第五話
綿貫さんの言葉に、できるだけ表情が変わらないよう、一瞬お腹に力を入れる。
「なにをお話ししたいんでしょうか?」
「さあ、そこまでは」
具体的に日時の話が出ているわけでもないので、笑ってごまかすことにする。あんな人と二人で話すなんて、ホラー映画もいいとこだ。ありえない話だ。青井さんがなかなか就職できないのも、面接のたびに面接官に怯えられて、この人と一緒に働くのは怖いと思われてしまうからではないか。あながちない話ではない。
「綿貫さんは、就職決まったんですか?」
美枝ちゃんの唐突な質問に、一瞬私までもがたじろいでしまう。綿貫さんは、無表情で首を横に振る。
「公務員試験は、受けたんですか?」
「受けてないけど」
私たちの分野には、専門を生かした就職口というものがあまりない。博士号を取って研究職を目指すのが一番専門的だろうけど、そこまでする人はほとんどんいなくて、通常は、公務員試験を受けて森林関係の技術職につくとか、環境コンサルタントの会社に入るとか、森林組合に入るとか、あるいは農山村で自給自足に近い生活をしながら、山の中で収入を得る方法を模索するとか、そんなところなのだ。学部生で終える人は全く関係ない分野に就職する人が多いし、院を出た人も必ずしもその分野を目指すわけでないけど、ひっかかったらもうけもんとばかりに、勉強しなくても試験だけは受ける人が多い。
「私は、向いてないし」
美枝ちゃんがもの言いたげに見えたのか、綿貫さんはぼそっとつぶやく。
「私も向いてないし試験勉強もそんなやってないですけど、一応受けましたよ。落ちましたけど。でも、受けてもいないって……」
「もし受かってもすぐ辞めちゃうだろうし。職場にも、代わりに落ちた人にも申し訳ないし」
「向いてるかどうかなんて、やってみないとわかんないじゃないですか。向こうだって、何人か辞めること見越して多めに取ってるんだろうし。まさか卒業してまで親に養ってもらうわけじゃないですよね。綿貫さん、なにするつもりなんですか?」
今日の美枝ちゃんは、やけに攻撃的だ。彼女もいろいろと大変なのかもしれないけど、これではただの八つ当たりではないか。止めさせたいけど、どうやって止めたらいいものか。それに、この間先生がちらっと言っていたのだけど、綿貫さんは、どうも正直すぎて、ほかの会社の面接などもうまくいかないらしいのだ。
「あの人も、もっとリップサービスを覚えないといけないですよねぇ、仕事始めたら、思ってもないことを言うなんて、日常茶飯事なんですから」
先生はそう言うと、私になにかを言う隙も与えずに行ってしまったのだけど。
綿貫さんと先生が具体的にどんな話をしたのかは知らないけど、どうも「うちが第一志望ですか」と訊かれると、「特にそういうわけではないんですけど……」と正直な気持ちが出てしまうらしいのだ。気持ちはわからないでもないけど、それでは向こうもいろいろと困ってしまいそうだ。うそだとしても、とりあえずは「はいそうです」と言ってもらわないことには、話が始まらないだろう。二年後に自分がそういう場面に立って、すらすらそう言えるかと言われれば、まったく自信はないけれど。綿貫さんが青井さんとよく一緒にいるのは、そんなことも関係しているのかもと思ったときだった。ちょうどいい具合に、青井さんが現れた。こんなときは来てくれてよかったと思う。さらに、ミスドーナツの箱を手にしているのを見て、思わず顔がほころぶ。
「百円セールしてたから、ついいっぱい買っちゃったんだよな。買ったはいいけど、明らかに一人分じゃねえし。ここなら需要があるだろう?」
そう言って、机の上に箱を置く。綿貫さんが慌てて、
「いつもすみません、お金払いますよ」
と言う。青井さんは、
「いいよ、好きで買ってんだから」
と言う。そうこなくっちゃ、と思う。
「最近よくセールしてて、見ると、なんか買いたくなるんだよな」
綿貫さんが、青井さんのためにコーヒーを淹れようと立ち上がる。それに気づいたのか、青井さんは「俺はいいよ、今日はカフェイン取りすぎてるから」と言った。
今日は漫画は読まないみたいで、ソファーに腰掛けると、ごく自然に私たちの会話に加わる。
「さっきはありがとうございました」
「ああ、あんなもの」
綿貫さんが畏まって言うので、なんだろうと思っていたら、どうやらセミの抜け殻は青井さんからもらったものだったらしい。確かに、“あんなもの”だ。いい歳して、一体どういう状況でセミの抜け殻なんてあげるのだろう。
「見つけると、そのまま捨てておくのがもったいなくなるんだよな。丈夫だし、やたらと細かいところまでよくできてるし」
「抜け殻って、セミがいなくなった後、どうなるんですか?」
思わず言ってしまってから、はっとする。
「まあ、いずれ自然に還るんじゃないか」
普通の返答だったので、ほっとする。
「腐りかけてぼろぼろになってる抜け殻なんて、見たことないですよね。ぱってなくなっちゃってますよね」
「気になるんだったら、自由研究でもすればいいんじゃないか、夏休みだし。構内にある抜け殻を、そうだな、百個くらい選んで目印つけて、どうなってくのか経過観察するんだよ」
「もし鳥かなんかに食べられてたらわかんないですよね」
「センサーカメラ仕掛けるんだよ」
今日は珍しく青井さんとの会話が弾んでいるようだ。不思議なこともあるものだ。もしかすると、青井さんはいつもよりも、少し機嫌がいいのかもしれない。
「ドーナツって、学生のころはやたらめったら買えなかったんだよな」
青井さんは、ドーナツを見ながら呟く。
「たかが百円って言ってもな、俺が学生のときなんて一食百円を目指して生活してたんだ。それが、こんなドーナツ一個で百円だっていわれても、そりゃあ、買えないわな。そうこうしてるうちに、ミスドーナツなんて俺には関係ないものだって思いこんでて……。気づいたら、これくらい普通に買っても痛くもかゆくもないのにな」
妙に納得してうなずいてしまった。青井さんは、しゃべりすぎたと思ったのか、無言になる。私たちも、普段話し慣れていない、よその研究室の年の離れたお兄さん相手に、どんな話題を出せばいいのかわからない。さっきは威勢のよかった美枝ちゃんも、さすがに青井さんには絡めないらしい。期待の綿貫さんはといえば、前回選んだのと同じドーナツを小さくちぎりながら、満ち足りた表情を浮かべている。この人も、一食百円を目指しているくちなのかもしれない。確かに、普段おやつといえば、いかにも安そうな板チョコを少しずつ折って食べているだけのようだし、それから見ればすごいご馳走に違いない。
美枝ちゃんは、イチゴ味のチョコのかかったドーナツを食べ終えると、席を発つ気配を見せる。気持ちはわかるけど、今は人が多ければ多いほどいい。服の裾を引っ張って、もう少し一緒にいるよう合図する。