第十話
それから日付が変わるまで飲み続けたけど、話すのは普段話すようなことばかりで、青井さんのその後について予測できるような話題はなに一つ出なかった。口止めされているのか、気を使って話していないのか、それともみんな本当に知らないだけなのか。手がかりといえば、中村君が言っていた「そんなんじゃ社会に出てから通用しませんよ」という言葉だけだった。それについても、どう解釈したらいいのか。この研究室を去ることは確かだとしても、もしよそで研究の仕事が見つかったのだったら、なにも言わずに去ることはないだろう。今後についての話題も出ているはずだ。ひとつだけ確かなことは、一時的な好奇心を満たすためだけに青井さんの今後についての話題を持ち出すのは、止めたほうがいいということだった。
ただささやかに、吞んで、相槌を打って、てきとうに笑った。飲み会というよりも、なにかの式にでも参加しているかのような厳かな空気がそこにはあった。卒業式の、卒業証書授与の場面を、在校生の席に座りなからじっと見守っているような心持ち、みんな多かれ少なかれそういう意識を持っていたのではないか。今までのどんなときよりも、この人たちのことを仲間だと感じた。
校舎を出たのは真夜中になってからで、秋の夜は、もはや半袖が通用しない空気になりつつあった。私の体温を奪ったところで大気にとっては微々たるものなのに。熱が高いほうから低いほうへと流れていくのは自然の摂理だから仕方ないけど、そんなことを思いながら、夜の中を歩いた。私と同じ方向に帰る人はいなかったので、その日は結局誰からも事情をきくことはなかった。
青井さんが置いていった観葉植物は、欲しい人が少しずつ持っていった。それでも半分くらいの鉢が残ってしまった。それらはひとまず中村君が面倒をみることになっているけど、
「俺、青井さんほど植物に愛情がないから、心配だ」
そんなことをぼやいて、私もたまに植物の面倒を見に来るように言われてしまった。なぜか私は、すっかり青井さんと仲がよかったことにされてしまっていた。実際は連絡先も知らない程度の間柄なのに、おかしなものだった。
美枝ちゃんは「とうとう私の元にやってきた!」と大喜びで、例の鉢を持って帰った。
「けっきょく私は最後のあいさつもしなかったんだよね。まあ、ひっそりいなくなりたかったんだろうけど。それにしても、公務員の一般職受けてたなんて、びっくりした。技術職じゃないなんて、意外だったな。研究だけじゃなくて、この分野からも足を洗うんだね」
足を洗うという言い方が意外に重くて、軽く、「うっ」となった。
「けっきょくは、どんなに頑張っても、お金にならないと意味ないってこと? でも、なんか、寂しいね」
「まあ、そうは言っても、あの人がこの分野に関わってたのって、たかだか十年程度でしょう。これからの人生何十年もあること考えたら、まあいいんじゃないの」
「美枝ちゃんって、意外と達観してるよね」
美枝ちゃんは、「意外とってなによ」と笑った。
「それくらい割り切ってないと、やってけないって。来年の今ごろになったら、私、ここで過ごしてたことなんて、まったくもって覚えてないと思うよ。新しいこと覚えるのに精いっぱいだろうし、どこ行ったってこんなのんびりしてるわけないし、お金入るし、仕事する分、ばんばん遊ぶし。こんなとこにいたって、せいぜいここで茶飲んでるくらいしかないじゃん。私はもういいよ、そんな生活は。青井さんだって、多かれ少なかれそう思ったんでしょう」
私が不服そうな顔をしていると、美枝ちゃんは、「まあ、あの人なら、なんでもそつなくこなすでしょうよ」と微笑んだ。
あの日の夕方、中村君がそろそろ明日のゼミの準備でもするかと、ふらっと研究室にやってきたとき、青井さんは、最後の段ボール箱に本を詰め終えるところだったらしい。仰天した中村君は、「なにやってんですか?」と訊くのが精いっぱいだったという。青井さんは、「片付け」と手も休めずに答えた。
中村君が、あたふたしながら廊下をうろついていたら、通りがかりの綿貫さんに会った。今見たことを話すと、綿貫さんは一瞬はっとしたようだったが、特に騒ぐこともなく、「じゃあ、今夜吞もうか」と言ったそうだ。
「綿貫さんだけは、どうやら知ってたらしいんだよな。『新しい仕事のこと、あんまり話したくないみたいだから、今日は訊かないようにしてもらえる?』ってみんなに言ってたし」
中村君は首を傾げて、視線を落とした。
「結局青井さん、自分からはなんにも言わなかったし。俺に見つかってなかったら、そのまま知らん顔して出てったのか? それは、いろいろあったんだろうけど、なんなんだよ、あの人。普段から礼儀がなってないとかさんざん人に言っときながら、自分はどうなんだよ。ひとことあいさつしてから去るのが筋だって、他人にだったら絶対言っただろうし、他人に注意するようなことは、絶対自分でも実行する人だったのにな。訳わかんねえよな」
私はなにも言い返せなかった。無理になにか言わないといけないのだったら、やはり、「本当、訳わかんねえ」とオウム返しにつぶやくだけだっただろう。
しかし、中村君の言ったことは、今までの彼からは考えられないくらいまっとうな意見だった。どうしてしまったのだろう。青井さんがいなくなって、彼もまた、見た目以上に混乱しているのだろうか。
青井さんは、もうちゃんとしてなくてもいいと思ったのだろうか。それとも、青井さんにとっても訳がわからないことで、柄にもなく混乱していたのだろうか。いつも淡々と守り続けた自分のペースを忘れてしまうくらいに。どうしてそうなったのかはわからないけれど、もはやあの人のいる場所は、ここではなくなっていたのだった。
青井さんは数日後、一人で引っ越していったらしい。みんな住処を知らなかったから、見送りようもなかった。研究室に姿を見せたのは、翌日先生にあいさつしに来たときが最後だったそうだ。ちょっと帰省してくるわ、くらいの勢いで、すっといなくなってしまった。
私は、結局あのガジュマロの木を、抜け殻ごと譲り受けた。そんなに大きな鉢ではなかったけど、今のままの机では置き場所がなかったので、半日かけて整理した。この机を使い始めてからまだ半年程度なのに、けっこういらないものがたくさんあって、驚いた。四月の時点の私には必要だったものが、今の私には、もはや必要ではなかった。でもまたなにかあるといけないから、もうちょっととっておこうか、などと迷いながら、ようやくガジュマロを置くスペースを捻出した。