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怠い世界のちっぽけな幸せ

作者: 虹彩霊音



「………くぁぁ」


暗く、深い地下室にて。光源がなく薄暗い部屋の中でもぞもぞと動く影がひとつ。その影から姿を見せたのは、起きたばかりのファントムであった。


「……何これ、手紙?」



『姉さんしばらく寂滅達の手伝いでしばらく家に居ないよ。ちゃんとめんどくさがらずご飯は食べること! 寝っぱなしはダメだからね!』



「……あぁ、そういやそうだった」


ファントムはライトがしばらく外出するということを思い出しながら、身体を軽くストレッチしつつ部屋を出る。


「……何やってんだよ」


部屋の目の前で姉のエニグマが床に転がっていた。言葉を放っても返答はない。


「人の部屋の前で変なことすんな。自分の部屋に行けよ」


「………」


「……?」


直前にまで近づいて声をかけても返事はない。ファントムはエニグマの腕を掴む、すると凄い熱が彼女の手を襲った。


「あっっつ!? え!?」


「……ぉ……あ、なんだ、おきてたのか……ら、らいとがいないなら、かわりにおこそうとおもってな……」


「……おでこあっつ!! 姉さん熱出してるよ!? 確実に風邪じゃないの!!」


「ははは、まさか。ねえさんがかぜなんかひくわけねーだろ。いまめしつくるから……」


「病人がうろちょろするんじゃねぇ!! 部屋貸してやるから大人しくしてろ!!」



――――――――――――――――――



「……40℃か。……40!?」


「なんだ、ふつうだな。んじゃねえさんは……」


「今の状態でキッチン使われたらキッチンどころか家が爆発するわ!! 大人しくしろ!!」


「…………」




「ほら、姉さん。おかゆ作ってきたからこれ食べて……」


しかしベッドにエニグマの姿はなかった。


「だから大人しくしとけって言っただろうがよあのロリコンがよォ〜〜〜ッ!!!」


振り回されていることに苛立ちながら、ファントムは家中を捜す。しかし、どこにもエニグマの姿はない。


「あ!? 外行ったのか!? あんな状態じゃ遠くまで行けるはずが……」


と、外に出て捜索を開始する。家の周りをぐるりと周っても見当たらない。ファントムは高所に上って周辺を見渡す。高所は苦手だが仕方がない。


「………ん?」


気になるものを発見して目を凝らす。ファントムが見ているのは川、川に異物が見えるのだ。まぁ、その異物はエニグマなのだが。




「いやぁ、なんかあつくって」


「だからって川流れするなバカ」


ファントムはエニグマの襟を掴んで引きずりながら地下室へ連行。そのままベッドに放り投げる。


「いいじゃねぇかよぉ、ねえさんがどうなってもおまえに―――」


「いいから大人しくしてろ。その状態でうろちょろされると迷惑だ」


「…………」


エニグマの胸ぐらを掴み、眉を吊り上げ、とびっきりの低音でその言葉を放つ。見たこともないファントムの様子に、思わずエニグマは黙ってしまった。ようやく大人しくすることを選んだ姉を見て、一息ついて手を放す。そして、スプーンでおかゆを姉の口に運ぶ。


「……ん」


「いや、自分で……」


「いいから」


「……んぐ」


「どう」


「めっちゃ白米」


「今度は卵でも入れるよ」


「うん」


「……にしても、姉さんが風邪ひくなんてね。外側は強くても、内側から攻められたら弱いもんなんだね」


「……みたいだな」


「心当たりは?」


「……この前の雨の日に身体に黒いガムテープ巻いてマーメイドごっこしたからかな」


「完璧に原因それじゃねぇかよ」


「ガムテープ剥がす時地獄だったわー、身体中の皮膚剥がれるかと思った」


そうやってげらげらと笑っていたエニグマだが、その途端に酷い咳をする。


「変な笑い方するから。おかゆ食べ終わったらちゃんと寝なよ」


「……ああ」


「……………」


「……何してんだよ」


「本読んでる」


「なんでここで」


「ここが私の部屋だから」


「私の近くじゃなくても良いだろ」


「どこにいようが健常者わたしの勝手だろ」


「風邪感染るぞ」


「その時はその時」


「………」


「水でも持ってこようか」


「いや、いい」


「そう」


「…………食い終わったからしばらく寝る」


「わかった」


そうしてエニグマは目を閉じて、しばらくすると寝息を立てて眠りについた。その様子だけなら穏やかという言葉以外に思いつく言葉はない。ファントムはそのことを確認すると、からっぽの皿を洗いに一度キッチンに向かうのだった。



――――――――――――――――――



ある日、夢を見た。


誰かから――実体があるのかさえわからない何かから攻撃される夢だった。


まぁ、なんということはない。ただの悪夢でしかないのだから。目が覚めてしまえば、それで終わる話のはずだった。


しかし、日が経つにつれ、違和感が募る。胸の奥に沈殿するような不安が、じわじわと広がっていく。そして恐怖を感じるようになった頃には、夢の中の「何か」は輪郭を持ち始めていた。


最初は知らない誰かだった。

次に、自分を造った人間。

さらに、知り合い。

そして、最後には――自分の妹。


彼らは、ためらいもなく、まるでそれが当然であるかのように自分を延々と襲い続けた。


悪夢だというのに、痛みがあった。熱も、重さも、現実のそれと何ら変わらなかった。本当にこれは夢なのか? いや、もしかすると現実なのでは? 疑念が芽生えた途端、恐怖は確信に変わる。


そして、大量の汗をかきながら目を覚ます。心臓がうるさいほどに鳴り、喉はひどく渇いている。まるで、眠りの中でさえ戦い続けていたかのように。



「―――さん―――姉さん、エニグマ姉さん!!」


「ッ……」


「またひどく魘されてたよ」


「ぅっ……うぐ……!!」



夢から覚めると、ファントムがそばにいた。眉をひそめ、不安げにエニグマを覗き込んでいる。


「……大丈夫?」


声はやけに遠く、頭の奥に響くようだった。寝汗で肌が張りついていて心底気持ちが悪い。悪夢に囚われていた姉を、彼女は心配してくれていたのだろう。けれど、その優しさに応える余裕など、今のエニグマにはなかった。


意識がはっきりするにつれ、先ほどの夢の感触が蘇る。


容赦なく振り下ろされる攻撃。

鈍く響く痛み。

妹の瞳に宿っていた、冷たい憎悪。


それが「ただの夢」であるという確信が、持てなかった。脳裏にこびりついた現実感と悍ましさに耐えきれず、全身が震える。


――無理だ。


次の瞬間、喉の奥から突き上げるものに抗えず、床に転げるようにして嘔吐した。胃の中のものをすべて吐き出しても、それでもなお込み上げてくる嫌悪感は消えない。指の先まで冷え切り、世界がゆっくりと揺れる。


「ゔ、ご、えっ、ぁ゛ッ、!!」


澱んだ視界の先に見える自分の手が、ひどく歪な形をとっている。普段なら意識すらしない「自分」という存在が、今はあまりに脆く、不確かなものに思えた。


自分が維持できない。まとまらない。


心の奥底から湧き上がる、経験したことのない感情が、休む間もなく全身を侵していく。


恐怖? 罪悪感?

そうでなければこれは一体なんだというのか?


考える間もなく、胸の奥が再びかき乱され、喉の奥が熱を持つ。呼吸が乱れ、視界が揺れる。


身体のどこかが震えていた。けれど、それが手なのか、足なのか、あるいは自分という存在そのものなのかさえも分からない。


「姉さん、落ち着いて! 大丈夫だから!!」


遠くから声がした、その声に意識を向けると不思議と荒んだ心が冷静さを取り戻した。人の形からかけ離れた手を包む感触が温かい。冷たい牢獄から救われたような感じがして、無意識に涙が一粒床にこぼれ落ちた。すっ、と自分の頬に小さな温もりを感じて、その温もりに身を委ねる。


「………落ち着いた?」


「………さっきよりは」


「ふぅ、良かった。姉さんただでさえ強いのに暴れられたら困っちゃうよ」


「……すまない、汚してしまったな」


「……とりあえず、着替え持ってくるよ」




エニグマはファントムが持ってきた服に着替え、再びベッドで横になる。ファントムがせっせと床を掃除している様子を横目で見ていた。


「これでよし」


「…………」


「……本気で、大丈夫?」


「……わからない」


エニグマの身体がまた震え始める。どうしてこんな気持ちを抱かなくてはならないのか。


「わかんねぇ、わかんねぇよぉ……」


風邪如きでこんなにも弱る自分が


朝からずっと妹に迷惑をかけ続けている自分が


心底腹立たしい。


「自分勝手に造って、都合良いように改造したあげく、都合が悪くなったら捨てやがって……ざっけんじゃねぇ……」


「…………」


「昔っからいつもこうだ。どうしていつもこんな目に遭うんだ……私が、凶暴だからか……?」


「……姉さんは凶暴じゃないよ」


「…………」


「少なくとも私の知ってる姉さんはね」


「……今、なんつった?」


「………え?」


次の瞬間、エニグマが身体を勢いよく起こし、ファントムに飛びかかった。


弱っていたはずの身体を起こし、妹の首に手をかける。片手でギリギリと音が鳴るほど首を締め付ける。


「お前は今、私が凶暴ではないと言ったのか? 私が恐ろしくないと言ったのか!?」


「……ぅ」


「私を見てきた者は、全て私を恐れ慄いてきたぞッ!! 私は凶暴かァ!? 正直に言えェ!!!」


そこで、ファントムの小さな指がエニグマの腕にひっかかる。


「………ぃたい、いきできない……くるしぃ…」


「………」


そこで理性を取り戻した。手を離せば、青紫色の鮮やかな痣が浮かぶ。わずかながら血も流れている。


自分の異形な手に付着した妹の血。ここまで人並みの人生を生きようと努力してきたが、この身に宿る生物離れした力を見て、やはり自分は普通ではないのだと思い知った。



――――――――――――――――――



昔、人間に造られた少女が居た。


生まれつき、家族も友達も居なかった。


誰かの腕に抱かれることもなく、誰かの名前を呼ぶこともなく。


彼女はただ、与えられた空間の中で、与えられた役割を果たすために存在していた。


生まれた場所での不自由はなかった。食事も、寝床も、必要なものはすべて揃っていた。


けれど、自由もなかった。

どこへ行くか、何をするか、何を考えるか……それを決める権利は、最初から彼女のものではなかった。


そして、彼女はそれを「当たり前」だと思っていた。


すべての情報から隔離され、生まれてからずっと、その場所だけが彼女の世界だった。


与えられるものだけを受け取り、教えられるものだけを知る。それが当然であり、疑う理由などなかった。


けれど、あるとき、ふとした偶然で彼女は施設の外を見た。


初めて知る色、形、広がり。

空気の流れ。光の揺らぎ。


生まれ落ちた場所から見た景色を「世界」だと教えられていた彼女にとって、それは何と呼べばいいのか分からなかった。今まで信じていたものと、目の前の景色……その矛盾に、言葉が追いつかない。


ただ、ひとつだけはっきりと理解した。


自分が世界だと認識していた場所は、本当の世界ではなかった。それはただ、自分を閉じ込めるための「匣」にすぎなかったのだと。


自分の知らない世界を知りたい――ただ、それだけを考えていた。


外には何があるのか。この場所の外側には、どんな景色が広がっているのか。その思いにふけっていたある時、気づけば施設は悉く崩壊していた。


瓦礫が散乱し、壁は崩れ、煙がゆっくりと夜空へと溶けていく。鉄と焦げた匂いが鼻を刺し、乾いた風が肌を撫でる。


外の世界に希望を抱きすぎていたせいで、無意識に破壊してしまったのだろう。


自分を造った人間たちは、どこにもいなかった。巻き添えを食らったのか、あるいは逃げ出したのか。けれど、彼女にとってはどうでもいいことだった。彼らがいようといまいと、この場所に価値はなかったのだから。


しかし――問題はそこからだった。


彼女にとって、生きることすら誰かの受け売りだった。与えられたものを食べ、与えられた役割をこなす。それしか知らないまま、今、すべてがなくなった。


何を食べればいいのかも分からず、とにかく目についたものを口にした。味も、危険も、考える余裕はなかった。


気づけば獣すらも彼女を避けるようになっていた。人間はおろか、森の生き物さえ近づかない。


――生まれつき備わっていた、悍ましい能力のせいだった。


何もない。

誰もいない。


けれど、彼女はその場を離れられなかった。


世界が広がっていると分かっているのに、足を踏み出すことに、僅かばかりの抵抗があった。外に出ることが「正しい」とは教わっていなかったから。だから、崩壊した施設の跡地に留まり続けた。


やがて彼女の周りからは、本当に誰もいなくなった。



自由になった。けれど、どう生きればいいのか分からない。


ならば――外の世界から学ぼう。


彼女はそう決心し、ついに未知の世界へと足を踏み出した。


風が違う。音が違う。


世界が、自分の知っているものとはまるで違う形をしている。


彼女は物陰に身を潜めながら、人間たちの生活を観察した。彼らは話し、笑い、働き、食べ、眠る。それぞれが異なる役割を持ち、互いに関わり合いながら生きていた。


自分にはなかったもの。自分には知らなかったもの。それを知るために、彼らを真似しよう。彼らの暮らしを模倣すれば、自分も生きる術を得られるかもしれない。


そう考えた彼女は、じっと世界を見つめ続けた。



しばらく観察し、十分に理解したところで、彼女は行動に移した。


まず、人間たちは「家」を持っていた。住む場所があるのは、生きる上で必要なことなのだろう。


ならば、自分も。


崩壊した施設の残骸を集め、慎重に組み上げる。

基礎の作り方など知らないが、壁を立て、屋根を作れば、それはもう「家」と呼べるはずだった。


次のステップ――


人間たちには、必ずといっていいほど「相手」がいた。

家族、友達、仲間。

彼らは独りではなく、誰かと共に生きていた。


では、自分は?


……誰もいない。


さて、どうしようか。


考えていると、ふと視界の端に機械が映った。見覚えのある機械。自分を造った、あの装置。


まだ稼働している。


そうか。

いないのなら――造ってしまえばいい。


当たり前の答えだった。


彼女は手早くサンプルを回収し、すぐさま行動に移した。


「相手」が必要なら、作ればいい。自分と同じように、生まれ、学び、そして生きるものを。


その時の彼女は、ただ純粋に「正しいこと」をしているつもりだった。



徐々に、自分と同じ「人」の形になっていく。


初めはただの無機質な塊だったものが、骨格を形作り、皮膚をまとい、静かに成長していく。その様子は、まるで妊娠した母親の胎内を透かして見ているようだった。


慎重に、慎重に。


調整をひとつさえも誤れば、全てが水の泡になるかもしれない。


相手が「生きる」ために、決して失敗は許されない。


サンプルを投入してからしばらく、徐々に形が整っていく。やがて、自分と同じくらいの大きさまで成長した頃だった。


ぴくり、と指がかすかに動く。


ほんのわずかな変化。けれど、それが確かに”生命”の兆しであることを、彼女は本能的に理解していた。


そして――。


ずっと閉じられていた瞳が、ゆっくりと開かれる。


その瞬間、彼女達は初めて世界を認識した。


視界に映るもの、すべてが生まれたばかりの「妹」の世界となる。


少女は、静かに息を吐いた。


ここまで育てるのは、大変だった。試行錯誤の連続で、わからないことばかりだった。


けれど――この瞬間のためなら、その苦労も決して無駄ではなかった。


言うべき言葉は、もう決まっていた。


そして、少女は口を開いた―――




「…………おはよう」


「…………」


「また悪夢見た?」


「いや……」


目が覚めた。


微かに息を吐き、天井を見つめる。見慣れた、自分の部屋の天井。その瞬間、先ほどまでの出来事が夢だったのだと理解した。


――ずいぶんと懐かしいものを見たものだ。


記憶なのか、ただの夢なのかは分からない。けれど、鮮明で、確かに「そこにいた」感覚が残っている。


……まあ、悪夢を見るよりは断然マシだろう。


「熱は……前よりは下がったね」


「ああ……」


ファントムはエニグマの額に乗せられていた、ぬるくなったタオルを交換する。


悪夢を見ることはなくなった。


だが、その代わりに自分がかつて経験した思い出を、夢の中で追体験するようになった。


それはまるで、忘れることを許されないかのように。


独りきりの時もあれば、妹と共にいる時もあった。

崩れた施設の跡、ひとり彷徨った日々。

初めて妹を造った時のこと。

無邪気な笑顔、手を伸ばせば届く距離。


どの記憶も鮮明で、どこか温かく、そしてどこか痛かった。


目覚めた後もしばらく、夢の余韻が現実に溶け込む。それが心地よいのか、それとも苦しいのか、エニグマにはわからなかった。


目を閉じてまた眠ろうとした時だった。ファントムがじっと、ただまじまじとこちらを見つめてきたかと思えば、こんな言葉を口にした。


「どんな夢だった?」


「……懐かしいものを思い出していた」


それだけ言い残し、再び眠りにつこうと目を閉じた。しかし、ファントムがそれを妨げた。


「ねえ」


小さく、それでいて確かな声が響く。


「まだ、姉さんが独りだった頃……どうやって過ごしてきたの?」


目を開けると、ファントムは変わらずエニグマを見ていた。


好奇心か、それとも別の感情か。


特に面白い話もない。

特に楽しいこともなかった。


だから、ただ事実だけを口にした。


「……つまらない人生だったよ」


「じゃあ、今は?」


ファントムは間髪入れずに問いかけてきた。その声はどこか真剣で、どこか期待するような響きを持っていた。


少し考えて、答えを出すのに時間はかからなかった。


「……つまらなくはない」


それだけを返す。


それだけで十分だった。


ファントムはしばらくこちらを見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。


なんていうか、らしくないな。自分もこの子も。




眠りにつこうとした――はずだった。


だが、ひとつの疑問が頭をもたげる。考えないようにしていたはずなのに、ふと、どうしようもなく気になってしまった。


だから、エニグマはファントムに聞いた。


「……お前は、自分が生まれてきた理由がわかるか?」


ファントムは少し驚いたように瞬きをした後、黙り込んだ。何かを考えるように、ゆっくりと視線を巡らせる。


「自分はいまだにわからない」


言葉を継ぐ。


「なぜ、自分は生まれてきたのかが」


ファントムはしばらく考え込んだ。そして、口を開く。


「姉さんが必要だと思ったから造ったんでしょ?」


何でもないような口調で、当たり前のように。


「なら、それが理由じゃないの?」


まっすぐな瞳。揺るぎのない声。


それは、あまりにも単純で、あまりにも明確で――だからこそ、否定する言葉が見つからなかった。


意識を捨てようとしていたのに、ファントムと会話したことによって逆に意識が覚醒していく。眠れない、身体が眠ることを拒んでいる。


「エニグマ姉さんさ、ライト姉さんと一緒に人里行ったことあるんでしょ? どんな感じだった?」


今度は逆にファントムが質問してきた。


少し考えて、特別な言葉を探すこともなく、率直に答えた。


「……なんていうか、あいつらも『生きている』んだな、と思った」


それを聞いたファントムが軽く首を傾げる。


「生きている?」


「ああ」


観察していたときから、ずっとそうだった。彼らは話し、笑い、働き、食べ、眠る。それぞれが異なる役割を持ち、互いに関わり合いながら生きていた。ただそこにいるだけではなく、互いに影響し合い、繋がりを持って、生きていた。


その時は、ただ「そういうものなのか」と眺めるだけだった。理解しようともしなかったし、自分とは違う存在だとも思っていた。


でも、今なら分かる。


あれこそが『生きる』ということなのだと。


ファントムはしばらくじっと考え込むような顔をしていたが、やがて小さく笑った。


「じゃあ、姉さんも生きてるね」


まるで、当たり前のことを言うように。ふっと息が漏れた。今となっては否定する理由もなかった。



「幻とは、仲良くやれているのか」


「仲良いと思うよ。どうして?」


「姉として、ただ知りたいだけさ。普段何してるんだ?」


少し間を置いて、言葉を継ぐ。


「昔みたいに閉じこもってるわけじゃないが、世間知らずには変わりないからな」


自分とは違う、妹が見えている世界を知りたい。どんな景色を見て、どんな時間を過ごしているのか。それが、ただ気になった。


「そうだなぁ……色んな場所に連れて行ってくれるよ」


ファントムは少し考え込んでから、楽しそうに話し始めた。


「お花畑とか、おっきい湖とか。森は……危ないからダメって言われたけど。でもね、この前は一緒に桜を見たんだよ」


「桜?」


聞き慣れた単語だったが、実物を見た記憶はない。


「桜って、あのピンクの?」


「そう!」


ファントムはぱっと笑みを浮かべた。


「一本だけじゃないんだよ。そこら中の木が全部、全部真っピンクになるんだ!」


身振り手振りを交えて語る様子から、本当に感動したのだというのが伝わってくる。


「知らなかったよ、あんなに綺麗な花がこの世に存在するんだって」


「……全部ピンクになるだと?」


それはさすがに信じがたい光景だった。


「流石に盛りすぎだろう」


「本当だって!」


ファントムはむくれたように唇を尖らせる。


そのやり取りが、妙に心地よく感じた。


こんなにも楽しそうに話す妹を見るのは、初めてかもしれない。言葉の端々に嬉しさが滲み、思い出を語る声には生き生きとした響きがあった。自分の知らないところで、妹はこうして世界を知り、成長しているのだろうか。


――それは、喜ぶべきなのか。

それとも、寂しく思うべきなのか。


どちらが正しいのか、自分には分からなかった。


けれど――。


「もしそれが本当なら、見てみたいもんだな」


思わず、そう呟いていた。


ファントムが、一瞬驚いたように瞬きをする。そして、少し控えめに、それでもどこか期待するような声で言った。


「……じゃあ、今度春になったら、一緒に見に行く?」


その問いに、少しだけ考えてから、短く答える。


「……そうだな」


エニグマは目を閉じて、小さく呻き声をあげる。


「……姉さん?」


「……ファントム、もし私に何かあっても、お前は……」


「……私が、何?」


「……なんでもない、忘れてくれ」


そうしてエニグマは眠りにつく。それを追いかけるようにファントムも寝ついた。血は直接は繋がってはいないが、その様子はまるで本当の姉妹のようだった。



――――――――――――――――――



朝、目を覚ますと、妙にスッキリしていた。


いつもなら、夢の余韻が頭の奥にこびりついているはずなのに――今日は、それがない。まるで、何かがふっと消え去ったような感覚。


天井をぼんやりと見つめながら、ゆっくりと呼吸をする。静かだ。窓の外では小鳥が鳴いているが、その声すらもどこか遠くに感じるほど、頭の中は澄みきっていた。


身体を起こし、軽くストレッチをする。関節を鳴らしながら腕を伸ばすと、昨日までとは違い、驚くほど身体が軽いことに気づいた。まるで余分なものが削ぎ落とされたような、そんな感覚だった。


部屋の入り口に視線を移すと、ファントムがいた。小柄な体を扉の影から半分覗かせ、こちらの様子を窺っていたが、自分が起きたのを確認すると、とてとてと足音を立てて近づいてくる。そして、小さな手に握られたものをこちらに差し出した。


「……これは?」


一見、ただの枯れた枝にしか見えなかった。


「桜」


「桜?」


よく見ると、枝の先端に淡い桃色の花が咲いている。ひとひら、ふわりと揺れて、朝の光を透かしていた。


「幻がね、くれたの。いつもよりちょっと早いんだって」


「へぇ……」


指先でそっと花びらをなぞると、柔らかく、まだ冷たい春の空気がふわりと香る気がした。すると、ファントムは期待したような笑みを浮かべて


「忘れただなんて言わせないよ。春になったら、一緒に桜見に行くんでしょ?」


「……ああ、そうだったな」




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