002 初めてのダンジョン
「はいはーい、こっちに視線ちょうだーい」
「うぅ……はずかしい……っ」
「いい歳こいたおっさんがうつむき気味にはずかしいとかやめてよ。萌えるじゃん」
「だ、誰がおっさんだ、まだ二十六だもん……!」
「うへえぇッ!」
場所は移動し、家からタクシーで五キロほど離れたところにある深江駅の地下。
かつては地下鉄が走っていたその場所は見る影もなく、底の見えない冷たい風が吹き抜ける洞窟へと様変わりしていた。
この二年でいったい何が起きたんだ——と問うよりも先に、これで通勤しなくて済むっていう喜びが勝ったので俺は何も言わない。訊かない。
「お兄ちゃん、そんな俯いてたら死ぬよ。ここは浅瀬でも迷宮なんだから。魔物だっているんだよ」
「だ、だってカメラ向けられるのはちょっと……目のやり場も困るし」
「ほらほら、視聴者数ゼロのうちに喋る練習しとかなきゃ。はい、まずは自己紹介」
「あの、こういうのって普通、家で練習しません?」
間違っても迷宮でやるようなことじゃないと思う。
危険なんだよな?
「成長を爆発させるにはアウトプット一択だよ。行動しながらインプットすればいいし、その方が効率的でしょ? ねえ、これ常識じゃない?」
「く……悔しい……っ!」
社会人の俺が学生に知ったようなくちを聞かれるなんて……!
「たくさん転けて馬鹿にされて笑われて成長していくんだよ。アインシュタインだってそうだったじゃん。え、常識だよね?」
「わかった。わかったからその意識高い系やめてくれ」
「挑戦しないこと、ただそれだけが人生における失敗だよ。え、お兄ちゃん。わたし何か間違ったこと言ってる?」
「わかったから! 俺、がんばるから!!」
そうこうしているうちに、三十メートルほど離れた草むらからちいさな人影があらわれた。
薄汚れた布をまとう、小学生くらいの痩せこけた人型。
ツルツルの頭皮から足のつま先まで、絵の具をひっくり返したかのような緑色。
明らかに人間じゃないなにかが、こちらをジッと見つめている。
「お、ちょうどいいね。『レベル2』のゴブリンだ」
「ゴブリン?」
「え、知らない? ゴブリンだよ、本物見たことなくてもわかるでしょ?」
「……いや、そりゃそうだけど」
ゲームでお馴染みとはいえ、こうして現実に出てこられるとちょっと……。
「し、しかも近づいてくる……!」
「迎え撃って、お兄ちゃん!」
「ええぇぇっ!?」
カメラを構えたウララに背を押され、俺は転びそうになりながら体勢を整える。
ふと、顔を上にあげた。
十メートルにも満たないその距離に、ゴブリンはいた。
「キィエエエッ」
「うぅ!?」
親の仇をまえにしたかのような甲高い奇声。勢いよく距離を詰めてきたゴブリンが、拳を振り上げた。
あまりにも唐突で、受けの用意ができていなかった俺はモロにゴブリンの拳を喰らった。
「ごほ……あ、そんな痛くない」
「ギ?」
痛い。たしかに痛いが、想像していたより全然痛くなかった。
たとえるなら、久々に会った親戚の子どもが繰り出す不細工な右ストレート。
怪人役の俺は避けることを許されない——幾度となく頬やみぞおちに喰らったその拳に、眼前の気色悪い怪物の拳は似ていた。
「ぎ、ぎぎッ!」
「ぐふ……がは」
とはいえ。
「お兄ちゃん!? どうしてやり返さないの!?」
「ぼえぇッ」
おいバカ、妹よ。
やり返さないんじゃねえ。
『——やり返せないんだ』
「ごぼッ」
「お兄ちゃん!?」
『ゴブリンにボコられてやるヤツ久々にみたわw』
ウララの悲鳴に混じって女の子のかわいらしい電子音が俺を罵った。
「ちょ、ちょっとどういうこと!? どうしてお兄ちゃんがやり返せないの!?」
『最初のゴブリンの一撃がみぞおちに刺さって、その痛みから動けないんだw』
「な、なんだってぇっ!?」
『いわゆるクリティカルヒットで草』
『ビギナーが甚振られる姿が見たくて来ました』
『妹こえかわいい』
「お兄ちゃん、急に視聴者ふえたよ! わーいっ! えとえと、兄をよろしくおねがいします!」
ウララさん。視聴者に媚びてないで兄を助けてください。
「ギギッ!」
「……あー、くそ! いい加減にしやがれッ」
鳩尾の痛みがやわらいだ隙に俺は拳を繰り出した。
「ぶげッ」
「ぶごッ」
「お兄ちゃん!?」
『相打ちwww』
ゴブリンの顔面に拳が突き刺さるのと同時に、背の低いゴブリンの拳が防御を解いた俺の鳩尾に突き刺さった。
互いに一歩仰け反り、苦痛に喘ぐ。
二度目の鳩尾は、かなりキツかった。息がうまくできない。
『ゴブリンに苦戦はヤバすぎ、オレでも勝てるわw』
『この底辺の鬩ぎ合いがたまらなく尊い』
『妹顔まだ?』
「ギギギィッ!」
俺よりも先に体勢を整えたゴブリンが飛びかかってきた。
俺は、
「お兄ちゃん、負けないで……っ!」
視界の端で、目尻に涙を溜めたウララを捉えた。




