1回死にかけて、今度は2回目だ。
「済まなかったの一言で、済むと思ってんのか?」
リックは、握った拳を目の上に載せた。トゥヌは大きな目でリックを見つめる。
『追うのか』
「当ったり前だ。貸しはでかいんだ。それにこのまま帰ったら、それこそおっさんに殺される」
そっちの方が何倍も怖ぇやと言うリックに、トゥヌは笑った。リックは、魚が笑うとこんな感じかなぁ、と口には出さないが思う。
『おれも行く。やはり、お前達おもしろい』
「あんたへの礼がまだだった。ありがとな、トゥヌ。すぐに動けるようになるから、もうちょっとだけ待ってくれよ。
それとさ。…あの恩知らずの名前はデュイトレンっていうんだ。覚えといてやれよ?」
トゥヌは頷く。
あいつは、神の側近でも、殿下でもない。