・第6話・「悲劇の果ての」
ダダダダダダダダ、ガッ!
「あわッ……!!」
ぼんやりとした明かり以外、光源がない暗がりの中。
大きめの石に気付かず、足を取られたエルシャは勢いよく転んだ。
『大丈夫ですか! ……思った通りアレは追いかけてはいませんし、少し休憩しましょう』
「ご、ごめんなさい……ありがとう」
洞窟内の少し窪んだところに入り、エルシャと少年は壁に凭れて座り込んだ。
『…………』
「…………」
沈黙が続く。
そう、お互い何がなんだかわからないまま一緒に行動していたが、二人は名前も知らない初対面の関係である。ゆとりができて冷静になったところで、どうしたものかと微妙な空気が場を支配した。
しかも少年は人間ではない。
外見は人間に近いが、話している時に口元が動いていないところや表情が動かないところなど、生物なのかも怪しい。
魔獣の下に置いていこうとしなかったなど、自身のついでであったとしてもエルシャのことも守るように行動してくれているため、警戒心を抱くほどではないとは感じてはいた。だが、だからといって全面的に頼ったり信頼したりしていいのか、と少年の横顔を盗み見ながらエルシャは頭を悩ませる。
そんなエルシャの胸中を知ってか知らずか。少年は、ちぎれていた腕のほうの手をぎこちない動きで開閉していた。そのぎこちなさと腕を見つめる少年の様子から、繋がり方が不十分だったのかと思案する。反対の手はエルシャと遜色ないほどに人間らしい滑らかな動きに見えたが、そちらはカクカクと鈍さが目立つのだ。明らかに状態が異なる。
しばらく見ていると少年がエルシャの視線に気付いたようで、ゆっくり手をおろして顔を向けた。
やはり表情は固定されているようで動くことはないが、それでも纏う空気が意図的に和らげられたのを感じる。
『……そうだ。自己紹介がまだでしたね。ボクは────リオ、と申します。お嬢さんは?』
「あ、……私は、エルシャ」
『エルシャさん。素敵な名前ですね』
「あ、ありがとう……リオくんも、良いと思うよ」
状況が状況だけに気持ちは落ち着かないが、場を和ませようとしたらしい少年───リオの言葉に、エルシャは感謝して返す。
二人顔を見合わせて少し空気が緩んだ────その時である。
リオの手元のものではない。ぼんやりとした光の存在に気付き、そちらへ視線を向けた。
「───……あッ!」
『……ん?』
そこには、エルシャが森の奥地まで追いかけてきていた例の少女が、二人を見つめるようにして立っていた。
『………………』
少女は二人へ視線を向けている。
しかし何も言わない。
膠着状態が数秒続いた後、ゆっくりと少女は二人へ背を向けた。
そのままどこかへ進み、また消えるかと思われたが。
『…………』
「……ついてきてって、こと?」
少し進んでから、少女はまた二人へ視線を向けた。
その様子に、エルシャはリオのほうを向いて顔を見合わせる。
「…………」
『…………』
「…………追いかけて、いい? 出口も探さなきゃ」
『ふむ……? 構いませんよ』
警戒しながらも、二人はゆっくりと少女に先導されて更に奥へと進んでいった。
*****
「……何、ここ」
そこは、人為的に整えられた『部屋』と呼ぶべき場所だった。
それだけならば、さして驚くものではなかっただろう。
乱雑に散らばる大量の本と紙束。
赤黒く変色した壁や床のシミ。
たくさんの容器と、その中にある気味の悪い色の液体や石のような歪な塊。
そして────無機質なベッドのような台の上で異臭を放つ、黒っぽい人に近い形をした何かが、その場になかったならば。
「……ぅ」
目を逸らし、吐き気を耐える。
とても直視し続けられるものではない。
『……大丈夫ですか? 少し、離れたほうがいいです』
エルシャの背をさすり、気遣うような言葉をかけるリオに頷いて感謝を伝える。しかし下がることはせず、エルシャは顔をあげて目の前まで移動してきた少女へ視線を向けた。
「……あなたは、誰? ここは、何なの?」
『…………』
少女は答えない。
しかしまっすぐに、エルシャの目を見つめる。
その目が何かを切実に訴えかけているように思え、その真意がどうにか理解できないかと、思わずエルシャは手を伸ばした。
しかし、やはり少女は実体を持っていなかったようでその手は少女には触れられず、頬をすり抜けて内側へ入り込んだようになる。
その刹那。
濁流のような勢いで、エルシャの頭の中に記憶のようなものが流れ込んできた。
記憶の中で、エルシャは少女であった。
『御機嫌よう、子爵様。会えて光栄ですわ』
最近、ようやく家庭教師に褒められるようになってきたカーテシーで挨拶する。父の友だと紹介されたその人は、微笑んでいるのにやたらと目が冷たく感じたのが印象的だった。
『きゃっ! 何をなさるの!? 離して!』
突然馬車が止まり、入ってきた御者が目隠しと猿轡をしてくる。抵抗するが力が入らない上、徐々に意識が遠ざかる。この甘ったるい匂いのせいかしら? どういうこと? 何が起こっているの?
『わたくしをこんなところに連れてきて、一体どういうおつもり!? お父様とお兄様が黙っていませんわよ!』
目隠しと拘束を解かれた。薄暗くて気味が悪い部屋だわ。何だか空気も重い。……大丈夫、きっとお父様が助けにきてくださるわ。
『ヒッ……! ね、ネズミが、ネズミが溶け……。いや、いやよ……! その液体をわたくしに近付けないで!』
わたくしの声が聞こえているはずなのに、男は意に介さない様子で近付いてきた。拘束された台の上で必死に暴れるけれど、抵抗むなしく私の口へ謎の液体が流し込まれる。
『いやぁぁああああ!! 熱い! 熱いぃぃいい!!』
何かが焼ける音がする。喉の奥で激痛が止まない。
男はまた別の何かを手に取ったようだけれど、目がまともに開けられなくて見えない。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!!!!!』
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
だれか
たすけて
「…………ッッッ!! おぇ……ッ」
あまりの惨たらしい記憶に膝から崩れ落ち、少女の頬から手が離れた。すると頭の中を埋めつくしていた映像が途切れる。
しかし一度見てしまった《それ》は目の奥に焼き付き、エルシャの心を破壊していく。
「あ、ぅ……」
『大丈夫ですか!?』
意識が朦朧としていく。リオの声が遠く聞こえるが、返事もできない。
少女の叫びが、恐怖が、痛みが、エルシャを蝕んでいく。
少女のように己の腕が腐り落ちていく様が見え────
『…………』
「ぇ……ぁ……」
ふ、と意識が軽くなる。
先程まで生々しかった少女の記憶が、突然壁を一枚隔てたような、遠い昔の記憶のような、そんなものになった。
次いで自分が息を止めていたことに気付いたエルシャは、咳き込みながら慌てて息を吸う。
「ゲホッゲホッ……! すぅー……!」
『…………』
涙目になりつつ、何度も呼吸を繰り返す。やがて少し落ち着いたところで、自分を支える手を見た。
それは先程何度か自分を支えてくれた、リオの手ではなかった。
「アゼ、ル、様……?」
『…………』
まず思ったのは、何故ここに?
そしてやたらとクリアになった意識の中で、自分に何をしたのか、と不思議に思った。
「アゼル様、なんでここにいるの? 今のはアゼル様がやったの?」
疑問はそのまま口から出た。
『…………』
いつも通り、答えはない。
しかしいつも以上にそれがもどかしい。何でもいいから答えてほしかった、とエルシャは少しガッカリした。
「……まぁ、いいや。ありがとう」
『…………』
答えてはもらえなかったし、どうやったのかは皆目見当もつかないが、エルシャを助けたのは確実にアゼルだろうと不思議な確信を持って感謝を伝える。
もちろん返事も動きもない。…………と思ったエルシャだったが。
「……ん?」
『…………』
エルシャが立ち上がるのを、アゼルは手を引いて助ける。いつも通りならそのまま離れるか、消えるかしているところだ。だが予想に反してアゼルは手を離さないまま、エルシャと少女の間に立った。
まるでエルシャを守ろうとするかのように。
パチリ、と目を瞬かせる。
次いでエルシャの頬が柔らかく緩む。
アゼルの新しい一面から感じる優しさに、温かさに、残っていた恐怖はすっかりなりを潜めた。
そっとアゼルの手にもう片方の手を添える。するとアゼルの顔が少しだけエルシャのほうを向いた。
ありがとう。大丈夫。
そんな思いを込めて頷いたエルシャの顔を暫く見つめてから、アゼルは静かに手を離して後方に移動した。
「……改めて。はじめまして、こんにちは。《タチアナ・レヴノ・グリーベル》」
『…………』
記憶にあった少女の名を呼ぶ。
すると初めて少女はわかりやすく反応を見せた。肩を震わせ、両手を組む。
祈るような。
縋るような。
少女の必死な視線の意味が、今ならよくわかる。
記憶の現実感が薄れたことで、最後まで正気を保って見ることができた。胸糞悪いことには変わりないが、おかげで重要な部分を冷静に見られるようになったのは僥倖だった。……少女が、一番伝えたかった部分が。
その記憶は少女が死した後───つまり現状の魂だけの姿になってからのもの。
少女と同じように、非道な実験のせいで壊れていく兄の破滅を、何もできずただ見ることしかできない記憶。
それを見ながら、どうか兄を助けてと届かぬ叫びを繰り返し続ける記憶だった。