第八話
こんなに何鉢もあったら、――各々の植物がどの程度丈夫なのかは知らないけれど、水やりをするのも一苦労なのではないだろうか。ちょっとどこかへ行く度に、誰かに世話を頼まないといけないことを考えると、余計なお世話だと思いつつも、大変そうだ。
美枝ちゃんが欲しかったという鉢は、すぐわかった。白いプラスチックや赤茶色の素焼きの鉢に紛れて、それはかなり浮いていた。これがモロッコの街並みの色なのか。確かに、手に入れる直前で逃してしまったら、なかなか忘れられなさそうな代物だった。
「この鉢、いいですね」
「ああ、それ、中村が買ってきたんだ。オリヅルランが増えて困ってたとき、近くで、半額処分で売ってたらしい」
美枝ちゃんには聞かせられない話だなと思いながら、うなずいた。
「大きくなったら、いつも植え替えてあげてるんですか?」
「まあ、余裕があればな」
黙ったままでいると、「似合わないって?」と言われる。とってつけたように首を横に振る。
「半分くらいは、前の研究室で引き取ってきたものだけど。でも、こうして置いとくと、みんな置いてきやがるんだよな。去年の三月も、だいぶ増えたんだ」
「前の研究室って、結構遠くでしたよね? よく持ってきましたね」
「ああ、わざわざ車で運んだ。けちって下道使ったから遠かった。よくやったもんだ」
「青井さん、なんでこの研究室に来たんですか?」
青井さんはすっと静かになった。
「だって、ほら、こんな朝顔の観察しかやってないようなとこにわざわざ来なくたって、前いた学校にずっといればよかったんじゃないですか」
そんなことを言うつもりではなかったのに、緊張して自制心が働いていないのか。前から訊いてみたかったのは確かだけど、こんな訊き方することないじゃん、と後悔する。心臓がばくばくしてくる。
「べつに、なにやるかなんて、学校に左右される必要ないだろう。あんたがそれ以上のことしたかったら、そうすればいいんじゃないのか」
あまりの正論に、一歩後ろに下がりそうになるのを、必死で踏ん張る。
「私だって、頑張りたいし、できることならもっとちゃんとしたことやりたいなとか思いますけど、でもどうやったらいいのかわかんないから、先輩がなにやってるか見たり、先生に相談したり、そうやって学校を頼ろうとするわけじゃないですか。なのに、朝顔の観察しかやってないなんて言われたら、じゃあ、私はどうしたらいいんですか?」
青井さんはしばらく黙っていた。すぐに言い返されると思っていたので、勝手が違って、戸惑い始めたときだった。
「前いた研究室がなくなったんだ」
なんの話だかわからず、え、と思う。青井さんはいつの間にか、多肉植物の葉を撫でている。
「教授が病気になって、急に辞めることになったんだ。まあ、いろいろあってな。研究を続けるつもりのやつらはみんな、伝手を頼ってよその大学に移った。ここの先生は前の先生の後輩で仲がよかったから、受け入れてくれたんだ」
無視された? と思いながらも、自分から持ち出したこととは言え、突っ込んで話すにはまだまだ理論武装が足りないのは明らかだったので、話を合わせることにする。
「学校が変わっちゃうと、設備とかも変わるし、いろいろ大変そうですね」
「ああ、ここの図書館の狭さには、驚いたよな」
青井さんはちょっと笑ってから、
「ま、どこにいても結果を出すやつは出すんだから、そんな言い訳してもな」
と言った。
「抜け殻、好きなんですか?」
質問が唐突だったのか、青井さんは首を傾げる。
「森井さんは?」
「私は、苦手です。夜、動き出しそうで怖いから」
「自然科学の勉強してるのに、そんな非科学的なこと言うなよ」
青井さんは、今度は手をガジュマロに伸ばしかけて、そしてそっと引っ込める。
「なんか、気になるんだよな。昔から。生き物みたいだけど、もう生きてるわけじゃないから安心して観察できるし、いじりまわせるし。
それにこれ、作ってみろって言われたら、なかなかできるもんじゃないぞ」
「ものづくりに慣れてる人なら、できるんじゃないですか?」
「中は空なんだぞ」
「そこまで真似するんですか」
「当然だろう、この空洞を表現しないで、なにが抜け殻だよ」
青井さんと、こんな意味もないような会話を延々と続けているのが、不思議だった。少しうろたえながらも、徐々に気を抜いて話せるようになってきていることに気づく。
そうこうしているうちに、気づけば八時半を過ぎていた。私も自分の研究室に行くことにした。
青井さんと二人になってしまい、なにを話していいかわからなくて、思わずあんなことを言ってしまったけれど。話を逸らされてほっとしたのも確かだけど、だんだんと、うまく逃げやがってという気持ちも芽生えてくる。
しかし、私は答えを求めていたのだろうか。冷静になって考えてみると、それほどしたいことや追及したいことがあるわけでもないのは、以前と変わっていなかった。正直なところ、朝顔の観察がちょっと前よりもていねいにできるようになって、前よりもいろいろ読み取れるようになったら面白いよねと、確かにその程度のやる気しかないのだと思う。新たな朝顔を作り出したいとは思わないし、朝顔の新種を求めて未開の地に旅立ちたいとも思わない。やっぱり、普通でいいんじゃない? と思う。もし、一時間前に戻ってもう一度やり直していいよと言われても、きっとろくな話はできないと思う。
しかし、やはりなんだか気になった。もし青井さんがはぐらかさないで答えていたら、なんと言ったのだろう。
私の席の背後には、綿貫さんの机があって、そこには、この間のセミの抜け殻が置かれている。ガジュマロの木はないので、普通にぽんと置いてあるだけだ。もし夜中にこっそり抜け殻が動き出したりしても、つるつるした机の上では移動しにくくて大変そうだ。
綿貫さんがこの時間になっても来ていないだなんて珍しいことだった。在席時間が定められているわけではないけれど、綿貫さんは「社会人だったら昼間は働いてるんだもんね」と言って、九時から五時の時間帯は、特に用事がない限り必ず来ている。そういう院生は珍しい。就職してしまったらここまで奔放に過ごすことはあり得ないだろうけど、こんなに時間があるのは今しかないからと、ここぞとばかり自由に振る舞う人が多いのだ。
しかし、こう言ってはなんだけど、真面目に見える人が、必ずしもいい卒論を書いたり、希望したところに就職しているわけではない。どういう法則で世の中が成り立っているのか、私はいまいちどころか全くわからない。どこかに受かれば取りあえずの食い扶持が確保できるからって、そこが本当は自分がいたい場所でないことに入ってから気づいたら、どうしたらいいんだろう。そんなわがままばかり言ってる人は、ここで生きていてはいけないのか。私の親もそうして会社に入って、なにしてるかよく知らないけど、稼いで私を養ってくれているのだから、私だけそういった義務から逃れて生きていこうというのは、確かにむしのよすぎる話なのかもしれないが。しかし、そうしてまでやりたいと思うことが、私には特にあるわけではないのだ。
誰かにそんな話をただ聞いてほしい。同級生ではなくて、できれば院生の誰かに。でも、そこはちゃっかり、「わかる」と言ってくれる人に話したい。否定しない人に聞いてほしい。とは言っても、口に出してみるまで相手がどう思うかなんてわからないので、今まで同じような価値観を持っていると勝手に思っていた人が、突然怒りだして「勝手なこと言ってんじゃねぇ」と言うかもしれない。
周りの人に本音を言う機会がどんどん減ってきている。そんな私も、二年後はしたいことがなくでも就職活動を始めているはずだ。そのとき、後輩が今のような話をしたら、怒るようになっているのだろうか。