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青井さんの机  作者: 高田 朔実
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第六話

「青井さんは、どのドーナツが好きなんですか?」

「最近まであんまり食ってなかったから、なにがあるのか把握しきれてないけど、こんなのもあるんだな。これ、うまいよ」

 青井さんの手には、ホイップクリームがたっぷり入ったドーナツがあった。

「森井さんは?」

「私は、このチュロスを輪っかにしたやつです」

「それって、ドーナツっぽくないよな」

「それを言うなら、あのポン・デ・ケージョみたいな、もちもちしたあれだってそうですよ。輪っかだってだけで」

 と美枝ちゃん。

「ドーナツの定義って、なんなんだろうな」

 とっさに身構えてしまう。本人は普通にしているだけなのかもしれないが、こういうのは試されているようで、なんだか苦手なのだ。相手が青井さんだから、なんでもそう思えてしまうのかもしれないが。

「俺がガキのころは、ドーナツなんて、母親が作ってくれた、普通の輪っかのしかなかったよなあ」

 青井さんは、目を細める。

「あれ、けっこう難しいんですよ。私も子供のころ、よくドーナツ作ってたんですけど、手で丸めて揚げるくらいしかできなかったんです。輪っかのは作り方がわからなくて。ドーナツ用の型が家にはなくて、なんで継ぎ目がない輪ができるのか、ずっと不思議に思ってたんです。大きい丸の型で抜いて、それをさらに、小さい丸で中を抜けばあの形になったんですけど、本もネットもなくて、調べられなかったんですよね。いつも、輪っかのドーナツに憧れてたんです」

綿貫さんは懐かしそうに話した。

 それからもだらだらと話が弾んで、気づいたら二時間が経過していた。

「悪いな、じゃましちゃって。みんな忙しいのに」

「そんなことないですよ」

「そんなことあるってふりだけでもしてろよ、四年生なんだから。光陰矢の如しだぞ」

 青井さんは去り際に珍しく笑顔なんて見せていた。変なの、と思った。

「なんか今日、機嫌よくなかったですか?」

「暑くなくなってきたからかな」

「ドーナツのセールが続いてうれしいのかも」

 やっぱり綿貫さんと話したいのか? とも思ってみたけど、さっきの様子を見ていても、特に「綿貫さんとだけ話したい」という感じでもなかった気がする。そう思いつつも隠していたのかもしれないが、それにしては二時間も我々も交えて話していたのは長すぎるだろう。なんというか、機嫌がよかった。ひとことで言えば、そうだった。

 青井さんが去ってから間もなく、綿貫さんも去って行った。「あ、抜け殻忘れるところだった」と言っていたのが、やけに楽しそうに見えた。

「綿貫さんと青井さん、つき合ってるのかな?」

「それはないでしょう。いくら綿貫さんだって、彼氏といたらもう少しおしゃれしてるよ」

 綿貫さんは、まるで制服のように、量産店で買った安い無地のTシャツを着て、ほぼいつもジーパンを穿いている。Tシャツの色は、ピンクとか黄色とか、そういうのはまず選ばないで、カーキとか灰色とかベージュとか、やたらと地味なものばかりだ。夏場になって、辛うじてくすんだ水色のも見たけど、基本的に、急に屋外で作業することになったときでも、作業しやすくて汚れが目立たない服がいいらしい。

「そうなのかな?」

「あの手の人は、そうだよ。絶対そう、ドーナツ一個賭けてもいい」

 そんなの、賭けでもなんでもない気がする。まあ、どちらでもいいけど。

「最近、青井さん、ブログになにか書いてる?」

「それがね、あの朝顔の観察の記事が消されてて、新たな記事の更新もないの。大学関係者に見られたって、気づいたのかな」

 綿貫さんから伝わったのかもしれない。大ごとになる前に収まって、ちょっとほっとする。

「あの抜け殻のやりとり、なんだったんだろうね」

「さあね、落ちてたのをたまたま拾っただけじゃない?」

「綿貫さんだって、なんか、大事そうに持ち帰っちゃってさ」

「置きっぱなしにして、誰かが見て気味嫌がるかもって心配したんじゃないの」

「ここに出入りする人で、そんな人いないでしょう」

 美枝ちゃんはどこか不服そうだ。

「なんか、抜け殻って気持ち悪くない?」

「確かに、なんだか夜中に動き出してそうだよね」

 美枝ちゃんは私の意見に「えー、そう?」と顔をしかめると、

「もう終わっちゃった人、みたいな気、しない?」

 と言った。どっちなのか、実物を見て判断したいところだったけど、綿貫さんが持って行ってしまったので、改めて確認することはできなかった。

 それぞれ、思い思いの飲み物でカップを満たすと、私たちはお茶部屋を後にした。


 その日は苗畑の水やり当番で、朝早くに家を出た。一日のうちいつでもいいから、研究室で所有している実験で使う苗木に、一回水やりすることになっているのだ。珍しく早く目が覚めて、二度寝する気にもならなかったので、朝の六時から出かけることにした。下宿から苗畑までは、歩いて十五分もかからない。この時間帯に歩くのは、私にしてはとても珍しい。ほとんど人のいない道を歩くのは爽快だった。

 近ごろ、昼間は暑いけど、朝晩はすっかり冷えるようになってきた。少し前まで青いイガができたばかりだと思っていた栗は、いつの間にかもう立派な実になっている。イガがはじけて中身が見えているものもある。いつ収穫しようかと、目を光らせている人も少なからずいるとのうわさだ。

 大学に入って四年目にして、私はようやくこの栗の木の存在を知った。私たちの研究室の先生が学生だったころに、何食わぬ顔して植えたのではないかと言われている木。ここは構内でも端のほうなので、通るのは研究室関係の人たちくらいなのだ。大学構内とは言っても、四年生になるまで、私にとっては未知の領域だった。

 四年近くいるのに、まだまだ知らないことがたくさんある。むしろ、今まで講義だけ受けていたときよりも、私にとっては、この四年目から知った新たな生活のほうがしっくりくる。毎週出ないといけない講義はないし、好きな時間に好きなように勉強すればよくて、自分の机だってある。人間関係にしても、同じ学年の人だけではなくて、多少偏ってはいるもののいろいろな世代の人が身近にいる。ようやく大学の醍醐味がわかってきた気がする。今更な気もするけど、私が特に怠けていたのではなくて、大学の仕組みがそうなっているのだから仕方がない。

 ホースで水やりしながら、枯れたり弱ったりしている苗木もけっこうあることに気づく。全員が全員真面目に水やりしていたわけでもないのだろう。その年に実験に使っている苗木は個人が管理しているので、交代で水やりしている苗木は予備のものだけど、果たして来年以降使えるのだろうか。もう使えないのではないかと思うような、大きな苗も交じっている。小さい苗だって、生きてはいるけど、けっこうな乾燥ストレスがかかっているのではないか。もはや標準的な状況といえるのか。専属で見てくれる人がいるわけではないからしかたないけど、確かに管理が甘いと言われれば、私からでさえもそう見える。小学生の朝顔の観察といわれてしまう要因がここにもあるなと思う。

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