盤上の闘士
片方はブロンドのボブショートに、ブラウンのワンピースを着ている。
もう一人は、長い黒々とした黒髪に、薄紫の和服を身にまとっている。
ブロンドの女性の名はアリシア・ストーン。世界各地のタイトルを獲得してきた女子格闘界屈指の実力者であり、「烈火の女王」の異名を持つ。
一方、和服姿の女性は桜井美和。彼女もまた女子格闘家である。試合数こそ少ないが、その名は一部の熱心な格闘技ファンの間では知られていた。
二人はかつて一度だけ、リングの上で向かい合ったことがある。だが、その試合は最後まで行われることはなかった。なんと試合開始直前、アリシアは自らリングを降りたのだ。海外から来た三冠王レスラーでもあるアリシアが試合を放棄したなんて、本当なら大変な事態になるところだったが、その後に美和が舞を披露したことなどで、特に大きな混乱はなかった。
それから約数か月後ほどたった。
今、この地を拠点にして活動している。そして、今日もこうして、美和と将棋盤に向かっている。
「アリシアさん、最初から将棋会館に来てくださればよかったのに。そうすれば、わざわざあんなに慌てて出て行かなくてもよかったのですよ。私、こちらのほうが出入りは多いですし、元々リングに上がること自体、そう多くないのですから」
美和が歩を動かしながら言う。
「そんなこと言っても、無理よ。第一、うちのマネージャーがいくら有能だと言っても、女子レスラーの担当なのよ。それが将棋協会や茶道団体に問い合わせるなんて、ありえないでしょ」
駒を手にしながらアリシアも返答する。その答えに美和は、楽しそうに言う。
「アリシアさん。またリングの上の続きをしたくなったら、いつでもおっしゃってくださいね。私はいつでも大歓迎ですよ」
「わたしは嫌よ。たとえ世界が明日、滅ぶとしても、絶・対・に、あなたとだけはやらない」
アリシアがきっぱりと言う。その考えは、あの日リングから飛び出した時から少しも変わっていなかった。
アリシアが試合放棄をした時、ほとんどの観客が呆れかえる中で、美和だけは、彼女の真意を理解していた。
美和自身は、試合の行きつく先がどのようなものになっても受け入れるという考えを持っている。でも、その流儀を相手に押し付けるつもりはない。ただ、美和自身も予想しなかった方法で、対戦の空気を打ち破って抜け出したアリシアには、純粋に敬意と興味を抱いていた。
その日の大会が終わって三日後、美和は会場責任者に頼んで、アリシアが滞在していたホテルに向かった。王者らしからぬふるまいをしたものの特に咎められることもなくホッとしていたアリシアは、その原因の大元である美和が現れたときは、今度は高層ビルの窓から飛び出しそうになるほど驚いた。
「アリシアさん、なにも試合を抜け出たことを問い詰めに来たんじゃないんですよ。むしろあれは、アリシアさんの勝ちですわ。私、リングの上で闘うことばかりにこだわっていました。でも、アリシアさんは、その外に答えを見つけてしまったのですね」
美和が言うことはよく分からないが、どうやら、美和が自分と格闘で決着をつけるつもりがないことは確かのようだ。
「それで、もし、よければ、こんなものを持ってきたんです。これなら、アリシアさんも、心置きなく付き合ってくださるかなと、思いまして」
美和はそう言うと、片手に抱えていた大きな風呂敷包みを広げた。
中から現れたのは、木でできた四角い盤だった。表面には縦横の線が細かく引かれている。
「将棋、って言うんですよ」
美和は何でもないことのように言った。
「アリシアさんはチェスをされたことはあります? ルールはチェスと少し似ているそうですから」
「え? 将棋?」
アリシアは目をぱちくりさせた。この格闘家は次から次へと妙なものを持ち出してくる。これも日本の「おもてなし」の一つだろうか。美和は何やら文字の書かれた平たい木片を盤の上に並べだした。
——その日からだった。こうして、美和と二人で盤を挟むようになったのは。
「本当にいいわね、将棋って。リングみたいに怪我をしないで対戦できるから」
満足そうにアリシアは言う。
純粋な、頭脳だけによる駆け引き。今の自分が求めていたのは、こういう勝負だったのだと、アリシアは思う。その意味で美和は、ちょうどいい相手だった。
盤上でこれはいけそうだと思って駒を動かしていると、いつの間にか囲まれていることがある。気づいて回避する。だが、しばらく続けていると、またいつの間にか美和に取り込まれている。
そうやって二人は、盤上で取ったり取られたりを繰り返していた。
「それにしても、美和、あなたって不思議なのよね。私が見た時の由香ちゃんへの態度なんて、優しいお姉さんそのものだったし」
アリシアは盤上を眺めながら言った。
由香は美和が試合前にお茶をたてるときに道具を運んできてくれた付き添いの女の子だ。
「リングに上がっても、それはあまり変わらない。怒鳴るわけでもないし、相手を睨みつけたりもしない」
アリシアはそこで言葉を切った。
「なのに試合が始まると、誰よりも容赦がない。たいていの選手は、入場した時から闘う気満々で出てくるのに、あなたの場合はまったくそういうのを出さない。怖いくらいに」
アリシアは盤上から目を離さないまま続けた。
「ほら、先月の試合だって、そうじゃない。千晴さんの場合も…」
千晴は女子高生格闘家として人気を博していた選手だった。その若さと可愛らしい顔立ちから、ファンの間でも「おてんば天使」とか「格闘家のアイドル」などと言われていたほどだ。
だが、美和との試合では事情が違った。序盤こそなんとか千晴は応戦できたものの、やがて美和の猛攻に押し込まれ、最後には失神。会場を埋めたファンたちも、あまりの試合内容にしばらく声を失っていた。
アリシアはつぶやいた。
「あの子はアイドルレスラーなんだから、そこまでしなくても……」
「そんなことはないですよ。千晴さんは、若いのに素質のあるいい選手ですよ。特にキックの切れはなかなかいいんです。そんな方に、手を抜いたら失礼ですもの」
美和は当然のことのように答える。アリシアは小さくため息をついた。
「そういうところが怖いのよね」
「そういうところ?」
「あなた、本当に同じ顔のままなのよ」
アリシアは盤上を見つめながら続けた。
「由香ちゃんと話している時も、お茶をたてている時も、今こうして将棋を指している時も、試合が始まる前だって、何も変わらない。なのに、気がつくと、相手を全力で叩き潰すことに向かっている。だから分からないのよ。いつ闘う気持ちになるの?」
「いつ、って言われましても……」
美和は少し可愛らしく、コトンと首をかしげた。
アリシアは思わず苦笑した。やはり、この人はこういう人なのだ。だから将棋盤がいい。この上なら、どれだけ夢中になろうと、誰かが担架で運ばれることはないのだから。
「今度はそっちの番ですよ」
そう美和に言われて我に返った。考えてばかりいて、指していない。
「あっ、そうね」
慌てて手を伸ばし、歩を前に一つ、進める。
「ねえ、美和、あなたでもリングの上で負けることってあるの?」
アリシアが言った。格闘家としての美和は体力、技術、判断力、精神力、その全てが圧倒的に優れているし、バランスも取れている。しかも力をふるうことにためらいはない。勝つためではなく、「全力を尽くすこと」。それが目的だからだ。相手が二度と立ち上がれないような闘いになることも多かった。美和が実力の割に試合数は少ないのも、その特殊な闘い方が大きな原因の一つであった。
「もちろん、ありますよ」
美和は将棋盤を見つめたまま答えた。白い指先が駒を動かす。
「アリシアさんとの時だってそうじゃないですか。見事に先を越されましたから」
「あれは……私が勝手に飛び出しただけよ」
アリシアは慌てて訂正する。正直、あの話をされると、今でもくすぐったくなる。逃げたことではない。その時に口走ったことだ。幸い、「烈火の女王」にしてはあまりにも突飛すぎたのか、その内容について誰も詳しく聞いてはこなかったが。
「そういうのじゃなくて…、ほら、リングの上で闘ってファールをとられたとか、動けなくなったってことよ」
「それは私だってありますよ。試合なんですから」
あの圧倒的な強さを持つ美和が負けることもある。だが、アリシアを驚かせたのはそこではなかった。美和はそれを、昼食の献立でも話すような気軽さで口にしたのである。そこには少しのためらいも見当たらない。負けたことを隠そうとする様子も、言い訳をする様子もないのだ。
「負けたときって、悔しくなかった? リングで倒れていると、いたたまれない気持ちになったりしない?」
「そうですか? そんなこと、思ったことないですわ。負けることはそう多くはないんですけど、リングに倒された時って、不思議と気持ちがいいんですよね」
「…き、気持ちがいい?」
「……き、気持ちがいい?」
アリシアは思わず聞き返した。美和は不思議そうに首をかしげている。どうやら冗談ではないらしい。普通は逆ではないか。負ければ悔しい。負ければ落ち込む。アリシア自身、敗れた後は人前もはばからず泣き出してしまい、控室へ戻っても涙が止まらなかったことがある。立ち直るまで何日もかかった試合だって、一度や二度ではない。それが「気持ちがいい」だなんて——。
「だって、そうじゃないですか。敗れてリングに倒れた時って、自分の持っているものを全部出し切った後じゃないですか。もう何も残っていないんです。頭の中まで空っぽになって——。あのすっきりした感じ、最高ですよ」
美和はうっとりとした表情を浮かべた。まるで極上のデザートでも食べた後のような表情だ。
「それに素敵じゃないですか。自分がどう頑張っても届かない相手がいるなんて。ああ、まだこんな人がいるんだって思えるんですよ。世界って、本当に広くて美しいですね」
アリシアは完全に言葉を失ってしまった。信じられない。これがリングの上で幾人もの相手を倒してきた桜井美和の思考なのか。
負けて爽快だなどという人間を、アリシアは見たことがなかった。
やはり、あの時、自分は逃げて正解だった。アリシアは改めてそう確信した。
自分の持っているすべてを注ぎ込んで倒した相手から、「気持ちよかったです」などと言われては、勝った方が立つ瀬がない。
「アリシアさん、王手、ですよ」
「あっ!」
また気付かないうちに、美和の思う形へ誘導されていた。でも、まだ大丈夫。手はある。すぐに形勢を立て直せるはずだ。アリシアはおもむろに飛車を動かした。




