昨日までは、優しかった
朝、いつものように挨拶をしたら、用務員に舌打ちをされた。
校門の脇で、植えこみの枝を切っているところだった。僕が挨拶をすると、鋏の動きが止まった。こちらを見て舌打ちをし、そのまま、何事もなかったかのように作業に戻った。
昨日までは、挨拶をすれば必ず何かひと言返ってきた。帰りに会うと、作業の手を休めて話をしてくれることもあった。
この前は、枝に残っていた鳥の巣を見せてもらった。卵があるかとのぞきこむ僕に、もう巣立ったあとだと笑っていた。
「今日は、何かありました?」
切り落とされた枝をのぞきこむと、用務員は鋏を下ろした。
「早く教室に行け」
僕は体を起こした。もう少し何か言ってくれてもよさそうだったが、鋏はまた動き始めていた。
昇降口へ向かう間も、背後で枝を切る音が続いていた。
冷たくて、突き放してくるような音だった。
二時間目の授業が終わったあと、担任に話しかけた。
先生とは、よくアニメの話をしていた。僕が見ている作品を先生も気に入っていて、休み時間に話しかけると、たいていは応じてくれた。僕が先の展開を話そうとして、まだそこまで見ていないからと止められたこともある。
昨日も、帰ったら続きを見るからネタバレはしないでくれと言っていた。
「先生、あのあと見ました?」
教卓で教材を片付けていた先生は、顔を上げた。
「何を?」
「アニメの続きです。昨日、帰ったら見るって言ってたじゃないですか」
「ああ。まだ見てないんだ」
先生はそう答えると、隣で待っていた生徒からノートを受け取った。赤ペンで何かを書き込み、ひと言添えて返した。
その子が教卓を離れてから、僕はもう一度話しかけた。
「今日こそ見てくださいよ。次、すごく面白いんです」
先生はプリントの端をそろえ、机の上で軽く打ちつけた。
「もういいだろう」
声が低くなった。
「何がですか?」
先生は僕を見た。それから、教室の後ろで騒いでいる生徒たちへ目を向けた。
「そういう話は、友達としなさい」
それだけ言うと、教材を抱えて教室を出ていった。
廊下で別の生徒に呼び止められ、先生は足を止めた。何を聞かれたのかはわからなかったが、答えるときには笑っていた。
僕は自分の席へ戻った。
冷たくあしらわれたような気がしたし、実際そうだった。
昼の給食はカレーだった。
配膳を終えた生徒が次々に席につき、食べ始めてからも、教室は騒がしかった。向かいの友人が、スプーンを持ったまま僕の方へ身を乗り出してきた。
「この国は、いま偽物に侵略されてるらしい」
僕が顔を上げると、友人は昨夜見たという動画の話を始めた。
隣の国が、こちらの国の人間の複製をつくっているという。勝手に採取した遺伝情報から、顔も体も同じ人間を育て、工作員として送りこんでいるらしかった。
「本人を殺して、代わりに生活させるんだって。顔も声も同じだから、家族でも気づかない」
「そんな馬鹿げた話を信じるの?」
「戦車で攻めてくるより、よっぽどうまいやり方だろ」
僕は鼻で笑った。
「顔と声が同じだけだろ? さすがに気づくよ」
「そこはうまく演じるんじゃないか?」
「気づくと思うけど」
「政治家とか軍人だけじゃなくて、学校とか、普通の家にも潜んでいるんだって」
友人は教室の中を見回した。給食を食べ終えた先生が、窓際の席で生徒と話していた。友人の視線はそこで止まったが、すぐに僕へ戻ってきた。
「本当に気づけると思うか?」
「気づくよ」
「先生が入れ替わってても?」
「何か、心当たりでもあるの?」
友人は笑いながら担任の方へ顎を向けた。しかし、先生の顔を眺めているうちに、口元から笑みが消えた。
「今朝から気になってたんだ。先生って、あんな顔だったっけ?」
僕もそちらを見ると、先生と目が合った。
隣にいる生徒はまだ話し続けていたが、先生はこちらを見ていた。その目は笑っていなかった。
友人は小さく肩を震わせ、顔を伏せた。それから、何も言わずに冷めかけたカレーを口に運んだ。僕もスプーンを取り、皿の端に残ったご飯を集めた。
給食の片付けが終わるころ、友人は教室の隅で先生と立ち話をしていた。何を話しているのかまでは聞こえなかったが、友人は大げさに笑い、先生も苦笑していた。
先生がふと僕に目を向けた。
そのときだけ、笑みが消えた。
午後の授業を終えて帰るころには、空が曇っていた。校門の脇には切り落とされた枝が束ねてあったが、用務員の姿は見えなかった。
家に着くと、玄関には母の靴があった。廊下の奥から換気扇の音が聞こえ、煮物の匂いが漂っていた。
「ただいま」
返事はなかった。
台所へ入ると、母がコンロの前に立っていた。僕を一瞥しただけで、すぐに鍋へ目を戻した。制服のまま椅子の背にカバンをかけても、着替えてくるようにとは言われなかった。
僕はコンロのそばへ行き、母の肩越しに鍋をのぞいた。
「今日、何?」
やはり返事はない。
「ちょっと味見していい?」
母が菜箸を止めた。
「うるさい」
それから、煮汁に沈んだ肉をほぐし、火を弱めた。
僕は鍋から離れた。
学校でも家でも、話しかけるたびにこんな反応をされると、さすがに面白くなかった。味見くらい、させてくれてもいいと思う。
台所の隅に、小さな薬の瓶が置かれていた。持ち上げると、中で錠剤が触れ合う音がした。
「何の薬?」
「気になるなら飲んでみろ」
僕は瓶を元の場所に戻した。母は鍋の様子を確かめてから、菜箸を置いた。
「僕も、何か手伝うことある?」
「寝ている男を始末するのに?」
「猫の手が必要かなって」
「いらん」
「それならよかった」
「そのまま馬鹿のふりを続けていろ」
鍋に蓋をすると、母は僕の前を通って冷蔵庫を開けた。僕は邪魔にならないところへよけ、ポケットで震えたスマートフォンを取り出した。
父からメッセージが届いていた。これから帰るので、何か買うものはあるかという。
母に画面を見せると、首を横に振られた。何もいらないと送ると、すぐに、わかった、と返ってきた。
お父さんのことは好きだから、できれば帰ってきて欲しくなかった。
僕はスマートフォンをしまい、母の背中に声をかけた。
「お父さん役の人は、気さくだといいね」




