・第1話・「生き返った子」
「はぁ、はぁ、はぁっ!」
息が切れる。足がもつれる。
それでも、走るのを止めてはならない。
腕の中の小さな命が落ちてしまわないよう、しっかりと抱きしめる。
力を入れた拍子に、腹部からの出血が酷くなったように思う。これでは獣達まで寄ってきてしまう。
「う……っぐ!」
込み上げる嘔吐感と、目眩がしそうな痛みを必死に押さえつけて足を動かす。
早く。早く逃げなければ。
せめてこの子だけは、守らなければ。
「……っ、ごめん、ね……!不甲斐ないお母さんで……!」
誰よりも愛した人との間に生まれた、可愛い娘。
本当は、この子と共にあの人の帰りを待ちたかったのに。私達の幸せが詰まった、あの家で。
どうして盗賊なんて現れるの。彼処には、金も美術品もない。ささやかな幸せを噛み締めて生きる人達しかいないのに。
「いたぞ!捕まえろ!!」
「……っ!!」
どうして追いかけてくるの。
どうして奪おうとするの。
私のような平凡な女でも、売ればそれなりに価値があるのかしら?
ここまでどうしようもない状況に陥るなんて、昨日までは想像もしていなかった。酷過ぎる現実に、もはや乾いた笑いが込み上げてくる始末だった。それと同時に、盗賊達の声が近付いてくる。
ああ、どんどん足が重くなる。
身体が言うことを聞かなくなる。
お願い、動いて。私はどうなってもいいから、せめてこの子だけは助けて。
誰か。
「手こずらせやがって……!」
「いや……っ!!」
伸びてきた手を振りほどいた拍子に、かくんと膝が折れた。
そのまま倒れてしまったけれど、我が子だけは離さないと力いっぱい抱きしめる。
なのに、一向に盗賊の手は私を捕まえに来ない。……いえ、声すら聞こえない……?
「な、に……?」
薄目を開ける。
そして私は、信じられないものを見た。
それは、泥のような鬱蒼とした姿で。
私と盗賊達の間に立ち。
ただただ、静かに。
無数の《闇》によって、盗賊達を捕らえていた。
「……!?……っ!!」
「………!?」
盗賊達は皆、訳が分からないという顔をしたまま《闇》に全身を包まれ、やがて呑まれた。
「ひっ……!!」
思わず後ずさろうと力を込めるが、鉛のような体はほんの少ししか動かない。気付かぬうちに体の下の地面は真っ赤に染まっている。
ああ、死ぬのね、と。血溜まりを見ながら悟る。
受け入れられない。受け入れられるわけがない。
どうして私が死なねばならないの。私が死んだらこの子はどうなるの。
怒りと不安で頭がどうにかなっていたのでしょう。私は、先程まで恐怖さえ抱いていた、目の前の何かに。
「ぉねが……おねがい、します。むすめだけは、たすけて……!」
盗賊達から助けてくれた。ただそれだけが理由だったけれど。
目の前で佇んでいたそのヒトは。
静かに。
ゆっくりと。
けれど確実に、私に向かって頷いた。
「ぁ、あり、がとう……ありがとぅ……!」
大丈夫だと。何の根拠も保証もないはずなのに、何故か私は心の底から安堵し、そのまま意識を手放した。
* * * * *
メリアが村に来たのは偶然だった。
薬の材料を採りに行こうと出かけた途中で、黒煙が上がる村を見つけてしまったのだ。見過ごす事もできず、そのまま予定を盗賊討伐に切り替えた。
大方討伐、もしくは捕縛し終えて、さて一息つこうと思ったら、村の男が一人、血塗れで何処かに行こうとして他の者に止められていた。
「それ以上動くんじゃない!死ぬぞお前!」
「俺達が探してくるからじっとしてろ!」
「…早く…早く、見つけないと…!」
(…あれはもう無理だろうね)
既に意識が混濁しているようだ。虚ろな目をしながら、それでも必死に誰かを探そうとする男に、周囲が慌てている。
ただ、残念ながら今から安静にしたところで手遅れだろう。足元から続く血溜まりは大きく、片腕は今にもちぎれそうだ。
「…誰を探しているんだい?私が行こう」
乗りかかった船だと思って男に声をかけた。
弾かれたように振り向いた男は、その一瞬だけ正気を取り戻したように目に輝きが戻った。
そして必死に言い募る。
「妻と娘がどこにもいないんだ…!きっと何処かに逃げてる!早く見つけてやらないと…!!」
(………それは多分、もう……。いや、今言うのは酷だね)
「わかった。私が探してこよう。二人の特徴は?」
「俺も探すが……。妻は赤ん坊の娘を抱いているはずだ。それと今日は緑のワンピースを着ていた。髪は亜麻色だ」
正直、粗方事態が終息して殆どの者が一息ついている今、姿を見せないのはそういう事ではないかと思ったが、可能性は零ではないだろう。メリアは男を支える周囲に引き続き押さえておくよう目で伝えてから、虱潰しに村中を走った。
「いないし、遺体も見当たらないねぇ……。残党に連れてかれでもしたか……?それならあの坊主には悪いが、諦め……────」
村の端まで辿り着き。
外側へ歩き出しながらぼやいていたメリアは、固まった。
“それ”は地に足が着いていなかった。
“それ”は澱んだ黒い霧状の何かを纏っていた。
“それ”はゆっくりと、森の中から血塗れのおくるみを抱いて出てきた。
「────待ちな!!」
即座に我に返ったメリアは“それ”の元へ走り、素早く腕の中のおくるみを奪い取った。そして視線は外さず、飛び退いて出方を窺う。
取り返そうとするか、はたまたそのまま消えるか。
得体の知れない相手の動きを見逃すまいと緊迫するメリアを他所に、“それ”は静かに腕をあげ、メリアの腕の中に収まっているおくるみを指差しながら、ゆっくりと首を横へ傾けた。
ハッとしてメリアはおくるみを剥がす。中にはまだ温かさを保った、鳩尾辺りから血を流す息をしていない赤子がいた。
「……ッ!これ、は………」
どうする事もできない、とメリアは憐れな赤子を優しく抱き締めた。《治癒》の魔術は存在するが、あれは対象者自身の自己治癒力を高めるもの。父親同様、この赤子には最早そんな余力はないだろう。傷は大きく、血を流しすぎている。
せめて父親の元へ返してやろうと踵を返し……────目の前に立ちはだかったモノを睨みつける。
「何だい?この子をここまで届けてくれたことには礼を言うが、まだ用があるのかい?」
「…………」
“それ”はゆっくりと両手をあげた。瞬間、その中に赤子が収まっていた。
「なっ……!?」
「…………」
慌ててメリアは手元を見る。赤子はいない。力を抜いたつもりも、差し出したつもりもないのに、赤子は瞬きの内に相手に抱えられていた。
魔術とは違う。どちらかというとこれは……────
メリアが思案している間に、“それ”はそっと赤子を抱き締めた。ふわりと、鈍色の光が赤子を包む。
息もできずにメリアはただ見つめる。その光が、良くないものだとは感じなかったが、同時に何なのか検討がつかなかったから。
メリアにとっては恐ろしく長く感じた数秒の後。
「……ん、ぇ……ふぇえん!」
「!!」
慌てて“それ”の手元を覗き込む。
先程まで生気を失っていた亜麻色の髪の赤子は、白に近い灰色の髪を振り乱しながら、力強く泣いていた。
メリアは五月蝿く脈打つ自分の心臓を叱咤しながら、素早く赤子の傷があったところを検分する。そこに薄らと残る大きな傷跡だけが赤子が先程まで死にかけていたことを証明していたが、その間も泣きながら元気に手足をばたつかせる今の赤子は、健康そのものだった。
そしてそんな奇蹟を起こした存在は、暴れる赤子に戸惑うように不自然に両手を胴から離し────それでもやはりメリアへ渡しはせず、泣く赤子を支えていた。
何とも言えない感情が湧き上がり、メリアは「……ははっ」と乾いた笑いを零す。
「とりあえず、村へ戻りたいんだが……その子の父親にも、奇蹟を起こしてくれたりするかい?」
* * * * *
結論から言うと、間に合わなかった。
メリア達が村の集会所へ着いた頃には、赤子の父親は教会へ運ばれるところだった。あの後すぐに力尽きたらしい。
一応“それ”も父親へ手を翳す素振りは見せたのだが───すぐに手を引き、メリアの斜め後ろへ移動した。
流石にそんなに都合良くはいかないか、と独りごちたメリアが赤子の母親の居場所を尋ねると、“それ”は村の外の森の中へメリアを案内した。
そこには赤子とよく似た可愛らしい顔立ちの娘が、腹から血を流しながら横たわっていた。
「…………」
遺体を抱え、村外れの教会へ向かった。父親は既に墓穴へ入れられており、後は土をかけるだけの状態だった。その隣に母親を並べて寝かせてやる。
こうして見ると、辺鄙な村の生まれにしては随分と美男美女な夫婦だった。周りですすり泣く村人の話を聞くに、村でも評判の仲の良い目の保養な夫婦だったらしい。
だからこそ母親はあんな村の外まで盗賊達に追い立てられることになったのかもしれないが……見つかって良かった、二人一緒に埋葬してやれる、と村人達はメリアへ感謝した。母親の行方に関しては、村人達も覚悟していたようだ。
「この二人の娘は、この後どうするつもりだい?」
メリアが問うと、あからさまに皆顔が強ばる。
無理もない。盗賊に襲われたばかりで、村人は少なくない数が死傷し、畑は踏み荒らされている。せめて娘がもう少し大きいか、片親だけでも生き残っていれば話は違ったかもしれないが、生憎と赤子で両親は故人だ。両親の親族も皆早くに亡くなっているらしく、これからどうやって自分達の生活を立て直すかで精一杯な村人達は、娘を見捨てる訳にもいかず、かといって引き取るのも……となっている。
「……提案だが、私がこの子を引き取っても構わないだろうか?」
メリアに子育て経験はないし、まともな人間に育てる自信はない。そもそもメリア自身に色々問題ありなので、世俗との関わりを絶っているのが現状だ。つまり引き取ったところで、後々面倒事になる可能性が高いくらいだ。何より、別に赤子に情が湧いているわけではない。
「…………」
そう、“これ”だ。先程からずっと赤子の顔を覗き込み、赤子を移動させると合わせて移動していく、得体の知れない奇跡を起こす“人ではない何か”。
何故か赤子をずっと気にしており、恐らく暫くの間は赤子にくっついたままだろう。それがいつまで続くかは誰にもわからない。そしてその間に何が起きるか、何を起こすかもわからない。
メリアですら関わるのは荷が重いと感じるものを側に置いておくのは、一介の村人達にとっては酷だろう。
赤子と一緒にメリアが引き取るのが、最善だと判断した。
「どうだろうか?勿論、引き取るからにはしっかり育て親として努めると誓おう」
「……大変申し訳ないのですが、その申し出を受け入れさせていただいてよろしいでしょうか……。あの子たちの娘を引き取れないとは不甲斐ないことですが、我々としてはまずは村を立て直さねばどうにもこうにも……」
村長らしい老齢の男が前に進み出てきて、重苦しく言った。
どうやら“それ”は今のところメリアにしか見えないらしく、村長達は赤子を純粋に心配している様子だった。決しておかしなものにとり憑かれた得体のしれないものを見る目ではなかったことに、少しホッとする。
つまり尚のこと、この赤子を早急に村人達から離したほうがいいだろう。変化してしまった髪の色も、元の色を知っている村人達に見せたらどんな反応が返ってくるかわからない。元の色に戻るかもしれない現状、この姿を複数の人間に晒してしまいかねない環境からはできるだけ遠ざかるべきだ。
「承知した。ではこの子の名前を教えてもらえるだろうか。それと、両親の名前も。いずれ伝えてやりたいのでね」
「本当に、何から何までありがとうございます……!この子の名は、エルシャと申します。母はカリナ、父はグレンと言い、村一番のおしどり夫婦でした……」
「ありがとう。エルシャか、いい名前だ。両親のことはいずれ必ず伝えよう」
その後、夫妻が住んでいた家から赤子の日用品を回収し、名残惜し気に手を振る村人達に見送られながら、メリアは帰路についたのだった。