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私を覆う”膜”という境界線

作者: 茶ヤマ



 日々を覆うのは、言葉にならないほどに薄い、けれども確かに存在する膜であった。水面に浮かぶ油のように、それは私と他者との間に滑らかに広がり、容易に破れることも、触れることすら許さない。


 膜は時として意思を持つかのように私を拒み、また時として透明な壁となって私を隔てる…。



 人々の笑い声が響く。円卓を囲んで、彼らは互いの言葉に呼応し、頷き、笑い、また誰かが冗談を口にする。私はその場にいて、しかし確実にそこにはいない。いや、「いない」のではなく、「いられない」のだ。



 彼らの語彙も表情も、身振りもすべて理解できる。けれどそれはあたかも、分厚く壁のようになった膜越しに眺める劇のようで、登場人物たちはこちらを見ているようで見ておらず、私もまた彼らの輪郭を掴めない。触れようとすれば、その膜が滑らかに抵抗し、意図しない方向へと思考が逸れていく。



 私は笑う。


 口角を上げ、目元を少し細める。けれど、それは他者に向けたものではない。自らの内部にある冷たい湖面に映る表情の模倣にすぎない。その笑顔が「場」に適しているか否か、などはもはや関係がない。ただ、「笑っている」という事実だけが、自分を辛うじて人間という群れに縫い止める細い糸なのだ。



 この感覚を他者に伝えようと試みたこともあった。たとえば、「誰かといても、私は一人だと感じる」と言ってみたことがある。


 だが、それに返されたのは「そういう時期もあるよ」という曖昧な慰めであった。


 あるいは、「無理にでも外に出た方がいいよ」といった建設的なようでいて、私の言葉の芯には決して届かぬ忠告だった。



 違うのだ、と私は思った。


 これは「孤独」ではない。いや、孤独という言葉では語れない種類の違和なのだ。私と彼らは同じ空気を吸い、同じ地面を踏んでいるはずであるのに、見えている景色がまるで異なる。


 私には、皆と同じ歩幅で進んでいるはずなのに、どこか自分だけが地面にわずかに沈み込んでいるような感覚がある。



 例えば、学校からの帰り道。


 舗道を歩いていても、靴底から次第に地面に沈み、足が囚われ重くなっていく感覚がある。そのわずかな足取りの重さを加え、視線の高さにも、影響を及ぼし、更には空気の感触の差にもつながる。


 彼らは軽やかに進み、笑い合いながら道を渡るが、私はそのすぐそばで、少しだけ地中に引き込まれたまま、囚われた重みで足を引きずるような感覚で後を追う。


 彼らの声は遠く、自分の声は、まるで深い土の中でこだまするように、か細く、自分にだけ返ってくる。



 私はどこにいるのだろう。彼らの近くにいるつもりでいて、実際には別の次元に幽閉されているような気がする。この膜は、外界から私を守っているのか、それとも私を閉じ込めているのか。あるいはその両方か。私は、自らの境界を超える術を知らない。手を伸ばしても、その膜が震え、滑って、拒む。言葉は届かず、感情は空転する。



 時に、心を通わせたような錯覚に陥る瞬間もある。


 誰かがこちらをまっすぐに見て、ふとした拍子に、私の中に棲む影を垣間見たかのように表情を曇らせる。


 その一瞬に、私は胸を衝かれ、膜の向こう側に手をかけたような感覚を覚える。けれど、それはすぐに掻き消える。彼らは視線を逸らし、話題を変え、元の世界に戻っていく。そして私は、再び独り、その滑らかな壁の内側に取り残される。



 だが、それでも私はここにいる。決して消えてはいない。


 膜があることは確かであるが、完全な断絶ではないということもまた、私は知っているのだ。


 時折、その膜は温度を持つ。誰かの言葉が、あるいは書物の一節が、膜を震わせ、わずかな波紋となって私の内側に届く。それは柔らかく、そして痛みを伴う。けれど、確かにそれは「届いた」のだ。



 私は、人と完全に同じにはなれぬのだろう。否、それを望むことすら、もはや無意味なのかもしれない。


 私の内にある感覚――この「異なる」という感覚は、私を苦しめるものであると同時に、私という存在を形づくる輪郭でもある。膜の存在を否定せず、それでもなお誰かと向き合おうとする試みが、唯一、私を私たらしめる営みなのかもしれぬ。



 夕暮れの光が、街を優しく染める。


 人々の影が延び、交差する中に、私は静かに立っている。


 誰かと肩を並べるわけではなく、しかし完全に孤立しているわけでもない。膜越しに見る世界は相変わらずだが、ほんのわずかに、その縁が融けるような気がした。



 私は今日もまた、透明な壁の内側から、他者という風景を眺める。けれど、その視線の先には、かすかな光が宿っている。





 了


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