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青井さんの机  作者: 高田 朔実
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第二話

 青井さんは一次会をすっぽかして、この研究室の修士二年の先輩とずっと飲んでいたのだった。楽しく飲んで話が盛り上がっていたというよりは、青井さんが一方的に説教していたらしく、そこに私が現れて、これ幸いとばかりに、なにも知らされないまま交代させられてしまった。そんな私は、猛犬の前に差し出された子犬も同然だった。

 青井さんは、私がそれまで見たこともないような酔っ払いかたをしていた。とにかく、もう人に当たり散らすことしか頭にないようで、私がなにか言えば上げ足をとり、呂律が回っていないくせに、即座にぴしゃっと、やけに鋭い意見を返してきた。いや、酔っていたからこそ、なんの遠慮もなくなって、思う存分目の前の相手を攻撃できたのかもしれない。「はあ? なんだそれは? 本当、甘いよなあ、親からの仕送りで生活できてるっていいよなあ」などと、悪意すら感じられるようなことも言ってきた。「なんだか今年はやけに女子が多いけど、あんたら本当に森林に興味なんてあんのかよ? 宮崎アニメに影響されてるだけじゃねえの?」などとすごまれると、なんとなく来てみただけです、なんて言えるわけがなかった。

 しかし、私がなにをしたというのだろう。「卒業したらどうすんだよ。仕事なかったら、永久就職でもするってか?」と言われたとき、思わず「永久就職ってなんですか?」と訊いてしまったのがいけなかったのだろうか。確かに、宮崎アニメだとかそういうものを見て、森の勉強をするのも面白そうだと思ったのもあったし、そんなこともあって、一年生のときの一般教養の講義でたまたまとった森林の授業がけっこう面白くて、これでいいかなと気軽に選んだ部分もあった。ケーキ屋さんで、今日はチョコよりチーズの気分だからこっちでいいやと、そこまで気楽ではなかったにせよ、就職のことは特に考えてはいなかった。でも、みんなそんなもんなんじゃないの? 特になにかの資格が取れるわけじゃないし、したいことすればいいんじゃないですか。それじゃいけないんですか? と思ったものの、そんな状況で言い返せるほど、私は世間に慣れているわけではなかった。

 周りにいる人たちも、普通の声で「青井さん、ちょっと言い過ぎ……?」などと微笑みながら声をかけるくらいで、真面目に止めようとしてはくれない。関わりたくないのだろう。誰も助けてくれなかった。こういう場合、逃げていいのかいけないのかとっさに判断できなくて、青井さんがトイレに行った帰りにそのまま廊下で寝てしまってどこかに収容されるまで、私はその場で怯えていることしかできなかった。

その後、その場にいた人たちが「ごめんね、普段はあそこまでひどくないんだけど、なんか今日変だったよね」などとフォローしていたけど、第一印象はあれで固定されてしまった。向こうは、二日酔いが覚めたら、名も知らぬ学部生に絡んだことなど、きれいさっぱり忘れてしまったことだろう。しかし、絡まれたほうはそうはいかない。私個人に対して怒っていたわけではないにしても、そのまま忘れてしまえることではなかった。特に蒸し返して謝ってほしいわけではないけど、ああいう人には近づかないに限ると思うのだった。顔を見かけるたびに、本性はばれてるんだから、と心の中でつぶやいていた。

 まあきっと、この人にとってここは単なる通過点で、ちゃんとした就職先が決まるまでの腰掛のようなものなのだ。だから学生たちのことも、酔って八つ当たりする対象くらいにしか考えていないのだろう。

二人がどういう関係だか知らないけど、休日に二人でやってくるなんて、どういうことだろう。じゃま者と思われてもしゃくなので、時間のかかるドリップはよしてインスタントにしようかなと思ったが、青井さんの手元にあるミスドーナツの紙箱が目に入ってしまった日には、ちょっと事情が違ってくる。

「今コーヒー淹れるとこなんですけど、一緒にどうですか?」

「俺、この研究室の人じゃないからなあ」

 そう言われてしまうと、ドーナツをもらいにくくなってしまうではないか。そんなことを思っていると、綿貫さんが助け舟を出してくれる。

「いいじゃないですか、いつもお菓子とかもらってるし」

「君にお菓子をあげた覚えはあるけど、この研究室にあげてるわけじゃないし……」

「私がみんなに適宜分けてるんで、大丈夫ですよ」

 青井さんは怪訝そうな表情を浮かべながらも、ひとまずソファーに腰を下ろした。

「綿貫さんに淹れてもらってもいいですか?」

「え? 私?」

「綿貫さんの前でコーヒー淹れるだなんて、プレッシャーが……」

 綿貫さんは「なんのプレッシャーなの?」と軽く笑いながら、快くバトンタッチしてくれた。 

 彼女は、この研究室で一番コーヒーを淹れるのが上手い。もっと口うるさくて、こだわりをもっている人がいないことはないけど、なぜか無言でするすると淹れる彼女のほうが上手なのだ。コーヒーが好きだからというよりも、学部生のときの同期が淹れ方にうるさくて、なかなかみんなでコーヒーを飲む輪に加われないことに心を痛めて、一生懸命練習して腕を上げたらしい。そんなうわさがあるのも、いかにも綿貫さんらしい。

 私はそれほどコーヒーの味がわかるわけではないけれど、そんな話を聞いてしまうと、つい綿貫さんがいるときには淹れてもらいたくなってしまう。なんだかご利益があるような気がするのは、私だけではないだろう。それに今は、そうしたほうが青井さんが喜びそうだ。

「薬缶磨いてくれたの、綿貫さんですか?」

「ええ、たまたまた時間があったから」

「どうもありがとうございます」

「どういたしまして」

 綿貫さんと話していると、それだけでほんわかした気持ちになる。もしや、青井さんもそうなのだろうか。こんな人にもそういう感情があるものなのかどうかは、なんとも言えないけど。

この近辺に例のドーナツの店はない。徒歩で一番近いところで三十分はかかる。しかし青井さんは車を持っている。

 やや遠方にあるショッピングモールの名前を挙げて、行っていたのか尋ねると、二人は顔を見合わせてにやっとした。イートインで飲み物を頼むと高くつくから、ドーナツだけ買って、コーヒーはここで淹れることにしたらしい。私がここにいたのは誤算だったのかもしれないと、改めて思ってしまう。どのタイミングで立ち去ろうか考えていると、青井さんは本棚から『お父さんは心配症』を取り出し、読み始めた。

「ここ漫画喫茶じゃないんですから」

 綿貫さんは笑いながら、青井さんをじっと見る。

「いいじゃないか、賄賂あるんだし。あ、森井さんも遠慮なく食ってくれよな」

 名前を覚えられていたことに「ひえっ」となりながらも、足取りは軽い。

「え? 私ももらっていいんですか?」

わざとらしく言いながら、箱をのぞき込む。綿貫さんは「好きなのどうぞ」と言うし、青井さんは「俺はあまりものでいいから」と言う。

卵が多めに入っているという、ふわふわしたのを取ろうとすると、綿貫さんが一瞬物言いたげな様子を見せた気がした。とっさに手を横に滑らせて、チュロスが輪っかになったのを取る。綿貫さんは、ちょっとほっとした様子で、私が取りかけたふわふわしたのを取った。私が取ったチュロスの輪っかを見て、青井さんは「あ、メビウスの輪もどきだ」と言った。

 青井さんが漫画を読み始めたのは、私がいるせいで、二人で話したいことが話せないからではないかと気になりながらも、綿貫さんと話が弾み、徐々に気にならなくなってきたころだった。

「卒論、進んでんの?」


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