第一話
土曜日も学校に来ている学生は、物好きなのか、ひまじんなのか。特に勉強熱心だから、ということではないのは確かだ。
普段はもう少しにぎやかなお茶部屋も、今いるのは美枝ちゃんと私だけだ。少し長めの息抜きの最中、話し声が途切れると、そこにあるのは静けさではなく、蝉の声である。
「青井さんいわく、私たちがやってることなんて、小学生が夏休みにやってる朝顔の観察日記と同レベルなんだってさ」
そう言いながら、美枝ちゃんはわずかにほっぺたを膨らませる。冷蔵庫から取り出したソーダをコップに注いでも水滴がつく気配はなくて、やっぱりこの部屋、相当冷えてるんだなと思う。顔を上げて首を傾げ、無言でなんのことか問う。
「ネット見てたら偶然見つけちゃったんだ。
ほら、青井さんブログやってるとか言ってたじゃない? もちろん、アドレス教えてもらったわけじゃないよ。たまたまネットサーフィンしてたらたどりついちゃったの。あんなこと書いてるんだもん、そりゃあ大学の人たちには教えらんないよね」
「どうやって探りあてたの?」
「べつに青井さんのブログを見つけたかったわけじゃないんだよ。クローブってカレー屋さんあるじゃない。あそこの口こみを調べてたら、いろいろ書いてあるブログを見つけたの。まあなかなか面白かったから、ほかの記事も読んでたんだよね。大学関係者っぽいなって思ってたら、朝顔の観察なんて書かれちゃって、そうなったらもう、誰だか特定するしかないでしょう?」
「まさか、本名出してそんなこと書いてんの?」
「さすがにそこまではしてなかったけど。青井さんの机って、やたらと観葉植物が置いてあるじゃない。その写真が載ってて、それを見て確信したの」
そんなのでわかるもんなの? と思う。一度だけ見たことがあるけど、確かに青井さんの机には観葉植物がたくさん置いてあった。植物の種類も鉢の大きさもばらばらで、どう見てもパソコンやノートを置けそうな状況ではなかった。本人はいなかったので、部屋にいた中村君に「ここでどうやって勉強するの?」と訊いたら、これは植物用の机で勉強用の机は別にあるのだと言われた。すぐ横にある勉強用の机は、確かにまあ普通だった。暖簾で仕切られて中がよく見えないものの、本がたくさんあるけどすっきりと片付いていた。そのちぐはぐな光景を見て、あっけにとられた覚えがある。
確かにあの机は個性的だったけど、あれだけを見てわかるものなのか。私の顔にハテナマークを見てとったのか、美枝ちゃんは再び話し出す。
「近所の雑貨屋さんで、可愛い植木鉢と受け皿のセットを売ってたのを、あの人が、私が買う前に買っちゃったんだよね。ずっと目をつけてたんだけど、千二百円もしたから散々迷って、やっぱり買うことに決めたら売れちゃってて。しかも一点ものだったみたいで、在庫もなかったの。がっかりしてたら、なんとあの人の机の上に置いてあるじゃない。あのときは、やられたって思ったよね」
「そんなに欲しかったんなら、とりあえずそのことを言ってみてもいいんじゃない?」
「いいよ、話しかけるの、なんか怖いし」
美枝ちゃんはいつの間にか、朝顔の観察と言われたことよりも、植木鉢を買われたことに腹をたて始めたようで「モロッコの街並みみたいにきれいな青だったのに」などとぼやいている。モロッコなんて、行ったことないだろうに。
「まあ、確かに小学生と比較するのはどうかと思うけど、どうせ一年や二年で、すごい研究なんてできるわけないのは確かじゃない。入門っていうか、考える訓練してるんだなってくらいでよくない? みんながみんな、青井さんみたいに研究者目指すわけじゃないしさ」
「森井ちゃんはいいね」
美枝ちゃんはそうつぶやいて、ソーダを飲み干すと、コップを洗って、「じゃあ私、そろそろバイトだから」と去っていった。
残ったソーダを飲み干すと、けっこう体が冷えていることに気づいた。冷房を消して、鳥首の薬缶に水を入れる。みんなで共用で使っている薬缶は知らない間に薄汚れてくるものだけど、いつの間にか汚れが落ちてピカッとしていて、あれ? と思う。水を入れるじょじょじょという音を聞きながら、水に空気がたくさん入っているほうが美味しくコーヒーが入るんだと、得意気に言っていた青井さんが思い浮かぶ。
薬缶を火にかけると、再びドアが開く。美枝ちゃんが去ったときよりも、控えめな音だ。 振り向くと、そこにいたのは綿貫さんだった。
綿貫さんは、大学四年生の私たちより二学年上の、大学院の二年生だ。穏やかに、ちょっと遠慮がちに入ってくる。優しい空気も一緒に運ばれてきたようで、ほっとした気持ちになる。もしかして、薬缶をこっそり磨いてくれたのも綿貫さんかもしれない。きっとそうに違いない。研究室のメンバーでそんなことをしそうな人は、ほかに思い浮かばない。
笑顔を作って迎えると、続いて青井さんが入ってきたので、思わず「あっ」と言ってしまいそうになる。噂をすれば影効果、恐るべし、だ。
青井さんは、去年の四月に、この大学にやってきたポスドクの人だ。他大学の大学院で博士号をとり、正式な就職先が見つかるまで、当面の間生活できる給料を月々もらいながら研究をしているらしい。ここが地元というわけではないようだし、所属している研究室の先生をすごく慕っているわけでもなさそうだし、なぜここに来たのか、正直なところ私はあまりよく知らない。青井さんが卒業したのは、ここよりも学力が高いといわれている大学だ。私たちは主に森や林の勉強をしているので、自然豊かな場所にあるこの大学のほうが、研究のための調査をしやすいと思ったのかもしれないが、どうなのだろう。
ここの卒業生ではないせいか、私たちに対しては、攻撃的とは言わないまでもそれほど友好的でもない気がする。廊下ですれ違ったときは会釈くらいするけれど、立ち止まって話したりすることはない。
実のところ、すれ違うときに会釈するのだって、あまりいい気のするものではなかった。もししていいのであれば、無視するか、視界に入った時点で回れ右して去って行きたいくらいだった。
見た目からすると、むしろ物静かで感じのいい人そうに見えるかもしれないが、私は苦手だ。面と向かって話したことは一度しかないけど、そのときの印象が最悪だった。
私たちのいる分野では、毎年四月と七月に定例のコンパがあって、他学年の学生や先生たちと交流を図る場となっている。三年生になったばかりのころ、その四月のコンパでのことだった。一次会は学生会館を借りて、二年生から四年生まで全員が集まって、先生も交えての立食パーティーがあった。二次会は、主に三年生が研究室を訪問して、ぞれぞれの部屋の雰囲気を肌で感じるのが通例だった。その二次会でのことだった。今いる研究室の先生と一年生のときからの知り合いだったこともあって、私はまず初めにこの研究室を訪れた。たまたまそこにいた三年生は私一人だった。誰が誰だかよくわからないまま、隣にいた人と話すことになり、それが、たまたまよその研究室からふらっと来ていた青井さんだった。