第七話
こんな空気の中、きっと後の二年も、今の延長のような感じでそれほど目新しいことは起きないだろう。だけどやはり、もうちょっとだけゆっくりしていたい。あやふやではありながらも、こういう状況でもう少し過ごしていたいのだ。それではだめなのだろうか。
もう少しここにいれば、今は全くわからないような、たまに青井さんに絡まれて振られるような話に対しても、少しは受け答えできるようになるかもしれない。「よく勉強してるな」と言ってもらえることも、一度や二度くらいはあるかもしれない。結果としては中途半端なままにせよ、今よりは「やった」と言えるようになっているかもしれない。なにが掴めるかわからないけど、このまま「大学って、一応卒業はしたけど、なんかよくわかんなかったよね」というままで終わってしまうのは嫌だ。
同じ学年でも、美枝ちゃんには言いにくい。綿貫さんだったら、わかってくれるかもしれないと思える。青井さんだったら、鼻で笑うのだろうか。まあいいや、誰がわかってくれるにせよ、くれないにせよ、私はあと二年はここにいるのだ。それは決定事項なんだから、もう少し堂々としていよう。
水やりを終えてもまだ七時前だった。研究室へと向かう途中で、青井さんの姿を見かけた。七時から研究室にいるという話はやはり本当のようだ。
歩みを止めて見ていると、青井さんは灌木の近くで足を止めて、枝に手を伸ばした。セミの抜け殻かもしれないと思うと、自然とそちらに足が向いた。
気配を感じたのか、青井さんが振り返った。「おはようございます」と言うと「お、早いな」と言って、微笑んだように見えた。この人が私に向かって笑みを浮かべるだなんて、どういう風の吹き回しだろう。もしや、私たちはいつの間にか、客観的に見たら仲よくなりつつあるのだろうか。綿貫さんの後輩だから、なにもつながりがない人よりは、距離が縮まるのが早いということはあるかもしれないが。
とりあえず、「なにしてるんですか」と訊いてみる。
「セミの抜け殻を拾ってるんだ」
「それって、おまじないかなにかなんですか?」
「べつに。見ると拾いたくならないか?」
ならないです、と心の中で即答する。
「綿貫さん、机に飾ってますよ、この間の抜け殻」
「夏らしくていいよな」
そういう問題なのかと思うが、やっぱり口には出せない。
「冬になったら捨てちゃうんですか?」
青井さんはとたんに黙ってしまった。なにかまずいことでも言ったのだろうか。
「まあ、季節外れだからな」
「なんだか、さびしいですね」
「興味ないやつにとっては、こんなのその辺の落ち葉と大差ないだろう」
「あ……、はい、そうですね」
そんなやりとりを続けるうちに、立ち話もなんだからということで、青井さんの研究室でコーヒーを淹れてもらうことになった。
青井さんの所属している研究室は、はずれのほうの、私がいるのとは違う棟にある。改組だなんだでばたばたしたせいか、もしくは先生がほかの先生たちと仲が悪いのか、私たちの分野に所属していてその棟に研究室を構えているのは、青井さんのいる研究室だけなのだ。
普段私がいる場所から、渡り廊下をてくてくと三分ほど歩けばたどり着くのだけど、最寄りの出入り口も違うし、特に親しい人がいるわけでもないので、私にとってはほとんど未知の領域だ。その一角は、人気のない研究室が多いみたいで、廊下には堂々と先生や学生の私物が置かれている。それらも近寄りがたい雰囲気を醸し出している。あまり人が来ないせいか、中の人の好みなのか、常にドアが閉まっている部屋が多くて、なにか用事がないとなかなか入っていけない。私のいる研究室は、所属人数も多くて、最初に来た人がストッパーでドアを固定し、一日中ドアが開け放されているので、よその研究室の人もよく遊びに来ている。こことは全然違うなと思う。もともとの雰囲気や先生の性格もあるのだろうけど、同じように授業料を払って、卒業したら同じ資格がもらえるはずなのに、中で行われていることといったらずいぶんまちまちなのだ。
このドアの向こうを見るのはこれで二回目だと思うと、ちょっと身構える。同じ学校内だけど、すべては公共のスペースで個人のものではないはずなのに、よその家におじゃまする感覚だ。まるで結界が張られているかのような、時間の流れが違う空間に足を踏み入れるかのような。……けっきょくは、単に青井さんが怖いというだけなのだが。今日は絡まれませんようにと祈りつつ中に入る。当然ながら、こんな時間なので部屋には誰もいない。
この研究室は希望者が少なくて、メンバーは三人しかいないということで、けっこう机が余っている。だから青井さんは机を二つ使えるのだった。
勉強用の机の仕切りに使われている布が、以前と違うものになっていて、はっとする。きれいな布だった。インドの布だろうか、薄く向こうが透けている、海を思わせるような明るい青緑のグラデーション、こういうの選んだりするんだなと、意外に思う。
「布、変わりましたね」
「ああ、たまに変えてるんだ」
「たくさん持ってるんですか?」
「以前いた研究室で誰かが置いてったのを、もらってきたんだ」
布の持ち主たちは、その後どうなったのだろう。一般企業に就職したのか、研究関係の仕事についたのか。研究関係だとしても、会社だったら机の周りに布で仕切りを作るなんて堂々とはできなさそうだ。
すぐ隣にある、観葉植物やセミの抜け殻が置かれた机を見る。日当たりがよくはないけど、窓際で、この部屋の中では一番明るい場所だ。そこはもはや、完全に、好きなものを並べるためだけの机だ。ポトス、オリヅルラン、サボテン、そんな私にもわかるようなものから、見たことはあるけど名前は知らないもの、初めて見るようなものなど、さまざまな鉢がある。観葉目的なのだから色や形に特徴がある植物ばかりなのは当然だけど、いろいろな国の植物が寄せ集められて、植物園よりも自由で、普通の人の自宅の部屋だったらここまでしないだろうと思うような、そんな空間になっている。この人、なんだかんだ言って自然や植物が好きなんだなと、素直に思える。
今日採れた抜け殻は、小さなガジュマロの木の根元に置かれた。何匹かの先客もいた。連れてきてここで羽化するのを観察したんだ、と言われたら、そのまま信じてしまいそうなくらい、自然にそこにあった。生きていたころはいろいろ大変だったんだから、せめて余生はここでのんびりさせてよとでも言っているかのようだった。
「いつも思うんだけど、あんたの研究室、あんなに人数いるのに、なんでコーヒーメーカーないんだ?」
この研究室は三人しかいないのに、やけに立派なコーヒーメーカーが置いてある。青井さんは流し台の脇で、慣れたき手つきで粉や水をセットする。
「前はあったらしいんですけど、誰かが壊しちゃったみたいで」
「新しいの買えよ。一人数百円も出せば、安いのだったら買えるだろう」
「そうですね」
てきとうに答えて、また机を見る。
いくら研究室がある程度自由な場所だからといって、普通ここまではしないだろう。長くても数年間しかいない普通の学生は、引っ越すときのことを考えて、こんなに多くの鉢は買わない。卒業したら全部置いてってやる、と割り切ればいいのかもしれないけれど、我々はそれなりに植物に愛着を持つ人種なので、「これなら、引っ越すときにも連れていけるかも」「これくらいなら、置いてっても誰かが世話してくれるよね」と思う程度の、もしくはそれをわずかに上回る程度の鉢しか所有できないのが通常なのだ。