第1話 気分晴らし
夜の街は、まるで呼吸を忘れたように沈黙していた。
街灯の下を流れる雨が、アスファルトを鏡のように濡らし、遠くで赤く滲むブレーキランプが反射している。
その光は、まるで過去の残像のように揺れ、消えていく。
傘は差していなかった。
手の中に残るのは、わずかに湿ったタオルと、100円玉だけが入っている財布の重みだけ。
雨粒が髪を伝って頬を滑り、冷たさが皮膚の奥へと染みていく。
それでも、足は止まらなかった。
「今日もいっちょ、気分晴らしに…」
そう一言思いながらも、一歩一歩進んでいく。
風の中に混じる、機械のような音。
電子音とオゾンの匂いが、すぐそこまで近づいてくる。
扉を押し開けた瞬間…
鈍く光るネオンと、電子のざらついた熱気が、全身を包み込んだ。
「流石に濡れたなぁ…」
家を出たときはあまり雨が降っていなかったため、「走っていけば間に合うだろう」と考えていた。
が、案外早くに雨が降ってきたので、「どうせ濡れるからいいや」と歩くことにした天城怜司は、持ってきていたタオルで軽く体を拭き、ある筐体に腰を掛ける。
その名前は、「MIDNIGHT EDGE」。
腰を掛け、「ふぅ」と一息つき、慣れた手つきで筐体に100円を入れる。
その瞬間、少し静まり返っていた筐体からエンジン音が響く。
「チューンカードを持っていますか?」
怜司は筐体のスピーカーの上に乗せてある財布から「チューンカード」を取り出し、そのカードを筐体に読み込ませる。
◇ ◇ ◇
基本データ
名前 「 」
称号 SSSSSS級 / 妹が欲しい
車種 SKYLINE GT-R V-spec [BCNR33]
ボディーカラー ホワイト
馬力 740馬力 / B [バランス] P:17 / H:17
走行距離 328749km
◇ ◇ ◇
「車1台しか入れれないっていうのも結構問題だよなぁ…」
「チューンカード」というものは、ゲームセンターで1枚300円で購入することができ、ゲームのプレイ情報を保存することができる。
だが、そのカードは車を1台しか保存できないのだ。
怜司的にいろんな車でのレースがしたいから、何枚かカードを買い、そのカードを何枚かゲームセンターに持参して来なければならない。
それが怜司にとって少しだけ苦痛だった。
怜司は、そんなことを思いながらも、アクセルを踏み込んだ。
少しBGMが鳴りやみ、またすぐにBGMが鳴り響いた。
「ゲームモードを選んでください。」
左から、「ストーリーモード」、「全国分身対戦モード」、「タイムアタック」という項目が並んでいる。
「そういえば”店内王冠”は全部取ってあるんだよな?」
店内王冠とは、その店で、そのコースで、一番速いプレイヤーを決めるモードである。
“全部”、いわゆる「全冠」である。
それを怜司は取っているのだ。
「あー、やっぱりか」
ハンドルを操作し、店内王冠を確認する。
そこには、すべて「 」の文字があった。
「ですよね…」
「まぁいつも通り分身対戦にするかぁ…」
少し残念に思いながらも、ブレーキを踏み、前のページに戻る。
そして「分身対戦」の項目を選択し、対戦する人を決める。
その時──
「挑戦者参上!」
その瞬間、怜司はふと横を見た。
濡れた髪をタオルで押さえながら、笑って隣の筐体に座っていたのは、
このゲームで唯一、彼が“友達”と呼べる存在だった。
「こんにちはッス、” ”さん。こんな雨の中でやりに来てるなんて、本当にこのゲーム好きですネ」
笑いながらそう言う男。
それに少しだけ怜司は泣きそうになる。
「お前も来てんだろっ!、いい加減この”わがままボディ”をどうにかしろ!」
「あははっ!やめてください” ”さんッ!」
怜司は笑いながらその男の腹部を叩いた。
そんな怜司の姿を見て、その男も笑う。
コースをC1エリアにし、時間帯は早朝。そして馬力はB。
ロード画面はBGMが鳴りやみ、一気に緊張感が増す。
ロードが終了し、エンジン音が鳴り響き、怜司たちの車がドリフトしながら画面に映る。
◇ ◇ ◇
NN
SSSSSS級 / 東京
破壊神
LANCER Evolution III GSR
740馬力 / B
◇ ◇ ◇
画面に映ったのは、「NN」というネームと、LANCER Evolution III GSRの文字。
そして車には「乱入十五段」という、鬼の絵柄のしたオーラが纏っている。
怜司は、何も話さずに、ただスタートを待った。
3、2、1の順番で数字が変わっていき、そして気づいたときには「GO!」という文字が画面に映る。
その瞬間、一気に加速し、メーターが跳ね上がる。
3速、4速とギアを変えていき、速度も一緒に上がっていく。
時速260kmで、最初に黄コーナーに差し掛かり、インに、インに、車を寄せていく。
そしてアンダーに車を寄せ、コーナーを抜ける。
「新環状右回り」、「C1外回り」と画面に表示され、右側に車線を寄せ、「C1外回り」を選択。
選択した瞬間に赤コーナーが接近し、同時にアクセルを離し、ブレーキを踏む。
アウトインアウトの順番に車を進めて、イン側の壁にぶつかりそうになるも、間一髪で避け、アウト側に車を滑らせてコーナーを抜けていく。
そしてまた速度が上がり、3速、4速とギアを変えていく。
「C1外回り」、「八重洲線外回り」という選択する文字がまた表示され、すかさず車を左に寄せ、「C1外回り」を選択。
そうこうしているうちに時速は300kmに到達。
その瞬間に黄色で「!」の表示がされ、真ん中に一本の壁が出てくる。
それも華麗にかわし、アザーカーを避けながらまたインに車を寄せる。
そうして一本の壁と、そのあとに続いていたS字コーナーを華麗に流していく。
車はわずか数センチの距離を保ち、互いを削るように走る。
アクセルを踏み込むたび、心拍が同期していく。
液晶の中の光景なのに、まるで自分の体が揺れているような錯覚。
追い越す、抜かれる、再び追い越す。
どちらが先か、もはや境界すら曖昧になっていた。
「最後まで抜かれるな!」
気づいたら、もうゴール目前まで来ていた。
NNのアドバンテージは、わずか2m。
その文字と同時に、「フィニッシュまで」というゴールまでの残りの数mが画面に映し出される。
そして、目の前に黄色に輝いているゴール。
そのゴールに、怜司とNNは猛スピードで駆け抜けた。
「1st / 2」
怜司が座っている筐体の画面に、そう映し出される。
激戦の上、わずかアドバンテージが1mで怜司が勝ったのだ。
「やっぱ、” ”さんは強いッスねー…ワイには歯が立たないッス……」
「いやアドバンテージが1mなんだし、めちゃくちゃ戦えてたよNN。」
怜司はへこたれているNNを励ましながら、筐体の「コンテニューしますか?」という問いに「NO」と答える。
そして足元に置いていたペットボトルに入っている水を飲み、筐体から腰を上げて、その場を離れる。
さっきの大雨とは裏腹に、もうすっかり晴れていた。
だが来る時と同じで、空は真っ暗なまま。
しっかり仕事を果たそうと一生懸命光っている街頭。
雨で濡れて少し重たそうなタイヤの音。
一瞬で、それも数多く通る二つの光。
そんな中、怜司はゲームセンターの外にある駐車場の車止めブロックに座りながら休憩していた。
濡れた髪を再びタオルで拭く。
その隣に、缶コーヒーを2本持ったNNがやってくる。
「はい、ブラックでいいッスよね?」
「悪いな」
「いやー、でも1m差ッスよ? ワイ、けっこう本気でしたヨ?」
「ははっ、わかってるよ。お前の“わがままボディ”で、ようあそこまで走れるな」
「もぉ〜またそれ言うッスかぁ!」
そんな他愛もないやり取りが続いたあと、ふとNNが、缶コーヒーを傾けながら呟く。
「あ、そういえば知ってるッスか? VRで首都高走れるゲーム」
「……VR?」
「そうッス。“MXO”。ミッドナイトエクストリームオンライン。VRゴーグルで走る首都高。リアルすぎて、酔う人も出てるとか」
怜司は少しだけ眉を上げる。
興味があるような、ないような顔。
「へぇ……」
「ワイのフレ、そこで“リアル300km/h超え”出したらしくて。しかも首都高の“湾岸線”そっくりなんスよ。ちょっとヤバい世界らしいッス」
NNがそう言って笑う。
怜司は返事をせず、ただ冷めかけた缶コーヒーを見つめていた。
どこかで雷が鳴り、ガラスの向こうで雨がまた強くなる。
「……MXO、ね」
その言葉は、雨を弾くタイヤの音にかき消された。




