第九話
十時ちょっと前になると、綿貫さんがやってきた。
「あ、早いね」
「苗畑の水やり当番の日だったんで、水やりしてから来たんです」
「朝やってるんだ」
「今日は、夕方用事があるので」
綿貫さんは頷いた。
「綿貫さん、どこか行ってたんですか?」
「ちょっと図書館に寄ってから来たの」
やはり、この人はそういう理由がない限り、遅れたりはしないのだ。ちょっと行きたい気分じゃないからとか、テレビ見始めたら止まらなくなっちゃってとか、そういうことは、彼女に限ってはあり得ないのだった。
「抜け殻、好きなんですか?」
「うん、なんだか、……いいよね」
綿貫さんはなにか言いかけて止めたように見えた、もしくは私の気のせいだったのかもしれないが。
ふと、青井さんとおそろいなのがうれしいのかと思う。そんなことは訊けないと思っていると、「森井さんも欲しい?」と言われたので「けっこうです」と即答した。
「七月ころだったかな、いつもより早く学校に来たら、外で青井さんと会ったの。朝から構内をうろうろしている子を見かけて、なにしてるんだろうと思って。あとで、羽化したセミを探してたんじゃないかなって話になったんだ。羽化したばかりのセミはなかなか見つからないなって、この間、代わりにこれをくれたの」
セミなんてもらっても本当に困るだけだと思う。いい話なのか、どうでもいい話なのか。二人らしい話であるのは確かだけど。
「そう言えば、青井さんって最近丸くなりましたよね」
あまり深く考えずに言ったことだったけど、綿貫さんがはっとしたように見えて、「え?」と思ってしまう。なにかまずいことでも言ったのだろうか。
ひとまず話が途切れたものとみなして、くるりと背を向ける。とりあえず机に向かったものの、意識は後ろにいる綿貫さんに向かったままだ。もしや、二人は本当につき合っていて、それを指摘されたような気がして驚いたのか。でもなんだか、そういうわけでもなさそうだ。
綿貫さんもまた、青井さんが丸くなったと感じているのかもしれない。綿貫さんはその原因を知っているらしい。誰か別の人とつき合い始めて丸くなったのか、それとも、ほかに私の考えも及ばないようなことがあるのか。
もしくは、なにか悪いことがあったのかもしれない。たとえば例のブログが上のほうにもばれてしまって、さすがに止めてくれと怒られたのか。それできまりが悪くて笑ってごまかしているのか。そちらのほうがあり得そうな話かもしれない。
「青井さんから、なんか聞いてる?」
振り向くと、綿貫さんは、体は机に向けたまま、顔だけこちらを振り返っている。
「いいえ」
綿貫さんはうなずくと、また机に顔を向けた。勉強に集中するふりをしたものの、いったい綿貫さんはなにを言おうとしたのか、そのことに気を取られて結局なにもできないままだった。
ある夜のことだった。時刻はもう八時を回っていたけれど、私はまだ研究室にいた。翌日にゼミを控えているので、ほかにも残っている人が多く、どことなくにぎやかだ。九時には帰りたいけど微妙かもしれない。毎度のことながら、もっと早くから準備しておくべきだったと思うけど、今はそんなこと考えているひまはない。悶々としながら、その場限りの言い訳の足しになりそうな論文を探していると、酔っぱらいが現れた。
特に珍しいことではなかった。ほかの研究室の先輩で、普段あまり交流のない人だったので、とりあえず無視した。誰か別の人に用事があるのだろうと思っていた。
「森井さん、青井さんがお呼びですよ」
「え!」
驚きのあまり、ちょっと大げさに反応してしまった、一瞬みんなの視線が集まり、また元に戻る。いろいろとおかしい。この先輩が青井さんと親しいなんて知らないし、青井さんがこんな夜更けに私を呼び出すほど親しみを感じているとも思えない。それに青井さんは、突然「俺が飲んでるんだから来いよ」などと言う人だったか。確かに威圧的ではあるけれど、こういう体育会系の振る舞いをするのはあの人らしくない。私の知らない青井さんの話をされているかのようで、一瞬動きが止まる。
「無理です、今ゼミの準備してるんで」
愛想笑いを浮かべて、そんなことを言ってみる。
「いいじゃん、ゼミなんて、どうせ毎月やってんでしょう? 一回くらいミスったって、誰も気にしないって」
「飲み会こそ、いつでもやってるじゃないですか」
先輩が一瞬なにかもの言いたげに見えて、あれ? と思う。もう一度よく見てみるけど、やはりただの酔っぱらいにしか見えない。今のはなんだったのだろう。
「固いこと言わないでよ。最後なんだからさ」
「最後って、なにがですか?」
先輩は私の質問には答えず、「じゃあ、伝言は伝えたから」と念を押して去っていった。
再びパソコンに体を向けたものの、集中できるわけがない。もともとも私には、人並み程度の集中力しか備わっていないのだ。
電源を落とすと、つい先週だか先々週だかに通った廊下を早足で進んだ。ノックしてドアを開けると、そこには、青井さん、綿貫さん、中村君、そしてさっきの先輩と、あとよく知らない人がもう一人いた。さっきの先輩は私が本当に来るとは思わなかったのか、目を見開いた。
「悪かったね、ゼミの準備があったのに」
綿貫さんがそんなことを言うので、わけがわからなくなる。私に声をかけようと提案したのは、綿貫さんだったのか。確かに、青井さんが、こんな時間まで私が居残りしていることを知っているなんて、変だなと思ってはいたのだ。
綿貫さんとは、五時ごろまで研究室で一緒にいた。いつも通りに、五時を過ぎると去っていったから、綿貫さん、今回は余裕だなと思っていた。そんな数時間前のことが、だいぶ前のことに思われる。
「最後ってどういうことですか」という言葉が喉元につまったまま、それ以上出てこない。ふと、子供のころに見損なった、セミの羽化が思い出される。祖父母の家を訪れたとき、庭先で羽化しそうなセミを見つけたことがあった。背中に亀裂が入ったところまではじっと見ていたのだけど、そのままなかなか出てこないので、親に「後で起こしてね」と言って、私は寝てしまったのだった。翌日、しまったと思って外に出ると、そこにはもう抜け殻しか残っていなかった。
その程度しか自然の現象に興味のなかった子供が、成人したらいかにも自然に興味があるふりをして、大学院まで行こうとしている。人間なんて、そう大きく変わるものではないだろう。私はいったい、これからここでなにをしたいのか。改めわからなくなってくる。
何気なく青井さんの席に目をやると、そこはうそみたいにきれいに片付いている。思わず「え?」と言ってしまう。
そんな私の言動をすかさずとらえて、中村君が、
「ほら、森井さんも呆れてますよ。やっぱおかしいですって」
と言う。
「そんなんじゃ社会に出てから通用しませんよ」
みんなが笑い出す。青井さんも笑っている。中村君の隣にいる先輩が、こいつ、と言わんばかりに中村君の肩を軽く叩く。
中村君と青井さんの上下関係は強固で、普通だったら、いくら酔っているからってこんなことを言ったりはできないはずだった。もうこの場は普段じゃないんだ、いつもじゃないんだと思った。なにがあったのか知らないけれど、青井さんがここからいなくなるのは、もはや決定事項のようだった。