・第3話・「鈍色の〝アゼル〟」
───あれから。
気持ち的に疲弊してしまったのだろう。
エルシャは丸一日寝て過ごした。起きる頃には眠り過ぎで頭痛がするほどだった。
それでもおおよそ二日かけて少し気持ちが落ち着いたエルシャは、メリアから己の髪色が生き返った際に変化したものであること、似た色を持つ人間の存在を聞いたことがないこと、また合わせて〝白〟のことも聞いた。それを説明されるにあたって、創世神話についての本も受け取った。
そして現在、自室にて件の本を読んでいる。
やたらと分厚く、年季が入っているせいもあり、ところどころ変色している部分やページがよれている部分が目立つそれの重みは、エルシャには別のものも含んでいるように思えた。
ペラリ
「…………」
静かな部屋に、ページを捲る音だけが断続的に響く。
読み進めるごとに、〝白〟とは随分ととんでもない色なのだなとエルシャは独りごちる。
頭の角度を変えた拍子に顔にかかった髪を見て、本当に若干だけ灰色がかっている鈍い白色であることを確認し、近くはあるが完全ではない分、変化がこの程度で良かった、と思った。
そもそも生き返った際に何がどう作用して色が変わったかのかさえわからないが、もし純白になどなってしまっていればそれはそれは面倒くさい事態になっていただろうなと安堵する。
集中していた分、少し目が疲れてきた頃。
エルシャは本を閉じ、伸びをしてからお茶でも入れようかと立ち上がる。
しかし長く座りっぱなしだったせいか、一瞬視界が揺れて平衡感覚を失った。マズいと焦って変に踏ん張ったその拍子に本が落ちかけ────
「……あ」
『…………』
「アゼル様」
エルシャの体は支えられ、本は落ちることなく目の前のヒトの手に収められていた。
鈍色の髪が、さらりと彼の頬の部分にかかる。目の穴も口の穴もない、不思議な仮面を被ったヒト。
それは、あの時からずっとエルシャの傍にいるヒト。
死んだはずのエルシャに、再び生命を与えたヒト。
呼び名は、エルシャが〝アゼル〟とした。
メリアは髪色からそのまま取って〝鈍色〟と呼んでいたが、それでは流石によくないのでは、とエルシャは考えた。そうして、あだ名のような形でこの名で呼ぶようになったのだ。
ちなみに、エルシャの髪よりも若干黒色が強い。件の話を聞いた後の今となっては、できるなら交換してほしいという思いが湧く。
ちなみに───エルシャは見たことがないが───最初はもっとおどろおどろしい何かを纏っていて、メリアの呼び方も〝黒いの〟だったと聞いた。この家にやってきて暫く過ごしている内に段々ソレが薄れていき、現在の人に近い姿に見えるようになったらしい。
ちなみにアゼルという言葉の意味は【夜を守るもの】という。文字を勉強していた際に知った古代語の一つだった。
初めて聞いた時からその音の響きが気に入っていたエルシャは、それを彼の呼び名にすることに決めた。
最初は無反応だったアゼルも、繰り返す内に呼びかけると反応するようになっていった。そんな変化に、名前と認識してもらえるようになってきたらしい、と気付いた当初は内心嬉しいエルシャであった。
ちなみに。
その奇抜で人外らしい容姿や神出鬼没っぷりについてはエルシャも認識していたが、自分と養母以外の人間を見た事がなかったが故に比較対象がおらず、それらを異常であると気付いていなかった。そもそもさして気にとめることもなかった。
しかも姿を現すことも数える程しかなかったため、少し前までは『たまに来る優しいお客さん』程度の認識だった。
エルシャに対して気遣う素振りが見られたり、優しさが垣間見えたりする分、むしろ良い人として好ましく思っていた。
しかし今回の事で、母よりもエルシャのほうがアゼルと浅からぬ縁があることが発覚した。
命を救われたことへの感謝の思いはあるが、側にいる目的がわからないが故に扱いに困る、何とも難しいヒト。
それでも。
「ありがとう。……アゼル様の、お蔭だったんだね」
『…………』
それは、エルシャのほうから呼びかけても姿を見せることがないアゼルに対して、予期せぬタイミングで顔を見たために思わずこぼれた感謝の言葉だった。
それに対して、アゼルは動くことも返事をすることもない。
メリアもエルシャもアゼルの声を聞いたことはなく、言葉が伝わっている様子はあるが、すぐに姿を消すなど意思疎通をしようという意思自体もあまり見られない。
そもそも会話をするしない以前に、仮面で隠れた顔に口があるのかさえ疑問だが……割愛しよう。
それでも、やはり伝えるべきだと話を聞いた時から思っていたエルシャの、一番素直な気持ちだった。
『…………』
が、暫くの沈黙と停止が続いたことで、エルシャは自分の心の中で悶々と考えていた前後の思考を声に出していないことに気が付いた。
衝撃の過去を知らされ、さらに次々新しい情報も与えられるなどして、この数日の疲労が回復しきっていなかったのだろう。そこにとどめの転倒未遂と問題原因そのものであるアゼルの突然の出現に、大混乱してしまったが故のミスである。
アゼルからすれば、かなり唐突な感謝の言葉だ。意味が伝わらなかったのでは?と思い、エルシャは自分の言葉の説明のために慌てて再度口を開きかけ────
……コクリ
ゆっくりと、アゼルは頷いた。
それだけで、エルシャには不思議とすべて伝わったと確信が持てた。
それを嬉しく思いつつ、ふとアゼルが姿を見せたことに対して首を傾げる。
「そういえば、何かあったの?」
『………………』
「あ」
アゼルはエルシャをまっすぐ立たせてその手に本を持たせると、そのままゆらりと姿を揺らめかせ────そして見えなくなった。
「……んー?なんだったんだろ。別にそんな怪我するほどの事じゃなかったと思うけど……」
基本的に姿を見せないアゼルが、エルシャの前に姿を見せる時。
それは大体が、エルシャが少々ではないレベルの怪我をしたか、危ない目に遭いそうになっている時だった。ちなみに前回は鍋をひっくり返しそうになったところを庇われた。
別に周りに尖った何かが転がっているとか、派手に本を壊しそうになっていた訳でもない。よろけただけで自分で体勢を立て直すことはできるくらいだったし、本も机の上から落ちただけなので、それほど高さはなく、多少ページがよれる程度だっただろう。
そもそも元が年季のせいでガタガタなので、そうなったとしても大した差はなかったはずだ。
「…………まぁ、いっか」
考えたがアゼルが現れた理由はわからず、エルシャは特に何もなかったのだしいいか、と一人結論付けて、当初の予定通りお茶を取りに階下へ向かうのだった。
*****
「…………」
「…………」
エルシャが創世神話の本を読み終えて暫くの後。
メリアとエルシャは向かい合って手を重ねていた。
「……やっぱり、治ったりはしてないね」
「何が?」
一人頷くメリアに、意味がわからずエルシャは首を傾げる。
「アンタのやたらと熱を出したり体力がなかったりするところが気になって前に調べたんだけどね……。実はね、魔力生成器官が壊れてるんだよ」
「え…………それは、あんまりよくないやつ、では?」
思わず声に出す。
しかしエルシャの反応は尤もだった。
魔力生成器官はあらゆる生物に備わるもの。名前の通り、心臓の傍に位置し、血液に溶け込むような形で身体中を絶えず巡り続ける魔力を生成する器官だ。
「そうだね、強いて言うなら……穴が空いてるような状態だね。常に魔力が放出され続けていて、全身を巡りきれている魔力の量が常人よりも少ない。ずーっと全力疾走してるようなもんかね?これは。……アンタしんどくないのかい?」
「………しんどい……のかな……?私的にはずっとこの状態だからわかんない……」
エルシャは困惑するしかなかった。
今まで季節の変わり目に体調が崩れることは多かったが、それ以外だとさして病弱とされるような状態になることはなかった。ゆえにそれなりの健康体だと認識していたのだが……そこまで重大な欠陥が体内に存在しているとは思っていなかった、と反応に困って母を見る。
これもまた、メリアがいい加減着手しなければと思っていた問題の一つだ。
目を合わせたメリアも困った顔になりつつ、さらに言葉を続ける。
「アンタが気付く前に治してやれたらと思って色々試した事もあったんだが、生成器官に対して治癒魔術は効かないもんらしくてね……そもそも器官が壊れたなんて見たことも聞いたこともないし……。手を出して治らないなら、自然に治ってくれさえすりゃそれが一番だと思ってその後は触れてこなかったんだよ。……でもまぁ、今日まで全く回復の兆しはないってことは、こりゃ魔術行使は無理だね。虚弱体質って言う程でもないが筋肉も体力もつきにくいだろうよ。……やっぱり護身術についても考え直さないとね」
「護身術?」
「ああ、アンタが今後外に出られるようにするために、色々準備しようと思ってたんだよ。……さて、どうしようか」
「え……そんな危険があるの?」
驚いて聞いたところによると、奴隷商というのが他国に存在しており、攫われて売られることがあるらしい。珍しい色を持っている、というのはそういう輩に狙われる可能性が存在するということだ。
あくまで保険ではあるが、用心するに越したことはないだろうとメリアは色々画策していたようだが……エルシャの体質がここで壁になってしまった。
「……なんか、ごめんなさい」
「アンタが謝ることじゃないよ。こんな特殊事例、原因は分かりきってる。ややこしくしてくれたのはアゼルのやつさ。……まぁ取り敢えず、フード付きのコートでも買おうかね……。護身術っていうか逃げる技術身に付ける方向のほうがいいかね?砂かけて目くらまししてから逃げるとか……棘が出てくるボールでも投げて追いかけられないようにするとか…………」
「…………」
ほぼ独り言に近い母の言葉に頷きつつ、エルシャは外へ出るだけでやたらと手間のかかる己に辟易した。
しかしそれと同時に、やたらと母が勧める外の世界とやらは一体どんなものかと思いを馳せるのだった。
*****
「……あの子は眠ったかい?」
「…………」
夜。エルシャの部屋の外。
ゆらりと姿を消そうとしていたアゼルの姿が止まり、次いで顔の部分がメリアの方を向く。
「……決めるのは、アタシでもアンタでもないが。……もし、あの子が今後、外で生きていくことを望んだとして。気を張って過ごさなければならない時間は多いだろう。面倒事に巻き込まれることもあるだろう。それが、アンタが意図した事ではなかったとしても。未だに引っ付いてるってのがどういうつもりか知らないが、守るならちゃんと守りなよ」
「…………」
「……伝わってんだか伝わってないんだかわかりゃしないね、ほんと……そういう何言っても響いてない気がしてくるところはアイツに似てるよ……やっぱり同類なんかね、アンタらは……」
メリアは、かつて自身の半身とまで認めた相手のことを思い出しつつ嘆息する。人外の嫌な共通項を目の当たりにした気分だった。
アゼルが何者であるかはこの際メリアにはどうでもよかった。聞いても答えが返ってこない事など、この8年で思い知っていたから。
ただ今日、エルシャの今後についてあれからこの時間まで頭を使いまくったことで、どうしても物申したくなったのだ。
あの時アゼルが何かをするまでは、エルシャは普通の子どもだった。
そして同時に、何かをしなければ、エルシャは普通のまま死んでいた。
どちらがよかったかなど、現状では結論付けることはできない。そもそもそれはメリアが決めるものではない。
ただ、あの時全てを見ていた者として、エルシャの養母として、そして今も尚エルシャの傍を離れないアゼルを観察している者として、伝えておかなければと思ったのだ。
中途半端は許さない。
メリアの心の声を読み取ったのか、はたまた別の意図があるのか。
アゼルは身体ごとメリアのほうを向いた。そしてゆったりと一礼をすると、そのまま溶けるように姿を消した。
「……はぁぁぁああ〜〜〜」
人外、ホント、イヤ。
メリアはヤケ酒でも呑まないとやってられない、と酒瓶を取りに台所へ踵を返すのだった。