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ねるの恋

掲載日:2026/03/08


春の朝は、まだ少しだけ冷たい。校門の前の桜は咲きはじめたばかりで、風が吹くたびに花びらがゆっくりと揺れていた。

ねるは両手でカバンの紐をぎゅっと握りながら、少し早歩きで学校へ向かっていた。

「今日から高校生かぁ……」

小さくつぶやくと、胸の奥がふわっと落ち着かなくなる。

新しい制服、新しい教室、新しいクラス。

そして、知らない人たち。

ねるは少しだけ人見知りだった。だから教室の扉の前に立つと、どうしても一瞬だけ足が止まってしまう。

「だ、大丈夫……」

自分にそう言い聞かせて、ゆっくり扉を開けた。

教室の中はもうにぎやかだった。

笑い声や椅子の音、あちこちで聞こえる自己紹介。

ねるは目立たないように静かに空いている席へ向かった。


窓側の後ろから二番目の席。

「ここなら落ち着きそう」

カバンを机の横にかけて、ほっと息をつく。

そのときだった。

「ごめん、そこ通っていい?」

後ろから声が聞こえた。

ねるはびっくりして振り向く。

そこに立っていたのは、同じ制服を着た男の子だった。

少し寝ぐせの残った黒い髪と、やわらかそうな雰囲気。

「あ、う、うん」

ねるは慌てて椅子を引いた。


「ありがとう」

男の子は軽く笑って、ねるの後ろの席に座った。

その笑顔は、春の光みたいにやさしかった。

ねるはなぜか、少しだけ心臓が速くなるのを感じた。

「俺、朝ちょっと迷ってさ。この学校広いよね」

後ろから気さくな声が聞こえる。

ねるは振り向くか迷って、でもやっぱり少しだけ顔を向けた。

「う、うん……私もさっき、校舎の前でちょっと迷った」

そう言うと、男の子はくすっと笑った。

「やっぱり?安心した」

ねるもつられて少し笑う。


「俺、晴人。藤堂晴人」

「あ……私は、ねる。白石ねる」

名前を言ったあと、なぜか少しだけ恥ずかしくなって視線を机に落とす。

「ねるか。かわいい名前だね」

その言葉を聞いた瞬間、ねるの顔は一気に熱くなった。

「そ、そんなことないよ」

慌てて否定する。

晴人は優しく笑っていた。

そのとき、教室の前のドアが開く。


「はい、みんな席について」

担任の先生が入ってきた。

ざわざわしていた教室が少しずつ静かになっていく。

ねるは前を向きながら、さっきの会話を思い出していた。

後ろの席には、晴人がいる。

それだけなのに、なぜか胸が少しだけあたたかい。

春の光が窓から差し込んで、机の上を明るくしていた。


このときのねるは、まだ知らなかった。

この出会いが、自分の毎日を少しずつ変えていくことを。


そして、恋というものがどれほどまっすぐで、どれほど見えなくなるものなのかを。

新しいクラスが始まってから、一週間が過ぎた。

ねるは少しずつ学校にも慣れてきていた。朝のホームルーム、授業の流れ、昼休みのにぎやかさ。最初はすべてが緊張だったけれど、今は少しだけ落ち着いている。


でも、一つだけ。

どうしても慣れないことがあった。

それは、後ろの席の晴人だった。

「ねる、消しゴム落としたよ」

後ろから声がする。

ねるは振り返ると、晴人が消しゴムを指でつまんで差し出していた。

「あ、ありがとう…」


受け取ると、なぜか指先が少し熱くなる。

晴人はいつも自然だった。

話しかけるのも、笑うのも、距離の近さも。

ねるにとっては、少しだけドキドキしてしまう距離だった。

昼休み。

教室の中はお弁当を広げる音でいっぱいだった。

ねるは窓際の席で、お弁当箱を開く。

小さなおにぎりと、卵焼き。

そのとき、後ろから机を軽く叩く音がした。

「ねる、ここで食べていい?」

振り向くと、晴人がパンを持って立っている。

「え…?」


「席戻るのめんどくさくてさ」

そう言って、ねるの机の横に椅子を引いた。

ねるの心臓が少し速くなる。

「う、うん…いいよ」

晴人は嬉しそうに座った。

「ねるのお弁当、手作り?」

「うん。朝ちょっとだけ早く起きて…」

「すごいなぁ」

晴人は感心したように言う。


「俺なんて毎日コンビニ」

袋から取り出したのは、甘いパンだった。

ねるは少しだけ笑う。

「甘いの好きなの?」

「うん。疲れたときは甘いのが一番」

そう言って、晴人は一口かじる。

その様子を見ていると、なぜかねるも少し楽しくなってくる。


しばらく静かな時間が流れた。

窓の外では、桜の花びらが風に乗ってゆっくり落ちている。

そのとき晴人が言った。

「ねるってさ」

「え?」

「なんか落ち着くよね」

突然の言葉に、ねるは目をぱちぱちさせる。

「そ、そうかな…?」

「うん。話してると安心する」

そう言って、晴人は笑った。

ねるの胸が、ふわっと温かくなる。

こんなふうに誰かに言われたのは、初めてだった。

「俺さ、この学校で最初に話したのねるなんだよ」

「そうなの?」


「うん。だからちょっと特別」

その言葉に、ねるの心臓がまた強く跳ねた。

特別。

その一言が、頭の中で何度も繰り返される。

ねるは気づいていなかった。

この気持ちが、少しずつ大きくなっていることに。

まだ名前もついていない、小さな恋が。


静かに、心の中で芽を出し始めていた。


春の午後はやわらかい光で満ちていた。

最後の授業が終わると、教室はすぐににぎやかになる。椅子を引く音や笑い声、部活の話をする声があちこちから聞こえていた。


ねるはノートをカバンにしまいながら、少しだけぼんやりしていた。

最近、学校に来るのが前より楽しみになっていた。

理由は自分でもわかっている。

後ろの席の晴人。

「ねる、帰る?」

突然、後ろから声がした。

振り向くと、晴人がカバンを肩にかけて立っている。

「え、うん…帰るよ」

「じゃあ一緒に帰ろう」

その言葉はあまりにも自然だった。

ねるは一瞬だけ驚いて、それから小さくうなずいた。

「うん」

二人で教室を出る。

廊下にはまだたくさんの生徒がいた。部活へ急ぐ人、友達と話しながら歩く人。


ねると晴人は並んで階段を降りた。

外に出ると、少しだけ暖かい風が吹いている。

校門を出て、駅まで続く道を歩き始めた。

最初は少しだけ沈黙だった。

ねるは何を話せばいいのか迷っていた。

でも、晴人は気にした様子もなく空を見上げた。

「今日あったかいね」

「うん。春って感じ」

ねるも空を見る。


青い空の下で、桜の花びらがひらひらと落ちていた。

そのとき、ふわっと一枚の花びらがねるの髪に乗った。

「ねる、ちょっと止まって」


晴人が言う。

ねるは足を止めた。

「動かないで」

そう言って、晴人はねるに少し近づいた。

ねるの心臓が急に速くなる。

距離が近い。

近すぎる。

晴人の手が、そっとねるの髪に触れた。

「ほら、桜」

指先で花びらを取る。

「ついてた」


晴人は笑った。

ねるの顔は一気に赤くなる。

「き、気づかなかった…」

「なんか似合うけどね」

その一言で、ねるはもう何も言えなくなった。

二人はまた歩き出す。

さっきよりも、少しだけ距離が近い気がした。

駅が見えてきたころ、晴人がふと聞いた。

「ねるって部活入らないの?」


「うーん…まだ考えてない」


「そっか」

少し考えるような顔をして、晴人は言った。

「じゃあさ」

「え?」

「たまに一緒に帰ろうよ」

ねるの足が一瞬止まりそうになる。

「俺、帰り道一人だとちょっと暇なんだよね」

そう言って、照れたように笑う。

ねるは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


「うん…いいよ」

その答えを聞いて、晴人は嬉しそうに笑った。

電車がホームに入ってくる音が遠くから聞こえる。

春の風がまた吹いた。

ねるの中で、気持ちは少しずつ大きくなっていた。

まだはっきり言葉にはできないけれど。

晴人といる時間が、特別になり始めていた。


それから、ねると晴人はよく一緒に帰るようになった。

毎日ではないけれど、放課後になると自然と声をかけ合う。

「今日帰る?」

「うん」

そんな短い会話だけで、二人は並んで校門を出る。

それが、ねるにとってはとても特別な時間だった。

ある日の昼休み。

ねるは教室でお弁当を開いていた。


そのとき、クラスの女の子たちの声が聞こえてくる。

「藤堂くんってさ、優しいよね」

「わかる。ちょっとかっこいいし」


その名前を聞いた瞬間、ねるの手が少し止まった。

「でもさ、ねるとよく話してるよね」

「後ろの席だもんね」

ねるは慌ててお弁当に目を落とした。


顔が少し熱くなる。

そのとき。

「ねる」

聞き慣れた声がした。

顔を上げると、晴人が立っていた。

「今日もここで食べていい?」


いつもの笑顔。

ねるは小さくうなずく。

「うん」

晴人は椅子を引いて座る。

「今日の弁当なに?」

「えっと…ハンバーグ」

「いいな」

晴人はパンの袋を開けながら言った。

ねるは少し迷ってから、小さなフォークでハンバーグを一つ取る。

「…食べる?」


そう言って差し出した。

晴人は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「いいの?」

「うん」

晴人はフォークを受け取って、一口食べる。

「うまい」


その言葉だけで、ねるは胸がいっぱいになった。

こんな小さなことで嬉しくなる自分に、少しだけ驚く。


その日の放課後。

いつもの帰り道を歩いているときだった。

前からクラスの女の子が歩いてきた。

「あ、藤堂くん」

明るい声で話しかける。

「今日部活見学来ない?」

「ごめん、今日は帰るんだ」

晴人は少し笑いながら答えた。

「そっかー」

女の子はねるの方をちらっと見てから、手を振って去っていった。


そのあと、少しだけ沈黙が流れる。

ねるはなぜか胸がざわざわしていた。

さっきの女の子。

晴人と話しているとき、楽しそうだった。

そのことを思い出すと、胸の奥が少し苦しくなる。

どうしてだろう。

ねるは自分の気持ちを考える。

晴人と話すと嬉しい。

一緒に帰ると楽しい。

他の人と話していると、少し気になる。

そこで、ねるはやっと気づいた。

胸の奥で、静かに答えが出る。


私は。


晴人のことが好きなんだ。

その瞬間、世界が少しだけ変わった気がした。

同じ帰り道なのに、少しだけまぶしい。

晴人は隣でいつも通り歩いている。

でもねるにとっては、もうただのクラスメートじゃない。


好きな人。


そう思うだけで、胸がどきどきする。

ねるはまだ知らなかった。

この恋が、どんな未来につながるのかを。

でも今はただ。

隣を歩くこの時間が、ずっと続けばいいと思っていた。

ねるが自分の気持ちに気づいてから、少しだけ時間が流れた。

学校の毎日は今までと同じだった。

授業を受けて、昼休みにお弁当を食べて、放課後には晴人と帰ることもある。

でも、ねるの中では全部が少しだけ違っていた。

晴人が笑うだけで嬉しい。

名前を呼ばれるだけで胸がどきどきする。

好きな人が隣にいる。


それだけで、世界はとてもやさしく感じられた。

ある日の帰り道。


空は夕焼けで、道がオレンジ色に染まっていた。

ねると晴人は、いつものように並んで歩いている。

しばらく静かな時間が続いたあと、晴人がふと空を見上げた。


「最近さ」

「うん?」

「高校生活、楽しいなって思う」

ねるは少し笑う。

「私も」

それは本当だった。

晴人に出会ってから、学校は特別な場所になった。

晴人は続けて言った。

「最初は友達できるか不安だったけどさ」

「うん」

「でも、ねるがいたから大丈夫だった」

その言葉に、ねるの心臓が強く跳ねる。

夕焼けの光が、二人の影を長く伸ばしていた。

ねるは少しだけ勇気を出して、口を開く。

「晴人」

「ん?」

「私ね」


言葉が少し震える。

それでも、止まらなかった。

「晴人と一緒にいる時間、すごく好き」

晴人は少し驚いたように目を丸くした。

ねるは続ける。

「帰り道も、学校も…全部楽しい」

胸がいっぱいになる。

でも、この気持ちはちゃんと伝えたかった。


「晴人に会えてよかった」

ねるは少しだけ笑った。

それは告白とは少し違う言葉だった。

でも、ねるにとっては精一杯の気持ちだった。

晴人はしばらく黙っていた。

それから、優しく笑った。


「俺も」

短い言葉だった。

でも、その声はとてもやわらかかった。

「ねると話すと、なんか落ち着くんだよね」

夕焼けの風が静かに吹く。

二人はまた歩き出した。

駅までの道は、もうすぐ終わる。


でもねるの心の中では、何かが始まっていた。


この恋がどうなるのか、まだわからない。


叶うのか、それとも違う未来になるのか。


それでも、ねるは思っていた。

好きになってよかった。

誰かを好きになると、世界が少しだけ明るく見える。

たとえ未来が見えなくても。


恋をしているとき、人は少しだけ盲目になる。


でも、それでもいいと、ねるは思った。


夕焼けの空の下で、二人の影は並んで続いていた。

ねるの恋は、まだ始まったばかりだった。

分からない…寝したい。

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