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青井さんの机  作者: 高田 朔実
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第三話

 青井さんのひとことに、一瞬動きが止まる。

「まあまあ、です」

「困ってたら、青井さんに相談してみたら」

 綿貫さんが微笑む。なんてことを言うんだ、と思う。青井さんは漫画をテーブルに置いて、「余計困らせちゃうかもよ」と軽く笑う。

 青井さんは、今年だったか去年だったか、学会かなにかで、若手に与えられる栄誉ある賞を取ったらしかった。どれくらい取るのが難しいかは知らないが、少なくともこの大学の学生にはあまり縁がないのは確かだった。そもそも、ここでは博士課程に行く人だってほとんどいないのだけど。

「森井さんも、院へ行くんだよね」

 綿貫さんのなんの気なしだと思われる質問も、青井さんの前では避けて欲しかった。怪しい雲行きになってきたと思いながら、「はい」と言う。

「ふうん。院行くんだ。なにがしたいわけ?」

 とうとう来たと思う。つま先からあたまのてっぺんまで、不快な震えが駆け抜ける。

「なにってほどもないですけど……。でも、一年しか研究の期間がないといろいろよくわからないというか、もう少しやってみないと、なんだかわからないうちに終わる気がして……」

 自分でもなにを言っているのかわからなくなってくる。無視するのは無理にせよ、もう少しはぐらかすような答えかたができないものか。「そんなの、もっと適当にかわしとけばいいんだよ」と、美枝ちゃんが顔をしかめるのが目に浮かぶ。そうできればどんなにいいことか。ついなんでも真面目に考えてしまうから、就職云々の前に、就職活動に足を突っ込む勇気すらなくて、もう二年間現状維持でいこうとしている。それが主な理由だと思うけど、そんなことは言えない。

 そもそも私は新しい環境に慣れるのが苦手なのだ。大学に入るのだって、ここに慣れるのだってそれなりに努力したし、苦労したのだし、だからもう少し、穏やかに暮らしたっていいではないか、そう思っちゃだめですか? そう言ったら、青井さんはなんて言うのだろう。

「ああ、そう。ま、ここでやってるのは研究ってほどのことじゃないと思うけどね」

「小学生の夏休みの朝顔の観察、ですもんね」

 思わず口に出してしまい、さすがにやばいと思う。慌ててコーヒーを飲み込むと、「ドーナツ御馳走様でした」と無理やり笑って見せて、コップを片手に立ち去った。

 青井さんの顔をまともに見れなかったけど、どんなだったんだろう。あんまり嫌な顔されてないといいなぁと思う一方で、なんで私があんな人に気を使ってやらないといけないんだとも思ってしまう。ちょっと年食ってて、ちょっといい大学行ってたからって、先輩風吹かせる必要ないじゃん、と思う。就職したら、もっとああいう人が周りに増えるのだろうか。まあそうだろう、仕事はきっともっと厳しい。後輩がちゃんと働いてくれないと困るだろうし、ダメ出しされる機会は今よりさらに増えることだろう。

ポスドクの期限は三年間だから、来年私が院へ行ったら、あの人もまだいるはずだ。院生は学部生より数が少ないから、それなりにつき合わないといけなくなるのだろう。そう思うと、気が重くなってきた。

 せっかく、人の少ないところで綿貫さんと会えたのだから、いろいろ話を聞いて欲しいと思っていたのに、よりよもよって青井さんと一緒だなんて。今日だけじゃない、最近やたらと二人が一緒にいるのを見る気がする。まさか二人は、つきあっているのか? そんなことなければいいなと思うけど、でも、仮にそうだとしたら、陰で二人で今ごろ「あいつはだめだな」「最近の子だからね」などと言われていたりしたら……、まあ、それはあまりにマイナス思考かつ妄想が激しいというものだ。これくらいにしておこうと、座ったまま軽く伸びをして、今最も重要な、院試のための過去問を広げてみる。

 問題文を読んでいると、いつだか院試の話をしていた青井さんが「去年の問題見たけど、できる中学生なら九割採れるな、あれは」と言っていたことが思い出される。今年も問題をチェックして、「これ、高校入試の問題かよ」などと嘲笑うつもりだろうか。「森井さん、もちろん全部できたよな?」と訊いてきたりするのだろうか。なんで今日はこんなことばかり考えてしまうのだろう。ただ青井さんに会っただけなのに。

 そうこうしていると綿貫さんがやってきた。私のそばに来ると、「さっきは、ごめんね」と言った。

「別に、全然大丈夫ですよ」

 無理矢理笑顔をつくる。綿貫さんは首をかしげて、「本当に?」とでも言いたそうだ。

「青井さん、悪い人じゃないんだけど、自分にも人にもちょっと厳しいよね」

「でも、綿貫さんには優しいんじゃないですか?」

「ドーナツのこと? あれは、雑用手伝ってるから、お礼にって、もらっただけだよ」

「けっこう量ありましたよね」

「ほかにも誰かいるかもしれないからって、多めに買ってくれたの。休日も来てる真面目な子がいたらあげようって」

 青井さんって、そんな人だったっけと思う。ちょっと意外だ。

「いてくれてありがとう。いつも来てるの?」

「院試が近いんで。アパートだと、机がないから勉強できないんです。教科書も全部こっちに持ってきてますし。それにここだと、冷房使い放題だし、お茶も飲み放題なんで」

 図書館もあるけど、自習スペースは狭くて行っても座れないこともあるし、基本的に飲食禁止だ。研究室に入ったのは三年生の後期からだったけど、机がもらえたのは四年生になってからだった。学校に机があって、月々数百円のお茶代を払えばお茶も飲み放題で、地味に「やった!」と思った。机に座って、お菓子を脇に置きながら勉強できるだなんて、最高だった。しかも喉が渇いたら、冷蔵庫を使おうが、お湯を沸かそうがやりたい放題だ。それまでは、飲み物が欲しいときは水筒を持っていくか、自動販売機で高いお金を払って買うかしかなかったのだ。節約できるようになって、うれしかったことを思い出す。勉強もさぞかし捗っていることだろう。そういうことにしておこう。

「そういえば、あの朝顔の観察って、なんのことだったの?」

 一瞬言っていいものかどうか迷ったけど、堂々と全世界に向けて発信されている情報だし、隠す必要はない。美枝ちゃんの名前は伏せて、さっきのことを話す。

「青井さん、そんなこと書いてたんだ」

「私は直接見てないんですけど、先生たちにばれたらどうするんですかね。

青井さん、院試の英語の過去問も、できる中三だったら九割は採れるとか、そんなことも言ってましたし。なんて言うか、ちょっと言い過ぎなんじゃないですか?」

 綿貫さんはちょっと黙ってから、

「森井さんはどう思うの?」

 と言った。確かに、私が過去問を一生懸命やる気が起きないのも、どうせこんなの勉強しなくてもどうにかなるでしょう、という気持ちが根底にあるからなのは確かだ。昨年の卒論研究発表会にしたって、すべての発表をきっちり聞いたわけではないけど、「こんなんでいいんだ」という感想を抱かないわけではなかった。

「まあ、多分多かれ少なかれ、みんな思ってることなのかなって、そんな気がしないでもないですけど。でも、そういうことって、普通、あんまり言わないですよね」

「青井さんの場合は、そういうの、黙ったままでいるのはよくないって思うみたい。言って表に出さないと、よくなるものもよくならないって」

「だったら、先生に面と向かって言えばいいんじゃないですか? こそこそしてないで」

「うん、まあ、そうなんだよね」

 実りのない会話になってきた気がする。ちょっと関われば、誰もが思うことなのかもしれない。

「だから森井さんも、青井さんのことは気にしないで、淡々と自分のやることやっとけば、大丈夫だよ。森井さん、しっかりしてるし」

 素直に頷けず、思わず下を向いてしまう。綿貫さんは「これ、よかったら」と言って、ドーナツを一つくれた。箱の中には、チョコがかかったオールドファッションが一つ残っていた。


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